↑見よ、このドヤ顔!
日本のコンテンツ産業が、今後どうあるべきか。
漫画やアニメ、ゲームといったサブカルチャーに対する議論も、
現在では政府の主導によってなされているが、
はたして、官民一体となった対策の立案には至っていない。
そうしたギャップが生まれる要因がどこにあるのか、
『へうげもの』の古田織部正重然と時の権力者との交わりから、
詳細に見ていきたいと思う。
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日本が歩んできた文化史を紐解けば、いつの時代も「もの」を通じて、
歴史やそこに関わった人物のひととなりを見る事が出来る。
茶人・神谷宗湛は『宗湛日記』にて、慶長4年(1599年)2月28日、
古田織部の茶会で初披露された織部黒の沓型茶碗を、
「ウス茶ノ時ハ、セト茶碗ヒツミ候也、ヘウケモノ也」と評している。
つまり、「歪んだ瀬戸物茶碗が面白おかしい」と。
古田織部という人は、武野紹鴎を師に持つ父・重定の影響を受けている。
紹鴎の師は、侘び茶の開祖と言われる村田珠光であり、
紹鴎の弟子は、茶聖と称せられたかの千利休であるのだが、
作中でもその数奇(変人)ぶりは「父親譲り」とされ、
織部自身も38歳の時に利休に弟子入りしている事からも、
元々のルーツは侘び茶にあったのが分かる。
しかし、織部の作った「もの」は、室町の潮流として栄えた東山文化とも、
そして絢爛な華をあしらえた織豊・桃山文化とも異なる意匠が凝らしてある。
当時の時代の背景として「かぶきもの」=数奇に傾倒した者が居たのは、
『花の慶次』などのヒット漫画作品でも知られているが、
織部もまた、伝統と格式を重んじた茶の湯に対する「へうげもの」=数奇者として、
独自のフォーマットを築こうとしていた人物だったという事が、
織部焼と称される歪んだ茶碗から見て取れるだろう。
古田織部や千利休らは、時の権力者である羽柴秀吉らに重用されている。
文化人の支持を取り入る為に政治利用されていた茶の湯であったが、
その背景となる"数奇"は充分に理解をされていた。
『へうげもの』では、秀吉はセンスが壊滅的に乏しい人物として描かれている。
> むさい…なんともモリッと冴えない茶碗だぞこりゃあ…。
ザリッとした無釉の骨気が魅力の備前焼なのだがな…。
目かけてくれた羽柴さまには悪いが…これは俺の蒐物集には加えられんの…。
このように織部にがっかり茶碗を与えて嘆息を吐かせているものの、
数奇に対する理解として数奇者が喜びそうな「もの」を
天下を治める為に活かしていた事が、よく表されているだろう。
『へうげもの』の「もの」とは、器物を評価する時に使われた言葉であるが、
作中ではひょうけた人物、つまり数奇者を指す言葉として使われており、
「もの」に込められた人物背景まで丁寧になぞらえてある。
古田織部が織部焼を完成させる事が出来たのは、
数奇というフォーマットへの理解が下地にあり、
それらが生み出す「もの」への理解があったからに他ならない。
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ジャパンフォーマットを活かす道として、漫画やアニメを政治利用し、
海外に向けて積極的に輸出していく方策は正しい。
現政権を羽柴秀吉としてとらえれば、秀吉がいかにセンスが無くとも、
文化保護と育成の対象にサブカルチャーが選んだのには、
これまで受けてきた偏見に鑑みると、大きな進歩を遂げたと言えよう。
しかしながら、政策を打ち出して既に2年。
これまで何の進捗も伺えないのには、偏見と理解とのギャップが
未だに埋められない事実を如実に物語っているだろう。
有態に言えば、どう扱っていいのかさえ分かっていないと見られるのだ。
ジャパンフォーマットは、信頼の上に成り立っている。
製造業界では「チャイナリスク」なる言葉がまことしやかに囁かれているが、
他国と日本の決定的な違いが、この信頼性(リライアビリティ)である。
折りしも世間では中韓の政治的アピールが立て続けに発生し、
韓流ドラマの放送が見合わされるなどの措置が取られているが、
現在の韓流文化の広まりは、2003年から始まった以前のブームの延長線上には無く、
08年の世界不況以降の円高・ウォン安を背景にした、
韓国の外貨獲得の政策としての文化輸出が奏功したものだ。
この国にもやはり、「コリアリスク」とも言うべきリライアビリティの問題が存在し、
国際舞台の上で信頼を損なう行いを簡単にやってしまう。
かつてはリスクの上において中韓の製品は回避されていたが、
他国が不況に喘ぐ間に、中韓は日本やアメリカでリストラされた技術者を受け入れ、
たった5年で世界を席巻する技術力を付け、安さと両立させた。
技術立国と言われた日本は信頼の上に胡坐をかき、開発を怠ってしまった。
今や世界の下請けを担うのは、中韓である。
コンテンツ産業でも全く同じ構図が生まれている。
高額な人件費に苦しむテレビ業界を中心に、安価な韓流文化は持て囃され、
素材面でビジネスリスクの低いK-POPなど輸入してきたのだが、
その裏で、自国のコンテンツをここ5年間まるで育ててこなかった為に、
アジア事業展開において大きな差を付けられてしまった。
クールジャパン政策は、「空白の5年間」を取り戻す為の、
生き残りを賭けた戦いでもあるのだ。
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韓流文化が多額の宣伝費をかける理由は、ただ1つ。
そうしなければ、世界の注目を自分達に向ける事が出来なかったからである。
日経新聞によると、韓国のコンテンツ関連の予算は200億を越えていて、
日本の予算規模のおよそ8倍なのだそうだが、逆に言えばこれは、
日本は8分の1の予算で、世界と戦える訴求力を生み出せているという事だ。
いかにジャパンフォーマットが他国に信頼されているか分かるだろう。
コリアフォーマットと比較すれば、リライアビリティの差がより明らかとなる。
中韓ではコピー品が濫造されてきた背景があるが、
K-POPもやはり、J-POPの「モノマネ」であるという認識が欧米ではなされている。
剽窃作品として有名な『テコンV』も、日本のアニメが元なのは言うまでもない。
つまり、韓国はオリジナルフォーマットを生み出す力が欠けているのだ。
日本では古来から、他国の文化を輸入し、それをアレンジして、
自国の文化を新たに生み出す力を持っていた。
再度、『へうげもの』を見てみよう。
古田織部は、唐物(中国産の陶磁器)の良さを理解しながらも、
「欲しいものは自分で作るしかない」とし、
師匠である千利休の侘び数奇の良さも取り入れながら、
オリジナルフォーマットである織部焼を生み出した。
織部焼を実際に目にするとよく分かるだろうが、これを見て、
絢爛な唐物や静謐な侘び数奇の「モノマネ」だと言う人がいるだろうか。
器の歪みと革新的な図柄が幾何学的なバランスのもとで成立した、
破調の美を基調とした名品である。
古田織部は、織部正(染織物の官)という官職を秀吉から与えられ、
侘び数奇に代わる新しいフォーマットの創出を命じられると、
織物関係のデザイナーとのコネクションを通じて、
「織部十作」なる宗匠らを、いわゆるプロデューサー的な立場で支援し、
江戸時代に続く陶芸文化の育成に多大な功績を残した。
江戸時代では陶芸は藩のお抱えとなり、大量生産を目的に分業化されたが、
例えば皿物しか作っていなかった九州の陶工の中から、
「西の仁清(京焼)」と呼ばれる現川焼がいきなり出てきたり、
オリジナルフォーマットを作る意識が後の時代まで極めて高かった事が分かる。
これもやはり、各々の藩が陶芸文化を推奨していたからだろう。
利休や織部の文化育成の貢献が、こんな所にも現れている。
日本は他国の著作権を侵害する事なく、オリジナルの文化を作り出してきた。
世界から信頼されるのは、こういった理由だろう。
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現在のクールジャパンは、どのように文化育成をしていくか、
実はまだ内容を精査している段階である。
そして政府の平成24年のアクションプランの中には、
具体的な政策として漫画やアニメ文化の育成計画が含まれていない。
それどころか、輸出の計画すらままなっていない。
重点政策として挙げながら、なぜこのような遅滞が生まれるのか。
これは単純に、四方に資金を回せるだけの潤沢な予算を確保していないからだ。
クールジャパンは、成長戦略が取りたくても取れない状況にある。
ジャパンフォーマットは確かに世界に信頼されているだろう。
韓国の予算の8分の1しかなくても、世界中のバイヤーが日本に買い付けに来る。
しかし、信頼の上に胡坐をかいて研鑽を怠っていたらどうなるか、
製造業で痛い目を見た今なら分かるはずである。
口では文化事業の重要性を説きながら、お金は出さない姿勢を崩さない。
政府高官も内心では、漫画やアニメを低く見ていると見ていい。
その証拠に、議員事務室に漫画が置いてあるだけで国会で答弁するほどだ。
豊臣秀吉は桃山時代の文化育成に糸目を付けなかったが、
現代の権力者は、コンテンツ産業が自動車に代わる
輸出産業の枢軸になるとは、誰も本気で考えていないのだろう。
そうこうしている間にも、コンテンツ産業全体が縮小化してきている。
今必要なのは、輸出の拡大を図って外貨を獲得する事でなく、
コンテンツ産業に関わる人材を予算を組んで支援し、育成していく事である。
さて、『へうげもの』には作品権利に関する逸話がある。
NHKがアニメ化する際、第11話から作者と出版社のクレジット表記を外したのだ。
国営放送局までがサブカルチャーに対するリスペクトを欠いているのが、
悲しいかな、日本という国の現状である。
私の願いは、頭で数奇を理解しようと努めた『へうげもの』の権力者のように、
クールジャパンがサブカルチャーと真に向き合ってくれる事だ。
古田織部が秀吉に忠誠を尽くしたのは、秀吉が織部の「友」であったからで、
それぞれの違う価値観をお互いに認め合ってきたからだ。
政府は信頼に背を向けたままである。これでは誰からも信頼は得られないだろう。
ご清覧ありがとうございました。