↑芸術美の粋を結集させた『けいおん!』、詩的ですらある。
「萌え」がパラフィリア(倒錯)であるとしたら、
あたかもそれが「エロ」であるかのようにユーザーに錯覚させる手法は、
90年代後半には市場として成立し、大きな成功を収めている。
これらはコミックマーケットを通じて二次作品化されていくのだが、
この時、多くの同人作品が「エロ」要素を再び付け足し、
エロパロディとして先祖返りを果たしているのだ。
アダルトコンテンツから全ての「エロ」を取り除いても、
ユーザーの倒錯によって「エロ」を補完する。
これがアダルトコンテンツと血を分けた美少女コンテンツの、
そして「萌え」の弁証法的な相関性である。
「萌え」は「エロ」と同じで、それさえあれば、
ストーリーテリングが無くとも作品としての体をなしてしまう。
しかし、当然ながらそのような引き算だけの構成ではなく、
残されたものをいかに純度を高めるかに主眼が置かれている。
こうした観点から、「萌え」史上における空前のヒット作・
『けいおん!』がなぜ大きな支持を集めたのかを探ってみよう。
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『けいおん!』の恐ろしさは、引き算の徹底と、
芸術美の粋と思えるほどまで高められた掛け算の構造にある。
ターゲットとなるユーザーが"不快"に思う描写を徹底的に排除し、
"快"に思う描写を、最高の作画・最高のキャラ・最高の演出で掛け合わせ、
100%に近い共感を得る相乗効果を生みだしているのだ。
『けいおん!』では、女子高生なら必ず通るであろう恋愛経験を、
登場人物の誰1人として通過していない。
そもそもこの原作には、男性キャラがほとんど登場しない。
主人公・平沢唯の父親、桜が丘女子高校の古文の先生、
楽器店の店員、コンビニの店員、この4人だけ。
ラフ画のみに登場した琴吹家執事、桜が丘高の校長と、
原作続編で出てきた純ちゃんの兄を含めても、たった7人。
舞台が女子高とは言え、男性の交友関係すら明かさぬ徹底ぶりだ。
次に、日常作品と言われながらも、トイレやお風呂のシーンが無い。
アニメ版で梓のトイレシーン、原作続編で浴場シーンが追加されたが、
それまで『けいおん!』には下の描写が存在しなかった。
男性キャラの件を含めても、他の萌え作品には、
例えば『あずまんが大王』の「よみ」が便秘だったり、
スタイルを気にしてダイエットしてたりするシーンがあるが、
この漫画はそれを意図的にカットしていると見られる。
さらには、過度な努力シーンが無い事も特徴のひとつだ。
『BECK』では主人公の「コユキ」が、バイトしてお金を貯めたり、
ギターの弾きすぎで指の皮が剥けたりする描写がある。
ところが、軽音部員は放課後の音楽室で皆で楽しくお茶を飲み、
陰で必死に練習しているにしても、表立った描写は抑えられている。
やはりこれも、伝えるべき必要の無いものとして、
作者が意図的に排除しているからだろう。
このように『けいおん』には、悪意、汚辱、苦痛など、
あらゆる"不快"な描写の一切が取り除かれ、
"快"の描写だけが選別され残されているのが分かる。
「桜が丘女子高」というユートピアを生み出す為の下地が、
引き算の徹底によって形成されているのである。
残された"快"の描写は、ここから更に純度が高められる。
『けいおん!』では、音楽的な役割がキャラとして与えられている。
リードギターが先行し、リズムギターがそれを追従し、
ドラムスは自分のペースを守り、ベースは周りの人に合わせ、
キーボードは後ろから見ている、といった感じ。
軽音部員の1人ひとりが楽器であり、軽音部自体が1つのバンドのように、
まとまりをより感じさせる為の横の繋がりが細かく設定されていて、
ユーザーが作品に入り込みやすい空気を生んでいるのである。
そこに、ユーザーが好みそうな猫耳やコスプレの要素も取り入れ、
いわゆる属性と呼ばれる演出効果でキャラへの感情移入を高めている。
例外的に沢庵の子だけは演出に失敗し人気を落としているが、
リズムギターの子を「にゃん」付けしたり、ギターに名前を付けたり、
キャラクターの付加価値を上げる試みはおおむね成功している。
その上で、アニメ版ではキャラクターデザインを手掛ける
堀口悠紀子が原作より優れた"黄金比"の絵柄を導入して、
極めて質の高いアニメーションをユーザーに提供している。
キャラ・作画・演出、完璧なまで三重奏。
まるで口どけする甘いチョコレートのようだ。
チョコレートの"素材"本来の味であるカカオの苦みを取り除き、
そこに甘さを加えて、最高のスイーツになるよう調味されている。
芸術美の粋を結集させ、甘美な世界を作り上げたのである。
『けいおん!』の悪い点をあえて挙げるなら、
展開の起伏に乏しく、作品としての変化が無い所か。
同じような"快"の描写を再生産して繰り返し使用しているので、
甘いのが苦手なユーザーからの共感は得にくいだろう。
ユーザーの嗜好は多々あれど、甘いもの好きにはたまらない、
そんな作品に仕上がっているのではないだろうか。
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だが、『ぢごぷり』は結果的に読者からの共感を得る事に失敗した。
起伏に乏しく、育児に疲れて落ちていくだけの暗い展開を、
これと逆の事をやったのが、『げんしけん』の作者・木尾士目が
『月刊アフタヌーン』で2010年まで連載していた『ぢごぷり』である。
『けいおん!』では"快"の描写を残して増幅させていたが、
『ぢごぷり』は"不快"な描写を残して増幅させている。
キャラ設定、属性効果、"黄金比"の絵柄を用いた点までは同じで、
あらゆる悪意、汚辱、苦痛を克明に表現する事を試みた。
例えるなら、カカオ99%のビターチョコレートだ。
だが、『ぢごぷり』は結果的に読者からの共感を得る事に失敗した。
起伏に乏しく、育児に疲れて落ちていくだけの暗い展開を、
甘味好きの読者にネガティブに取られてしまったのだろう。
この漫画は巻行2冊で打ち切られ、木尾は人気のあった
『げんしけん』の続編を新たに描いている。
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この漫画は巻行2冊で打ち切られ、木尾は人気のあった
『げんしけん』の続編を新たに描いている。
なぜ両者にこのような差が生まれた生まれたのだろうか。
ここでヒントとして出てくるのが、倒錯である。
プラス要素とマイナス要素、極性の違いはあれど、
『けいおん!』と『ぢごぷり』に用いられた技術は同じものだ。
だが不思議と『けいおん!』には萌えて、『ぢごぷり』には萌えない。
これは、『ぢごぷり』からは「エロ」を感じない事とイコールで、
すなわち倒錯が発生しないからであると考えられる。
『ぢごぷり』には、おっぱいがたくさん出てくる。
"黄金比"にとても近い絵で、ぷにゅぷにゅと柔らかそうに描かれている。
しかし、それらは例外なく授乳器としての機能を果たすのみで、
「エロ」としての倒錯は起きにくかった。
育児は、もれなく"快"と"不快"の両方がついてまわり、
"快"で得られる充足が大きいから、"不快"に耐えられるのだろう。
これまでの育児漫画は、その両極性をカバーし、
作品の"象徴"とする事で、多くの読者からの共感を得てきた。
しかし、どちらか一方を意図的に削ったとするなら、
穴埋めに別の何かを持ってこないと、作品として成り立たなくなる。
その補完こそが倒錯であり、『けいおん!』の「萌え」であった。
『ぢごぷり』は倒錯による読者の穴埋めがなされなかった。
ゆえに、同じ技術を用いた両作品に差が付いてしまったのだろう。
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こういった倒錯を一種の芸術美として感じさせるには、
外堀を隙間なく埋めるような周到さと、確かな技術が要る。
『よつばと!』の回で川端康成の共通例を挙げたように、
「萌え」にはモダニズム文学に通じる技術が実際に使われた作品もある。
俳句でも、17文字まで短く削り取った文章から
大きな世界を想像させる手法が古くから用いられており、
そういった意味では「萌え」は詩的であるのかも知れない。
『けいおん!』は、残したコンテクストが高いレベルでまとまるように
"快"の描写をひたすら描き続け、感情移入を高めている。
優れた作品であるならある程度のバランスを維持しているものだが、
狙ってやらなければ出来ないのが、"黄金比"のバランスである。
この作品は、原作者かきふらいと制作会社の京都アニメーションにより、
売れるコンテクストとして初めから計算されていたのだ。
この記事はアニプレッションに投稿しました。
※後記
アニメ版のトイレシーンにて、記載漏れがあったようです。
唯ちゃん達もトイレに行った事あるんですって…。
原作のコンテクストではこの違いは結構重要なんですけどね…。
ご清覧ありがとうございました。