↑オスカルは女性の身である本然を受け入れている。
"女性らしさ"とは何であるか。
これを明らかにする為に、まず少女漫画界における不朽の名作、
『ベルサイユのばら』を見る事にしよう。
『ベルばら』の主人公であるオスカル・フランソワは、
伯爵家の令嬢でありながら男性として育てられ、
フランス王家に仕える軍人でありながら、革命軍に就いた。
ちょうどこの頃、女性の在り方を問う出来事が起こる。
オスカルが銃弾に斃れるバスティーユ監獄襲撃から6週間後、
法の下の平等を掲げたフランス人権宣言が採択されるのだが、
人権宣言によって保障された権利は「男性」だけが有するものだった。
この事が、多くの女性有識者からの反発を招き、
200年にも及ぶフェミニスト運動の引き金となったのである。
フェミニズム運動の先駆者であるメアリ・ウルストンクラフトは、
こうした人権宣言にはらむ性差の矛盾を指摘し、
特に、この宣言の論理的基盤となった『社会契約論』のルソーが、
プライベートでは愛人テレーズに5人の子を産ませながら
いずれも認知しなかった事について、男性が女性に要求する
従属的な愛からの独立を訴え、痛烈に批判した。
彼女は女性教育を推進し、この思想は盟友トマス・ペインによって
後にウーマンリブの先陣を切ったアメリカに持ち込まれる。
オスカルが、従者であり恋人であるアンドレと共に歩んだ道は、
ウルストンクラフトが望んだ理想であったに違いない。
アンドレと一夜だけの愛の誓いを果たした後、
彼女は腐敗した王室から市民を救う為に、戦場へと身を投じた。
オスカルはずっと女の身である事に苦しめられてきた。
近衛連隊時代の部下からのプロポーズも破談させ、
フェルゼン侯爵への報われぬ恋慕も断ち切っている。
父親から与えられた男性としての立場に雁字搦めにされてきたのだ。
しかし、彼女は"女性らしさ"を捨てなかった。
アンドレを受け入れ、女の身である本然を受け入れた上で、
王室軍人という束縛から、"個人"へと解放される事を望んだ。
ここに、フェミニズムの本質を見る事が出来る。
オスカルの名言を振り返ろう。
神の愛に報いる術も持たないほど小さな存在ではあるけれど…
自己の真実のみにしたがい、一瞬たりとも悔いなく与えられた生を生きてきた。
人間としてそれ以上のよろこびがあるだろうか。
自由であるべきは心のみにあらず!
人間はその指先一本、髪の毛一本にいたるまで、
すべて神の下に平等であり、自由であるべきなのだ。
バスティーユ監獄に上がる白旗を見届けた時、
オスカルの自由と平等と友愛は達成されたのである。
―――
フェミニズムは、啓蒙思想から生まれた自由主義に根ざしており、
"女性らしさ"からの開放を訴えてきたものではない。
ウルストンクラフトがルソーへの反論として女性教育の重要性を説いたのは、
"個人"の発露を目的とし、社会通念上の問題を解決する事に意義があった。
戦前、日本では女子教育の基本方針として良妻賢母主義が掲げられ、
幼くしては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従え、という、
「三従の教え」により、女性は男性の客体である事を求められていた。
この教えに反発したのが、かの有名な平塚雷鳥である。
彼女は1911年に創刊された婦人文芸誌『青鞜』で、こう述べた。
「元始、女性は太陽であった」と。
雷鳥の主張は、家父長制の否定が目的ではない事が、
この続きの文面を見れば分かるだろう。
然らば私の希う真の自由とは解放とは何だろう。
潜める天才を、偉大なる潜在能力を十二分に発揮させる事に外ならぬ。
日本のフェミニズムの歴史は、この言葉から始まっている。
この頃はまだ女性の社会進出への偏見が根強く、
政治的・社会的要求のほとんどは退けられ、認められなかったが、
戦後、ウルストンクラフトの思想がGHQによって日本に流入し、
女性の高度教育が推進された事で、"個人"は高まりを見せていき、
1972年の勤労婦人福祉法、85年の男女雇用機会均等法の成立へとつながる。
女性は男性の客体で無くなり、女性としての主体を勝ち取ったのだ。
―――
しかしこの後、女性による社会活動は"個人"には目的が向かなかった。
"個人"を取り巻く社会通念の打破こそが目的となり、
社会の中でいかにして潜在能力を発揮し、自分のポジションを得ていくか、
その点が置き去りにされたまま、フェミニズムは官制事業となった。
『ベルばら』にはもう1人、"個人"を発揮した女性が登場する。
ルイ16世の王妃でありながら、フェルゼン侯爵との禁断の愛を受け入れた、
マリー・アントワネット、その人である。
フェルゼンはマリーに自分が婚約した事を伝える。
マリーはフランスの王妃、フェルゼンはスウェーデンの貴族。
絶対に結ばれる事などないのだが、マリーは国王がオペラを開催した夜に
茂みで偶然に出会したフェルゼンへの愛をこう語っている。
わすれてくださいいまは!
わたくしが王妃であることを!!
愛していますフェルゼン!もうどうすることもできないほど!
作者である池田理代子が表現しようとしたのは、
しがらみの中で生きる女性の「自己の真実」であったと思う。
マリーもまた、主体性を持って自分の進みたい道へと進み、
たとえそれが誤った道であったとしても、
誇りを捨てずに、毅然とした姿で断頭台へと向かう。
漫画を描くという事は、それ自体が"個人"の表現であり、
少年漫画だろうが少女漫画だろうが、同じである。
少女漫画の精神性が失われていったのは、"個人"の高まりによって、
「男性からのアプローチをずっと待ち続ける」といった、
旧来の価値観が値打ちのないものになったからで、
"女性らしさ"を否定せんが為ではなかったと述べておきたい。
官主導で進められたフェミニズムが行き場を失っているのは、
こうした主体性が既に失われているからだとは言えないだろうか。
少女漫画における主体性とは何か、より時代を進めて、
今度は矢沢あいの『ご近所物語』からそれを見てみよう。
ご清覧ありがとうございました。