↑「未来」へと駆け昇るしんのすけ。
先日テレビ放送された『20世紀少年』についての考察です。
今作については、既に漫画論の上級編で取り上げていますが、
この時はシンボル哲学の教材として用いていたので、
作品の背景を「全て理解している」事を前提にした上での解説でした。
なので、今回は作品の背景について詳細に触れるのと同時に、
「ともだち」が目指した世界征服の目的に深く迫りたいと思います。
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まず明らかにしておきたいのは、原作・長崎尚志氏が1956年生まれ、
作者・浦沢直樹先生が1960年生まれで、共に学生闘争を経験していない、
「しらけ世代」と言われたポスト団塊の世代である事です。
主人公・遠藤ケンヂらも、1959年に生まれた世代とされており、
ここが『20世紀少年』を読解する上で極めて重要な点です。
『20世紀少年』には、色んな昭和文化が登場しています。
ボーリングブーム、大阪万博、ウルトラマンなどなど。
この時代を知っている人なら誰もが懐かしむ、古き良き時代の郷愁です。
ところが、いよいよ事件が動き出す1997年の時点で、
昭和時代から地元に根付いてきた地域文化である商店街は、
ケンヂの酒屋はコンビニに、マルオの文房具屋はファンシーショップになり、
会社員のヨシツネも、社内で疎まれ窓際に追いやられてます。
38歳になったケンヂ達は、親世代から受け継いだ昭和文化を甘受し、
その後に積み上げてきたものが、バブル崩壊によって全てを手放す事になった、
敗者の世代である事がことさら強調されているのです。
今作に出てくる昭和文化は、ケンヂ達が小学生の頃に経験したものがほとんどで、
中学生になった1972年より以降の文化は、思い出としては登場しません。
そんな中でも、この年代の思い出がたった1つだけ描かれており、
それこそがT.レックスの『20th Century Boy』に代表される、第一次バンドブームです。
昭和にとってのロックとは、グループサウンズに代わる新しい文化の創造でした。
しらけ世代は、時代を突き動かす熱意を失っていると言われていますが、
ロックだけは熱の入り方が違っていたそうで、数多くのロックバンドが結成され、
80年代の音楽ブームの基礎を築いていく事となります。
ケンヂが夢見たのは、ウルトラマンのようなヒーローになる事でした。
そしてロックこそ、時代を創出するヒーローになれる自己表現の方法であり、
ギターとピックはさながら、ヒーローになる為の変身アイテムでした。
けれど、ケンヂが時代を変える事は出来ませんでした。
ちょうどこの頃は、学園ドラマの表題から"青春"の2文字が消え去った時期。
熱しやすく冷めやすいのが最近の若者ってやつです。
頭の中では理想の自分になりたいと願っても、夢に向かってひた走るなんてせず、
厳しい現実を見据えて、自分の夢に折り合いを付けていくのが、
この世代が管理社会から学んだ処世術なのだそう。
21世紀に入り、これからケンヂ達の世代が新しい文化を創出していくはずでしたが、
ケンヂは大人になってからも、現実に頭を下げる選択を余儀なくされています。
バブル崩壊後の冬の時代に取り残された人達が思い出すのは、
日本中がこの世の春を謳歌していた古き良き昭和時代の郷愁であり、
その人類の進歩と調和の象徴である太陽の塔は、
しらけ世代に強烈なモラトリアムを残す事になったという訳です。
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時代の背景をおさらいした所で、続いて作中でヒーローとなった、
謎の覆面男・「ともだち」の目的を明らかにしていきましょう。
これはもうズバリ、「ともだち」は20世紀を21世紀にしたくなかったのだと思います。
だから20世紀の最後となる2000年12月31日に世界を終わらせた。
道場主は昭和生まれの平成育ちですが、私から見るとごく普通の光景に見える、
大小のオフィスビルが乱立する現在の日本の街並みは、
昭和育ちの人達から見ると、とても奇異に映っているそうです。
「ともだち」の作った2015年が、現代人にはとても奇異に見えるのと同じでしょうか。
若者の街として知られる渋谷のセンター街も、昔は閑静な住宅街であったらしく、
渋谷商店会がこの場所を「バスケット通り」に名前を変えたのも、
悪いイメージを変えるというより、回帰の意味合いが強いのでしょう。
『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズが3作続けて大ヒットするなど、
時代の郷愁を誘う昭和ノスタルジーは確実に支持されていて、
この時代に特別な想いを抱く人がいかに多いかをよく表しています。
「ともだち」の狙いも、時代を進めて新たな文化価値を生み出すのではなく、
昭和に巻き戻す事によって、モラトリアムを永遠に継続させる事にありました。
ポスト団塊世代にとって、まさしくヒーローであったのです。
実はこれと同じ事をやった人が、「ともだち」より前に居るんですよ。
劇場版クレヨンしんちゃんの第9作目『オトナ帝国の逆襲』に登場した組織、
イエスタデイ・ワンスモアのリーダー、ケンとチャコです。
もちろんこの組織の名前は、1973年のカーペンターズの名曲が基になってます。
↑オトナ帝国化計画を企むケンとチャコ。左の人どう見てもジョン・レノンよね。
ケンとチャコは、21世紀になった2001年に「20世紀博」を開催し、
そのシンボルタワーから昭和ノスタルジーを感じさせる匂いを発生させる事で、
古き良き時代に懐古心を抱く大人達を少年期の頃に退行させ、
未来へ進む可能性を閉じさせる、「オトナ帝国」化計画を実行します。
イエスタデイ・ワンスモアと「ともだち」にはいくつかの共通点があり、
・ 行動を起こしたのが21世紀になる節目の2000~2001年。
・ 昭和の町並みを21世紀の現代に再現した。
・ 再現しようとした年代が1970年の大阪万博より以前の頃である。
・ 自らを昭和風にオマージュしている。
などなど、行動原理が非常に似通ってますね。
しかし、ケンはしんちゃんのこの言葉に胸を打たれます。
> ケン
だめだ。
> チャコ
え?
> ケン
見ろ、匂いのレベルが…。
> チャコ
はっ…!
> ケン
町の住人達も、あいつらを見て21世紀を生きたくなったらしい。
> チャコ
嘘よ、嘘でしょ!? 私たちの町が、私たちを裏切ったって事!?
> ケン
そういうことだ…。みんな今までご苦労だった。
各自好きなようにしてくれ、外に行っても元気でな。
> チャコ
どうして…ねぇどうして!?
現実の未来なんて醜いだけなのに…!
> しんのすけ
オラ、父ちゃんと母ちゃんやひまわりやシロと、もっと一緒にいたいから…。
喧嘩したり、頭に来たりしても一緒がいいから…。
あと、オラ、大人になりたいから…。 大人になって、
お姉さんみたいな綺麗なお姉さんといっぱいお付き合いしたいから!
> チャコ
…おしまいね。
> ケン
…ああ、20世紀は終わった。
> チャコ
私…外にはいかないわよ。
> ケン
…わかった。
…坊主、お前の未来…返すぞ。
……。
思い出すだけで涙がちょちょぎれますなぁ…。
20世紀博のシンボルタワーの階段をぼろぼろになりながら駆け上がり、
家族と未来を取り戻す為に、心の叫びを訴えるしんちゃんの姿。
ともあれ、ケンはこの言葉を受けた後、チャコと一緒に飛び降り自殺を図ろうとします。
しかし、その足元にたまたま鳩が巣を作っていた事と、
チャコが「死にたくない」と本心をつぶやいた事から、飛び降りを断念。
20世紀の終わりを見届けるかのように、どこかへ去っていきます。
―――
さて、ケンヂによって計画を崩壊させられた「ともだち」はどうだったでしょうか?
「ともだち」は1960年代の昭和文化を21世紀に再現しています。
それに対し、ケンヂが持ち込んだロックミュージックは1972年以降の文化です。
ケンヂはこれをラジオを使って全国に流し、支持を集めました。
つまりケンヂは、新しい文化価値の創出によって時代が前へ進んでいる事を、
西暦が終わった時代で、もう1度再現させたのです。
しんちゃんが必死で訴えた未来の可能性のように、ケンヂもまた、
20世紀の郷愁のまま止まっていたモラトリアムの時代を、
しらけ世代と呼ばれた自分達の手で、21世紀へと進める事が出来たという事です。
最終巻では表題も、『20世紀少年』から『21世紀少年』に変わってます。
伏線が回収されていないといくつも検証されている今作ですが、
作中では既に未来への暗示がなされています。
例えば「超能力」。ストーリーの中ではよく分からない設定になっていますよね。
これもやはり浦沢先生によって仕掛けがなされており、
20世紀の文化の1つとして、"象徴"化されていると思われるのです。
浦沢先生や同世代の子供達、そしてケンヂとその仲間らは、
1974年に来日したユリ・ゲラーの超能力ブームを中学生の頃に経験しています。
「ともだち」は、その後に全国で発見される事となった、
清田益章氏に代表される超能力少年の1人であった事も明かされていて、
さらに、後に側近となる万丈目胤舟のプロデュースでテレビに取り上げられ、
他の子と同様に超能力のトリックを見破られる挫折を経て、大人になってます。
これって、要するに音楽で挫折したケンヂと同じなんですよね。
「ともだち」が小学生の1960年代に起きたミステリーブームの後釜として、
1974年の超能力ブームは新たな時代を築いていくはずでした。
ところが、いんちきがバレると状況は一変し、ブームも下火になります。
超能力は、21世紀にまで残りうる文化にはなりませんでした。
前述の清田氏に至っては、21世紀になってから脱・超能力者宣言までした挙句、
その3年後には大麻譲渡の疑いで逮捕される始末です。
しかし、遠藤カンナと神永球太郎の力は「ともだち」とは違います。
この2人が使っているのは、どう見ても本物の超能力です。
カンナは「運命の子」、神永は「神様」とまで呼ばれ、神格化されています。
では、なぜカンナが「運命の子」であるのでしょうか。
それは、「ともだち」が信じていた超能力が引き起こす超常現象を、
21世紀の時代に持ち込む事が出来る存在だからでしょう。
超能力は70年代文化の象徴であり、60年代をオマージュした「ともだち」にとって、
それは唯一と言っていい自己表現の方法です。
ロックがケンヂにとっての新しい文化価値の創出であるなら、
超能力は「ともだち」にとって、新しい時代を切り開く為の力でした。
本物の超能力者であるカンナは、その存在証明であったのです。
神永球太郎の「ボウリング」も同様です。
ボウリングブームでおなじみの中山律子さんのCMは、1972年の放送です。
ケンヂ達が小学生の頃に経験した昭和文化ではありません。
つまり、ボウリングブームは神様にとっての新時代の幕開けであり、
中山律子さんの再来である小泉響子は、やはりその存在証明であるのです。
ブームの年代を押える事が出来れば、きちんと読み解けるんですな。
以下は、原作を基にした考察ですので、映画版には関係ありません。
「ともだち」=フクベエの目的は、単に昭和のモラトリアムを継続させるだけでなく、
本当はカンナを使って自分の過去を他人に認めさせる事にあったのでしょう。
60年代の町並みの再現も、その布石にすぎなかったはずなのです。
ところが、夢を手中に収める直前でヤマネに暗殺され、その後の未来を、
超能力が使えないカツマタくんに"ともだち暦"として曲解されたのが、
「ともだち」事件の背後に隠された真相ではないでしょうか。
フクベエとカツマタくんの理想が完全には反り合っていないのは、
万丈目がともだち暦以降の「ともだち」が偽者だと気付いた事からも分かります。
万丈目はフクベエが超能力少年だった過去をよく知っているのです。
もしもフクベエが生きていたら、ともだち暦は共産的な社会ではなく、
お互いの価値を認め合える理想の世界になっていたかも知れませんね。
ご清覧ありがとうございました。