↑「フェチすぎる野球マンガ」として紹介された本作。
その本質はどこにあるか。
オリンピック競技から野球が除外された理由をご存知でしょうか。
人気や競技人口は、実は小さな問題に過ぎません。
野球の世界組織である国際野球連盟・IBAFは5大陸130カ国が加盟しており、
そのうち77カ国では国内リーグ戦を実施、
IOCの求める3大陸50カ国規定をクリアしているからです。
では、なぜ除外に至ったのか?
理由の1つは、「女子種目の規定が最も遅れた競技だから」です。
背景にあるのは野球競技の国際ルール導入への遅れで、
アレクサンダー・カートライトが1845年に作った塁間距離などの他は、
細かいルールのほとんどが世界共通ではない為に、
ストライクゾーンや使用する用具ですら曖昧なまま、
国際基準に合わせる為に導入された統一球を使う事にも批判が出るのが、
野球という極めて保守的なスポーツなのです。
こんなんでよく国際大会とか開けるよねっていつも疑問。
当然ながら女子種目の規定も進むはずもなく、
男子は野球、女子はソフトボールという二分化が進みました。
エレン・ウィレ女史の呼び掛けで男女同一ルールを採用したサッカーや、
その後のなでしこジャパンとの活躍と比較すれば、
IBAF女子ワールドカップで日本が3連覇を果たした女子野球なんて、
あれ? 女子ってソフトをやるんじゃないの?
という認識がまず最初に出てくる、悲しいほどの低い知名度しかありません。
女子選手も男子と同じように野球をやるべきだと、
IBAFが国際的な働きかけを始めたのは、2000年代に入ってから、
女子サッカーより実に10年以上も遅れての事です。
漫画やアニメには、水原勇気やメロディちゃんなど、
男子選手と同じ舞台に立ったプロの女子選手が居ますが、
現実では1991年の野球協約の改訂まで、女性はプロになる事を、
何とルールの上で認められていませんでした。
高校野球に至っては、女子選手のメンバー登録と公式戦出場を、
高野連の大会参加者資格規定により、いまだに認められてはいません。
それどころか、練習試合ですら相手校の事前承諾が必要です。
多くの女子選手は、中学まで野球をやっていても、
高校ではまず続けられないので、ソフトに行くしかないのです。
現在のオリンピックでは、こうした性差別を撤廃する動きがあり、
「男女同一のルールで行う」ことは特に重点となります。
男子は硬式野球を、女子はソフトをやってる実態がある野球競技は、
オリンピック種目として相応でないという判断が下されました。
今回は、野球界に横たわる暗黙のルールを踏まえながら、
高校野球における女子選手という存在の特異性をあぶり出した作品、
『高校球児ザワさん』を評してみたいと思います。
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何を隠そう、道場主はソフトボールの選手でした。
五輪競技から除外されていなかったら、今でも続けていたでしょう。
社会人の道を断念してスポーツ関係の新聞記者になりましたが、
やはり、ソフトも野球も大好きだからこそ、
スポーツに関われる仕事を選んだのかも知れません。
『高校球児ザワさん』の主人公・都澤理沙ちゃんも、
ただ野球が大好きだという理由で、公式戦に出られないのを知りながら、
野球エリートの兄を追って甲子園常連の強豪校・日践学院に入学し、
男子選手に混じって、日々練習を続けています。
女子選手と男子選手の運動能力を比較すると、
「女松坂」の異名をとった小林千紘投手の球速が130キロ台ですから、
女子のトップ選手が、男子中学生と同じくらいだと考えて下さい。
サッカーでも、なでしこジャパンが高校生と試合をしたら、
高校生の方がメタメタに勝ちます。それほど男子と女子は違います。
しかしそれはトップレベルを比較した場合に限ります。
そこらへんの高校に130キロ投げられる選手が入学すれば、
公式戦の登板機会なんていくらでもあります。
ゆえに、130キロ投げられない男子が規定上ではベンチ入り可能なのに、
130キロ投げる女子がその機会すら与えられないのは、
高野連め…ぐぬぬ、と思いたくなるのが女子選手の必定ですよね。
理沙ちゃんが他と違う点は、入学したのが野球の強豪校であった事です。
インタビューで「実戦では使えない」と自己評価を下した通り、
仮に理沙ちゃんが女子のプロ選手並みの力を持っていたとしても、
「130キロの投手」では、地区予選を勝ち抜くどころか、
強豪校ゆえに、実戦に登板させてもらえる事すら難しい。
『ザワさん』の特徴は、フェミニズム観点の一切を排除している点です。
理沙ちゃんは日践学院硬式野球部の一員として、
思いっきりビンタされる事もあれば、罰として坊主になる事もあります。
完全な男女同列の極めて過酷な環境の中で、男子選手から浮いて見えてしまう、
気になって気になってしょうがない女子選手の特異性を、
理沙ちゃんの周りの男子選手の視点から、毎回8ページずつ描いています。
―――
さて、第三者の視点から対象となる人や物を描くのは、
『よつばと!』の回で解説した通り、あの川端康成も用いた、
モダニズム文学の典型的な手法ですね。
探偵シャーロック・ホームズがいかに頭が切れるかは、
助手のワトソンの視点から描かれる事で、より強調されて伝えられます。
ワトソンのズボンの裾に付着していた泥の撥ねを観察して、
ワトソンがロンドンのどこを散歩していたのかを言い当てる事は、
地質学に精通するホームズにとって朝飯前なのですが、
ワトソンにとっては驚愕する他ありません。
読者である私達も、どちらかと言えばワトソンと同じ凡人ですから、
ワトソンの視点で描く方が、その驚きに共感できるという訳です。
作者のコナン・ドイルは狙ってこれを書いています。
同様に、女子である理沙ちゃんが頭を坊主に丸めるのは、
男子部員にとっては「うわぁ…」と、思わず言いよどんでしまう事件です。
女性にとって頭髪は、命に例えられます。
AKB48の峯岸みなみさんが懲罰で坊主にした時は、
AKBファンのみならず、国内・海外に大きな波紋を呼びましたよね。
理沙ちゃんは他の男子部員と同じ単なる野球バカであり、
ごく普通に野球に打ち込んでるだけなのですが、
野球という男社会の中では、女子選手の存在は異端そのもの。
まして女性が坊主にするなど、正気の沙汰ではありません。
その他、勝負事に対して貪欲であったり、
女として扱われる事に戸惑いを隠せなかったり、
チームメイト達が発見する、理沙ちゃんに対する驚きは、
「野球は男性がやるもの」と固定観念を持っている一般読者にも、
そっくりそのまま、ストレートに伝えられます。
モダニズム文学において、"発見"の楽しさを教えてくれたのは、
アイルランド出身のジェームズ・ジョイスという作家です。
ジョイスは、故郷・ダブリンの町を散文に残す事で、
ダブリンとそこに住む人達の特徴を"発見"していきました。
そして1914年、短編集『ダブリン市民』を発表。
老若男女さまざまな点景から織り成されるストーリーによって、
ダブリンとはどういう町であるのかを、浮き上がらせるように書いています。
ジョイスはこうした"発見"の事を、エピファニー(顕示)と呼んでいます。
エピファニー文学は、小さな"発見"を積み重ねる事で、
全体の大きなイメージを類推させる文学です。
『高校球児ザワさん』はジョイスと同じ文学技術が用いられている作品で、
エピファニー文学そのものと言っても差し支えありません。
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「萌え」も、伝統的に第三者の視点から描写されています。
ですが、もともとこれは主人公から主体性を奪ってキャラを薄めた上で、
ヒロインとなる人物像に主体性を移し、より萌えさせるように生み出された、
モダニズム文学と関わりない、キャラクター性に誘導する為の技術です。
ここから文学に転じさせるには、各々のキャラクターに対して、
ジョイスのような鋭い洞察が加えられる必要があります。
ところがこうした作品群は、属性によってキャラを差別化する事にのみ腐心し、
心理状態が深く掘り下げられる事はめったにありませんでした。
かつては『ザワさん』も萌え作品の一部として捉えられ、実際にメディアからは、
脇の処理の甘さやアンダーシャツから浮き出た肢体を克明に描いた、
「フェチすぎる野球マンガ」として紹介されました。
「萌え」を下地とした作品群からは、まったくの偶然ながら、
『ザワさん』のように、たまに文学の域にまで高じた作品が出ます。
『ザワさん』が本当に伝えたかったのは、理沙ちゃんのフェチっぷりではなく、
野球競技が置かれた性差別の問題であったと思います。
ジョイスがダブリンの町の抱える停滞問題に直接言及する事なく、
第三者の言動に反映させる形でそれを抽出させたように、
野球界の封建的な性差別を、理沙ちゃんの障害として描く事で、
読者の誰もが、問題として"発見"に至ります。
作者の三島衛里子先生が、ジョイスと同様に点景で野球を洞察していたから、
野球について深く考えさせられる作品になったのでしょう。
ポスト萌えは、こういった所から生まれるのかも知れませんね。
さて、五輪復帰を目指して男女同一ルールの採用を決めた野球競技ですが、
この度、野球のIBAFはソフトボールのISFと統合し、
今年4月に世界野球ソフトボール連盟・WBSCとして発足しました。
試合時間短縮の為、五輪ではソフトボールの方に合わせて7回制になるそうです。
これに非難ごうごうなのが、野球ファンのおじさま方。
男社会の面子として「そんなの野球じゃねぇ」とのたまっております。
そもそも、野球競技自体がでたらめなルールの下でやってたんですから、
ルールを体系化する事には前向きであってもらいたいものです。
ご清覧ありがとうございました。