こんにちは、道場主です。
お久しぶりの更新では、『仮面ライダー鎧武』 の学術的考察をやります。
ただ、これまでのシリーズ作品との比較も行っていますので、
今回は厳しい意見となる事をご了承頂ければと思います。
楽しまれてる方も多いでしょうし、書こうかどうか迷ったんですが、
1つの意見として参考程度に留めて下さいまし。
それでは、どうぞ。
―――
さっそくですが、『鎧武』にもやはりストーリー背景が設定されていました。
自然科学における自由意志と因果的決定論ってやつです。
つい最近では『ドラゴンズドグマ』というゲームがこれを扱っていて、
こちらはニーチェの哲学を背景としておりましたが、
『鎧武』の方は数学者ピエール・ラプラスの言う運命論に近いと思われます。
どちらも神性が関わっている点に注目です。
決定論というのは、人間のなすべき事は予め運命によって決められている、
という、神託にありそうな予定調和的な考え方です。
『鎧武』では北欧神話の伝説をモチーフとした「ヘルヘイムの森」に侵略され、
死の運命を辿ろうとする文明社会に投影されています。
北欧神話にも運命の女神(ノルン)というのが居ます。
『ああっ女神さまっ』でおなじみ、ウルズ・ヴェルザンディ・スクルドの3姉妹ですね。
ノルンはそれぞれ、過去・現在・未来を司っていて、
ウルズが運命の長さを計り、ヴェルザンディがそれを糸に紡ぎ、
最後にスクルドが糸を裁断し、人間の寿命が決まります。
『鎧武』でも、3人ではありませんが、「運命」を口にする女神が登場しています。
運命の女神が紡いだ糸は、ヴァルハラの巫女が予言した
世界の終末(ラグナロク)にも繋がっていますから、
作中の舞台となる沢芽市も、終末に向かって突き進む運命が決められ、
アースガルズと同様に全てが崩壊する、と考えられます。
しかし、運命の決定は既に誤りである事が証明されています。
それが、1927年に物理学者のハイゼンベルクが提唱した不確定性原理です。
物理学の世界では、ニュートンの運動方程式によって
粒子の動きは先まで予測が可能であるとされていましたが、
ハイゼンベルクは量子力学からのアプローチから、
運動量と位置にズレが生じて予測が不可能である事を突き止め、
その結果、ラプラスの運命論は否定されました。
哲学の世界では早くから人間の自由意志が唱えられ、
神によって定められた運命から脱却し、その後の人生を
自らの強い意思で選び取る事を命題としてきました。
ハイゼンベルクの理論はそういった生き方を保障してくれたのだと言えます。
アーマードライダーになるベルトを手にした若者達は、
世界の行く末を知る女神から、運命の分岐点にあると忠告されます。
考え方は違えど、それぞれが強い意志を持って自分の人生を選び取る姿は、
終末に向かう沢芽市の運命も変えてくれそうな気がしますね。
―――
しかしながら、道場主の主観をお話ししますと、
これだけ背景が練られていても、今作は「面白くない」と感じています。
理由は、私が重視するのが表現力であるからです。
表現力とは、1つの描写だけで10の全てを伝える、
もしくは10の描写で1つの真意を伝える力であると定義しています。
過去のシリーズの『フォーゼ』で言えば、希薄化する現代の人間関係を、
古典的な熱苦しさによって修復する背景があったのですが、
それを台詞によって説明するのではなく、ブレザーを着る生徒の中に
ツッパリの学ランを混ぜるだけで表現しています。
主人公に吐かせる言葉は「友情」、たったこれだけです。
『鎧武』の場合、第20話で世界の秘密が語られるのですが、
それがユグドラシル側のキーマンから長々と説明される手法が取られ、
人物描写にはあまり時間が割かれていませんでした。
ミッチーと紘汰の驚きにも共感できないほどです。
呉島主任は世界の秘密はユグドラシル社が担うべきだと主張していましたが、
日本の国家予算がいくらあるか知ってますかって話ですし。
ダンスに興じる若者達も、本気でダンスに打ち込みたいのか伝わってきません。
作品テーマが自由意志の決定にありますから、
「俺達の居場所は俺達で守る」といった趣旨の台詞ではなく、
ダンス描写に自らの存在意義を決定する強い情熱が感じられなければ、
それらが空々しいものになり、説得力に欠ける訳です。
『めだかボックス』という漫画で、主人公の周囲の人物に太鼓持ちをさせて
主人公の凄さを説明するという手法が取られましたが、
『鎧武』に対しても、この漫画と同じ感想を持っています。
長年続いた平成ライダーシリーズにおいて、
人物描写やストーリー設定を説明以外の方法で表現した作品は、
いずれも素晴らしいものであると思いました。
今作も過去作品に負けないくらい、実によく練られた設定であると思います。
ゆえに、20話もかけて引っ張ってきた設定を、
たった30分の説明で終えてしまった事が残念でした。
お久しぶりの更新では、『仮面ライダー鎧武』 の学術的考察をやります。
ただ、これまでのシリーズ作品との比較も行っていますので、
今回は厳しい意見となる事をご了承頂ければと思います。
楽しまれてる方も多いでしょうし、書こうかどうか迷ったんですが、
1つの意見として参考程度に留めて下さいまし。
それでは、どうぞ。
―――
さっそくですが、『鎧武』にもやはりストーリー背景が設定されていました。
自然科学における自由意志と因果的決定論ってやつです。
つい最近では『ドラゴンズドグマ』というゲームがこれを扱っていて、
こちらはニーチェの哲学を背景としておりましたが、
『鎧武』の方は数学者ピエール・ラプラスの言う運命論に近いと思われます。
どちらも神性が関わっている点に注目です。
決定論というのは、人間のなすべき事は予め運命によって決められている、
という、神託にありそうな予定調和的な考え方です。
『鎧武』では北欧神話の伝説をモチーフとした「ヘルヘイムの森」に侵略され、
死の運命を辿ろうとする文明社会に投影されています。
北欧神話にも運命の女神(ノルン)というのが居ます。
『ああっ女神さまっ』でおなじみ、ウルズ・ヴェルザンディ・スクルドの3姉妹ですね。
ノルンはそれぞれ、過去・現在・未来を司っていて、
ウルズが運命の長さを計り、ヴェルザンディがそれを糸に紡ぎ、
最後にスクルドが糸を裁断し、人間の寿命が決まります。
『鎧武』でも、3人ではありませんが、「運命」を口にする女神が登場しています。
運命の女神が紡いだ糸は、ヴァルハラの巫女が予言した
世界の終末(ラグナロク)にも繋がっていますから、
作中の舞台となる沢芽市も、終末に向かって突き進む運命が決められ、
アースガルズと同様に全てが崩壊する、と考えられます。
しかし、運命の決定は既に誤りである事が証明されています。
それが、1927年に物理学者のハイゼンベルクが提唱した不確定性原理です。
物理学の世界では、ニュートンの運動方程式によって
粒子の動きは先まで予測が可能であるとされていましたが、
ハイゼンベルクは量子力学からのアプローチから、
運動量と位置にズレが生じて予測が不可能である事を突き止め、
その結果、ラプラスの運命論は否定されました。
哲学の世界では早くから人間の自由意志が唱えられ、
神によって定められた運命から脱却し、その後の人生を
自らの強い意思で選び取る事を命題としてきました。
ハイゼンベルクの理論はそういった生き方を保障してくれたのだと言えます。
アーマードライダーになるベルトを手にした若者達は、
世界の行く末を知る女神から、運命の分岐点にあると忠告されます。
考え方は違えど、それぞれが強い意志を持って自分の人生を選び取る姿は、
終末に向かう沢芽市の運命も変えてくれそうな気がしますね。
―――
しかしながら、道場主の主観をお話ししますと、
これだけ背景が練られていても、今作は「面白くない」と感じています。
理由は、私が重視するのが表現力であるからです。
表現力とは、1つの描写だけで10の全てを伝える、
もしくは10の描写で1つの真意を伝える力であると定義しています。
過去のシリーズの『フォーゼ』で言えば、希薄化する現代の人間関係を、
古典的な熱苦しさによって修復する背景があったのですが、
それを台詞によって説明するのではなく、ブレザーを着る生徒の中に
ツッパリの学ランを混ぜるだけで表現しています。
主人公に吐かせる言葉は「友情」、たったこれだけです。
『鎧武』の場合、第20話で世界の秘密が語られるのですが、
それがユグドラシル側のキーマンから長々と説明される手法が取られ、
人物描写にはあまり時間が割かれていませんでした。
ミッチーと紘汰の驚きにも共感できないほどです。
呉島主任は世界の秘密はユグドラシル社が担うべきだと主張していましたが、
日本の国家予算がいくらあるか知ってますかって話ですし。
ダンスに興じる若者達も、本気でダンスに打ち込みたいのか伝わってきません。
作品テーマが自由意志の決定にありますから、
「俺達の居場所は俺達で守る」といった趣旨の台詞ではなく、
ダンス描写に自らの存在意義を決定する強い情熱が感じられなければ、
それらが空々しいものになり、説得力に欠ける訳です。
『めだかボックス』という漫画で、主人公の周囲の人物に太鼓持ちをさせて
主人公の凄さを説明するという手法が取られましたが、
『鎧武』に対しても、この漫画と同じ感想を持っています。
長年続いた平成ライダーシリーズにおいて、
人物描写やストーリー設定を説明以外の方法で表現した作品は、
いずれも素晴らしいものであると思いました。
今作も過去作品に負けないくらい、実によく練られた設定であると思います。
ゆえに、20話もかけて引っ張ってきた設定を、
たった30分の説明で終えてしまった事が残念でした。
ご清覧ありがとうございました。