↑まるで文芸小説に挿絵が付いたかのような表現力。
アナタの居場所なんて、この世の何処にも無いんじゃない?
桐山くんの心を支配しているのは"自己否定"だ。
桐山くんも同じだ。義理の家族の家を出てから、
1人暮らしを始め、高校にも通うようになるのだが、
結局そこでもずっと孤独に、自分をひたすら消して生きた。
自分はカッコウと同じだと"自己否定"する事で、
自分のせいで将棋を諦めた義理の姉の面目を保とうとしていた。
桐山くんも何も無い部屋の中で、孤独に喘いでいた。
必死に泳いで空虚な生活から逃げてきたのに、
泳ぎ着いた先もやっぱり何も無い無人島だった。
将棋だけが自分が生きている存在意義だったのだが、
自分の存在を消して"自己否定"をしていた桐山くんは、
将棋においても自分を大切にしなくなった。
二階堂くんも桐山くんと出会う前は、難病で友達が作れず、
盤上で強くなる事だけが拠り所のひねくれてた子だったのだが、
自我のカタマリに成り果て、孤独だった二階堂くんの
アタマをかち割り、救ってくれたのが桐山くんだった。
「先生」が「K」を理解する唯一のチャンスの時に
自分のエゴイズムを優先させてお嬢さんに求婚したように、
桐山くんも二階堂くんの言う自我のカタマリになっていて、
二階堂くんと同じ孤独を背負い込んでいたのに、
そこからずっと目を背け、逃げ続けていたのだ。
―――
そんな時、二階堂くんが新人戦の準決勝で倒れ、入院した。
「K」は死を選ぶ事で"自己否定"を完結させたが、
二階堂くんは倒れるまで自分の生きる証である将棋を指し続けた。
桐山くんは死の影が忍び寄る二階堂くんの残した棋譜を見て、
桐山くんは「先生」のようにはならなかった。
孤独の中で思い出したのは独りぼっちの苦悩ではなく、
孤独と戦いながら生きてきた人達の事だった。
彼はついに"自己肯定"に至り、自分を守る術を知る事で、
自分の心を取り戻したのである。
『3月のライオン』は、夏目作品とも比較できるくらい、
心象描写に優れ、メッセージが読者の心に深く刻まれる。
同じ"自己否定"から"自己肯定"に至った作品なら、
最近では『新世紀エヴァンゲリオン』が有名だが、
『3月のライオン』がこれだけ分かりやすいのと比べたら、
『エヴァ』はとても分かり難い作品だと言える。
なぜか?
解釈項の中に、余計なステップが混じってるからである。
『3月のライオン』の作者である羽海野チカは、
文芸小説に用いられる叙述的な心象描写を、
そのまま絵に表す事の出来る、表現力の高い漫画家だ。
一手一手、まるで素手で殴ってるような感触がした、とか、
香子はひびの入ったグラスみたいな女の子だった、とか、
いかにも小説的な比喩表現を使っている文章に、
硬く握り締めた拳の絵や、半ばまで脚が水に浸かった絵など、
描画技術によって的確に心象状態が表されている為、
登場人物の気持ちがとてもよく伝わってくる。
こういった描写に優れた作家は女性の漫画家に多いが、
その多くが恋愛の話に依存して共感を得ているのに対し、
羽海野はプロットまでもが小説の組み立て方と同じで、
テーマ性に主眼が置かれているのが特徴である。
―――
『3月のライオン』は夏目漱石の『こころ』に似ている。
「家も無いし」
「家族も無い」
「学校にも行って無い」
「友達も居無い」
アナタの居場所なんて、この世の何処にも無いんじゃない?
という義理の姉・香子の台詞で始まる本作。
主人公の桐山零くんは、そんな言葉を思い出しながら、
引っ越しの荷物も未開封のまま、窓にはカーテンも付いてない、
カーペットもない床板に直に敷いた布団の上で目覚める。
桐山くんは幼くして家族を交通事故で亡くした事で、
父の親友だった将棋一家の養子になり、そこで
あまりの将棋の強さゆえに義理の姉弟から嫉まれる。
桐山くんの心を支配しているのは"自己否定"だ。
そしてそれは夏目漱石の生涯のテーマでもあった。
漱石の作品は"自己肯定"か"自己否定"のどちらかがテーマで、
『坊ちゃん』が"自己肯定"の代表格であるとするなら、
『こころ』は"自己否定"の精神が最もよく表された作品だ。
「K」は"自己否定"をしながら道を求め続け、
それが叶わずに最期は自分の存在を自分で絶った。
「先生」は「K」の自殺を自分のエゴイズムのせいだと考えるも、
苦悩の末に、やがて「K」と同じ"自己否定"に行き当たる。
桐山くんも同じだ。義理の家族の家を出てから、
1人暮らしを始め、高校にも通うようになるのだが、
結局そこでもずっと孤独に、自分をひたすら消して生きた。
自分はカッコウと同じだと"自己否定"する事で、
自分のせいで将棋を諦めた義理の姉の面目を保とうとしていた。
―――
「K」は自殺する日の晩、隣の部屋で寝ている
「先生」との間に仕切られた襖を少しだけ開けている。
誰も寄せ付けず、ずっと心を閉ざしたままだった「K」は、
「先生」にだけは心の襖を開いていたという事だ。
「先生」もまた自殺する前に、妻にも開いていなかった心を、
"遺書"という形で書生の「私」に残している。
「K」と同じ孤独を抱えながら、「K」を理解しなかったのが、
「K」の自殺を通じてようやく孤独の意味を理解したのだ。
桐山くんも何も無い部屋の中で、孤独に喘いでいた。
必死に泳いで空虚な生活から逃げてきたのに、
泳ぎ着いた先もやっぱり何も無い無人島だった。
将棋だけが自分が生きている存在意義だったのだが、
自分の存在を消して"自己否定"をしていた桐山くんは、
将棋においても自分を大切にしなくなった。
だけど、桐山くんには二階堂くんが居た。
桐山くんの心の中にぐいぐい上がり込んでいって、
何も無い部屋にソファーベッドと羽毛布団を置いて帰る。
「K」が「先生」の部屋の襖を開けていたように、
この心の距離感が2人の関係性を表現している。
二階堂くんも桐山くんと出会う前は、難病で友達が作れず、
盤上で強くなる事だけが拠り所のひねくれてた子だったのだが、
自我のカタマリに成り果て、孤独だった二階堂くんの
アタマをかち割り、救ってくれたのが桐山くんだった。
桐山くんの将棋がおかしい事に気付いた二階堂くんは、
自分の将棋を大切にしてくれ、と桐山くんに訴えかける。
それに対して桐山くんは、自分の事で一杯いっぱいで、
二階堂くんの言葉の意味を理解しなかった。
「先生」が「K」を理解する唯一のチャンスの時に
自分のエゴイズムを優先させてお嬢さんに求婚したように、
桐山くんも二階堂くんの言う自我のカタマリになっていて、
二階堂くんと同じ孤独を背負い込んでいたのに、
そこからずっと目を背け、逃げ続けていたのだ。
―――
そんな時、二階堂くんが新人戦の準決勝で倒れ、入院した。
「K」は死を選ぶ事で"自己否定"を完結させたが、
二階堂くんは倒れるまで自分の生きる証である将棋を指し続けた。
桐山くんは死の影が忍び寄る二階堂くんの残した棋譜を見て、
戦ってるんだ
みんな たったひとつの
小さな自分の居場所を
勝ちとるために
と、自分への決意を固める。
そして決勝戦での対局中、また自暴自棄になって
自分を見失うような強引な一手を打とうとした
桐山くんのアタマを、自分を大事にしてくれ、と言った、
二階堂くんの言葉がかち割ったのだ。
桐山くんは「先生」のようにはならなかった。
孤独の中で思い出したのは独りぼっちの苦悩ではなく、
孤独と戦いながら生きてきた人達の事だった。
彼はついに"自己肯定"に至り、自分を守る術を知る事で、
自分の心を取り戻したのである。
―――
『3月のライオン』は、夏目作品とも比較できるくらい、
心象描写に優れ、メッセージが読者の心に深く刻まれる。
同じ"自己否定"から"自己肯定"に至った作品なら、
最近では『新世紀エヴァンゲリオン』が有名だが、
『3月のライオン』がこれだけ分かりやすいのと比べたら、
『エヴァ』はとても分かり難い作品だと言える。
なぜか?
解釈項の中に、余計なステップが混じってるからである。
『エヴァ』と読者が共通認識で結ばれる為には、
フロイトの心理学やキルケゴールの実存哲学などを
読者が予め知っている必要がある。
つまりこう↓
【3月のライオンの解釈項】
"象徴" → 記号化 → "象徴"の理解
【エヴァの解釈項】
"象徴"→ 学論 → 記号化 → 学論への理解 → "象徴"の理解
"象徴"をそのまま叙述や映像で記号化しているものは、
絵や文章を見るだけでそれが伝わり、理解が出来る。
『3月のライオン』はそういう作品だから分かりやすい。
しかし、"象徴"が薄まったりブレたりした時や、
叙述や映像が"象徴"ではない別の何かを表している時など、
それを読み解くのが困難になる場合がある。
次回は、『HUNTER×HUNTER』がなぜ分かり難くなったのかを、
『ジョジョの奇妙な冒険』と対比させながら解説してみる。
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