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スピリッツ

【総評】『高校球児ザワさん』~エピファニー文学を継承したポスト萌え


高校球児ザワさん

↑「フェチすぎる野球マンガ」として紹介された本作。
 その本質はどこにあるか。



オリンピック競技から野球が除外された理由をご存知でしょうか。
人気や競技人口は、実は小さな問題に過ぎません。
野球の世界組織である国際野球連盟・IBAFは5大陸130カ国が加盟しており、
そのうち77カ国では国内リーグ戦を実施、
IOCの求める3大陸50カ国規定をクリアしているからです。

では、なぜ除外に至ったのか?
理由の1つは、「女子種目の規定が最も遅れた競技だから」です。
背景にあるのは野球競技の国際ルール導入への遅れで、
アレクサンダー・カートライトが1845年に作った塁間距離などの他は、
細かいルールのほとんどが世界共通ではない為に、
ストライクゾーンや使用する用具ですら曖昧なまま、
国際基準に合わせる為に導入された統一球を使う事にも批判が出るのが、
野球という極めて保守的なスポーツなのです。
こんなんでよく国際大会とか開けるよねっていつも疑問。

当然ながら女子種目の規定も進むはずもなく、
男子は野球、女子はソフトボールという二分化が進みました。
エレン・ウィレ女史の呼び掛けで男女同一ルールを採用したサッカーや、
その後のなでしこジャパンとの活躍と比較すれば、
IBAF女子ワールドカップで日本が3連覇を果たした女子野球なんて、
あれ? 女子ってソフトをやるんじゃないの?
という認識がまず最初に出てくる、悲しいほどの低い知名度しかありません。
女子選手も男子と同じように野球をやるべきだと、
IBAFが国際的な働きかけを始めたのは、2000年代に入ってから、
女子サッカーより実に10年以上も遅れての事です。


漫画やアニメには、水原勇気やメロディちゃんなど、
男子選手と同じ舞台に立ったプロの女子選手が居ますが、
現実では1991年の野球協約の改訂まで、女性はプロになる事を、
何とルールの上で認められていませんでした。
高校野球に至っては、女子選手のメンバー登録と公式戦出場を、
高野連の大会参加者資格規定により、いまだに認められてはいません。
それどころか、練習試合ですら相手校の事前承諾が必要です。
多くの女子選手は、中学まで野球をやっていても、
高校ではまず続けられないので、ソフトに行くしかないのです。

現在のオリンピックでは、こうした性差別を撤廃する動きがあり、
「男女同一のルールで行う」ことは特に重点となります。
男子は硬式野球を、女子はソフトをやってる実態がある野球競技は、
オリンピック種目として相応でないという判断が下されました。

今回は、野球界に横たわる暗黙のルールを踏まえながら、
高校野球における女子選手という存在の特異性をあぶり出した作品、
『高校球児ザワさん』を評してみたいと思います。


―――


何を隠そう、道場主はソフトボールの選手でした。
五輪競技から除外されていなかったら、今でも続けていたでしょう。
社会人の道を断念してスポーツ関係の新聞記者になりましたが、
やはり、ソフトも野球も大好きだからこそ、
スポーツに関われる仕事を選んだのかも知れません。

『高校球児ザワさん』の主人公・都澤理沙ちゃんも、
ただ野球が大好きだという理由で、公式戦に出られないのを知りながら、
野球エリートの兄を追って甲子園常連の強豪校・日践学院に入学し、
男子選手に混じって、日々練習を続けています。


女子選手と男子選手の運動能力を比較すると、
「女松坂」の異名をとった小林千紘投手の球速が130キロ台ですから、
女子のトップ選手が、男子中学生と同じくらいだと考えて下さい。
サッカーでも、なでしこジャパンが高校生と試合をしたら、
高校生の方がメタメタに勝ちます。それほど男子と女子は違います。

しかしそれはトップレベルを比較した場合に限ります。
そこらへんの高校に130キロ投げられる選手が入学すれば、
公式戦の登板機会なんていくらでもあります。
ゆえに、130キロ投げられない男子が規定上ではベンチ入り可能なのに、
130キロ投げる女子がその機会すら与えられないのは、
高野連め…ぐぬぬ、と思いたくなるのが女子選手の必定ですよね。

理沙ちゃんが他と違う点は、入学したのが野球の強豪校であった事です。
インタビューで「実戦では使えない」と自己評価を下した通り、
仮に理沙ちゃんが女子のプロ選手並みの力を持っていたとしても、
「130キロの投手」では、地区予選を勝ち抜くどころか、
強豪校ゆえに、実戦に登板させてもらえる事すら難しい。



『ザワさん』の特徴は、フェミニズム観点の一切を排除している点です。
理沙ちゃんは日践学院硬式野球部の一員として、
思いっきりビンタされる事もあれば、罰として坊主になる事もあります。
完全な男女同列の極めて過酷な環境の中で、男子選手から浮いて見えてしまう、
気になって気になってしょうがない女子選手の特異性を、
理沙ちゃんの周りの男子選手の視点から、毎回8ページずつ描いています。


―――


さて、第三者の視点から対象となる人や物を描くのは、
『よつばと!』の回で解説した通り、あの川端康成も用いた、
モダニズム文学の典型的な手法ですね。

探偵シャーロック・ホームズがいかに頭が切れるかは、
助手のワトソンの視点から描かれる事で、より強調されて伝えられます。
ワトソンのズボンの裾に付着していた泥の撥ねを観察して、
ワトソンがロンドンのどこを散歩していたのかを言い当てる事は、
地質学に精通するホームズにとって朝飯前なのですが、
ワトソンにとっては驚愕する他ありません。
読者である私達も、どちらかと言えばワトソンと同じ凡人ですから、
ワトソンの視点で描く方が、その驚きに共感できるという訳です。
作者のコナン・ドイルは狙ってこれを書いています。


同様に、女子である理沙ちゃんが頭を坊主に丸めるのは、
男子部員にとっては「うわぁ…」と、思わず言いよどんでしまう事件です。
女性にとって頭髪は、命に例えられます。
AKB48の峯岸みなみさんが懲罰で坊主にした時は、
AKBファンのみならず、国内・海外に大きな波紋を呼びましたよね。

理沙ちゃんは他の男子部員と同じ単なる野球バカであり、
ごく普通に野球に打ち込んでるだけなのですが、
野球という男社会の中では、女子選手の存在は異端そのもの。
まして女性が坊主にするなど、正気の沙汰ではありません。

その他、勝負事に対して貪欲であったり、
女として扱われる事に戸惑いを隠せなかったり、
チームメイト達が発見する、理沙ちゃんに対する驚きは、
「野球は男性がやるもの」と固定観念を持っている一般読者にも、
そっくりそのまま、ストレートに伝えられます。



モダニズム文学において、"発見"の楽しさを教えてくれたのは、
アイルランド出身のジェームズ・ジョイスという作家です。 

ジョイスは、故郷・ダブリンの町を散文に残す事で、
ダブリンとそこに住む人達の特徴を"発見"していきました。
そして1914年、短編集『ダブリン市民』を発表。
老若男女さまざまな点景から織り成されるストーリーによって、
ダブリンとはどういう町であるのかを、浮き上がらせるように書いています。

ジョイスはこうした"発見"の事を、エピファニー(顕示)と呼んでいます。
エピファニー文学は、小さな"発見"を積み重ねる事で、
全体の大きなイメージを類推させる文学です。
『高校球児ザワさん』はジョイスと同じ文学技術が用いられている作品で、
エピファニー文学そのものと言っても差し支えありません。


―――


「萌え」も、伝統的に第三者の視点から描写されています。
ですが、もともとこれは主人公から主体性を奪ってキャラを薄めた上で、
ヒロインとなる人物像に主体性を移し、より萌えさせるように生み出された、
モダニズム文学と関わりない、キャラクター性に誘導する為の技術です。

ここから文学に転じさせるには、各々のキャラクターに対して、
ジョイスのような鋭い洞察が加えられる必要があります。
ところがこうした作品群は、属性によってキャラを差別化する事にのみ腐心し、
心理状態が深く掘り下げられる事はめったにありませんでした。


かつては『ザワさん』も萌え作品の一部として捉えられ、実際にメディアからは、
脇の処理の甘さやアンダーシャツから浮き出た肢体を克明に描いた、
フェチすぎる野球マンガ」として紹介されました。

「萌え」を下地とした作品群からは、まったくの偶然ながら、
『ザワさん』のように、たまに文学の域にまで高じた作品が出ます。
『ザワさん』が本当に伝えたかったのは、理沙ちゃんのフェチっぷりではなく、
野球競技が置かれた性差別の問題であったと思います。
ジョイスがダブリンの町の抱える停滞問題に直接言及する事なく、
第三者の言動に反映させる形でそれを抽出させたように、
野球界の封建的な性差別を、理沙ちゃんの障害として描く事で、
読者の誰もが、問題として"発見"に至ります。

作者の三島衛里子先生が、ジョイスと同様に点景で野球を洞察していたから、
野球について深く考えさせられる作品になったのでしょう。
ポスト萌えは、こういった所から生まれるのかも知れませんね。


さて、五輪復帰を目指して男女同一ルールの採用を決めた野球競技ですが、
この度、野球のIBAFはソフトボールのISFと統合し、
今年4月に世界野球ソフトボール連盟・WBSCとして発足しました。
試合時間短縮の為、五輪ではソフトボールの方に合わせて7回制になるそうです。

これに非難ごうごうなのが、野球ファンのおじさま方。
男社会の面子として「そんなの野球じゃねぇ」とのたまっております。

そもそも、野球競技自体がでたらめなルールの下でやってたんですから、
ルールを体系化する事には前向きであってもらいたいものです。
 


ご清覧ありがとうございました。

【短評】『いいひと。』~東日本大震災からの復興

ブログネタ
3.11 東日本大震災について話そう に参加中!
いいひと。

↑被災地に笑顔が戻る日が来る。



『いいひと。』の16巻は、3月11日という忘れ得ぬ日に
再読する価値のある一冊に違いありません。
私はこれほど思いやりに溢れた本を他に知りません。

16巻のサブタイトルは「思い出にかわるまで」。
ストーリーは、主人公の北野ゆーじがいつものように異動させられ、
阪神大震災から1年半が経過した神戸に出張しに行くところから始まります。
そこでゆーじは、実際に被災した人達と、そうでない人達との間に、
心に負った傷の深さにギャップがあるのを感じ取ります。

悲しみの記憶で塗り固められた被災地・神戸を、喜びの記憶に変える為に、
ゆーじは工場建設予定地に即席の野球のグラウンドを作り、
そこで被災地の子達と野球をして、1日だけの思い出を共有します。

このグラウンドも翌日には工事が入り、壊されるのだけれど、
この時みんなで野球をした記憶は心にしまい込める。
地震で建物は壊れても、楽しかった思い出までは壊せない。

作者の高橋しんさんは、東日本大震災が起きた後、
この震災復興編をホームページ上で無償公開しました。
被災地とその周囲とのギャップを埋める為に、
被災者の心を復興をしていこうと伝えたかったのだと思います。

無償版「いいひと。」震災復興編・期間限定リリース再開です。。。しん
http://www.sinpre.com/sinpre/archives/2011/03/post_429.html



私が住んでいる長崎県では、1990年に普賢岳噴火が起きました。
私の夫は、家屋と小学校の思い出を失いました。

この噴火は島原半島全域に甚大な被害をもたらし、
地元を走っていた島原鉄道も壊滅状態になりました。
この時、島原鉄道の復興に道筋を付けたのは、文字通り、
被害状況を見る事の出来なかった、盲目の方だったそうです。
たった1人だけ、目の前に広がる絶望ではなく、
その先にある希望を言葉にし、周囲に勇気を与えたといいます。


たとえ被災地の惨状を目の当たりにしていなくても、
私達に出来る事はあるのだと、ゆーじは言っている気がします。
たとえ被災者の気持ちが100%理解する事が不可能だったとしても、
私達は希望の言葉をかけてあげる事が出来るはず。

震災から2年が経ちました。
奇しくも3日前のニュースで、福島県の子供の甲状腺検査の結果が、
青森、山梨、長崎の子供と横ばいの数値であった事が明らかになりました。
長崎でこれを調査されたのは、60年以上もの間、原爆医療に携ってこられた方。
不誠実なデータ比較を用いて詭弁を労した原発学者とは違い、
長年の苦労があってこその、この信頼置ける結果だと言えるでしょう。
これでようやく、不安と憶測が生んだ風評被害から、
被災地が開放されていく道筋が付いたのです。


最後に、東日本大震災で亡くなられた方々に、
謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り致します。



ご清覧ありがとうございました。

【短評】『20世紀少年』 ~オトナ帝国の逆襲との共通点と「ともだち」の真の目的


しんのすけ

↑「未来」へと駆け昇るしんのすけ。


先日テレビ放送された『20世紀少年』についての考察です。
今作については、既に漫画論の上級編で取り上げていますが、
この時はシンボル哲学の教材として用いていたので、
作品の背景を「全て理解している」事を前提にした上での解説でした。

なので、今回は作品の背景について詳細に触れるのと同時に、
「ともだち」が目指した世界征服の目的に深く迫りたいと思います。


―――


まず明らかにしておきたいのは、原作・長崎尚志氏が1956年生まれ、
作者・浦沢直樹先生が1960年生まれで、共に学生闘争を経験していない、
しらけ世代」と言われたポスト団塊の世代である事です。
主人公・遠藤ケンヂらも、1959年に生まれた世代とされており、
ここが『20世紀少年』を読解する上で極めて重要な点です。

『20世紀少年』には、色んな昭和文化が登場しています。
ボーリングブーム、大阪万博、ウルトラマンなどなど。
この時代を知っている人なら誰もが懐かしむ、古き良き時代の郷愁です。

ところが、いよいよ事件が動き出す1997年の時点で、
昭和時代から地元に根付いてきた地域文化である商店街は、
ケンヂの酒屋はコンビニに、マルオの文房具屋はファンシーショップになり、
会社員のヨシツネも、社内で疎まれ窓際に追いやられてます。
38歳になったケンヂ達は、親世代から受け継いだ昭和文化を甘受し、
その後に積み上げてきたものが、バブル崩壊によって全てを手放す事になった、
敗者の世代である事がことさら強調されているのです。


今作に出てくる昭和文化は、ケンヂ達が小学生の頃に経験したものがほとんどで、
中学生になった1972年より以降の文化は、思い出としては登場しません。
そんな中でも、この年代の思い出がたった1つだけ描かれており、
それこそがT.レックスの『20th Century Boy』に代表される、第一次バンドブームです。
昭和にとってのロックとは、グループサウンズに代わる新しい文化の創造でした。
しらけ世代は、時代を突き動かす熱意を失っていると言われていますが、
ロックだけは熱の入り方が違っていたそうで、数多くのロックバンドが結成され、
80年代の音楽ブームの基礎を築いていく事となります。

ケンヂが夢見たのは、ウルトラマンのようなヒーローになる事でした。
そしてロックこそ、時代を創出するヒーローになれる自己表現の方法であり、
ギターとピックはさながら、ヒーローになる為の変身アイテムでした。
けれど、ケンヂが時代を変える事は出来ませんでした。
ちょうどこの頃は、学園ドラマの表題から"青春"の2文字が消え去った時期。
熱しやすく冷めやすいのが最近の若者ってやつです。
頭の中では理想の自分になりたいと願っても、夢に向かってひた走るなんてせず、
厳しい現実を見据えて、自分の夢に折り合いを付けていくのが、
この世代が管理社会から学んだ処世術なのだそう。

21世紀に入り、これからケンヂ達の世代が新しい文化を創出していくはずでしたが、
ケンヂは大人になってからも、現実に頭を下げる選択を余儀なくされています。
バブル崩壊後の冬の時代に取り残された人達が思い出すのは、
日本中がこの世の春を謳歌していた古き良き昭和時代の郷愁であり、
その人類の進歩と調和の象徴である太陽の塔は、
しらけ世代に強烈なモラトリアムを残す事になったという訳です。


―――


時代の背景をおさらいした所で、続いて作中でヒーローとなった、
謎の覆面男・「ともだち」の目的を明らかにしていきましょう。
これはもうズバリ、「ともだち」は20世紀を21世紀にしたくなかったのだと思います。
だから20世紀の最後となる2000年12月31日に世界を終わらせた。

道場主は昭和生まれの平成育ちですが、私から見るとごく普通の光景に見える、
大小のオフィスビルが乱立する現在の日本の街並みは、
昭和育ちの人達から見ると、とても奇異に映っているそうです。
「ともだち」の作った2015年が、現代人にはとても奇異に見えるのと同じでしょうか。
若者の街として知られる渋谷のセンター街も、昔は閑静な住宅街であったらしく、
渋谷商店会がこの場所を「バスケット通り」に名前を変えたのも、
悪いイメージを変えるというより、回帰の意味合いが強いのでしょう。

『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズが3作続けて大ヒットするなど、
時代の郷愁を誘う昭和ノスタルジーは確実に支持されていて、
この時代に特別な想いを抱く人がいかに多いかをよく表しています。
「ともだち」の狙いも、時代を進めて新たな文化価値を生み出すのではなく、
昭和に巻き戻す事によって、モラトリアムを永遠に継続させる事にありました。
ポスト団塊世代にとって、まさしくヒーローであったのです。


実はこれと同じ事をやった人が、「ともだち」より前に居るんですよ。
劇場版クレヨンしんちゃんの第9作目『オトナ帝国の逆襲』に登場した組織、
イエスタデイ・ワンスモアのリーダー、ケンとチャコです。
もちろんこの組織の名前は、1973年のカーペンターズの名曲が基になってます。


イエスタデイ・ワンスモア

↑オトナ帝国化計画を企むケンとチャコ。左の人どう見てもジョン・レノンよね。


ケンとチャコは、21世紀になった2001年に「20世紀博」を開催し、
そのシンボルタワーから昭和ノスタルジーを感じさせる匂いを発生させる事で、
古き良き時代に懐古心を抱く大人達を少年期の頃に退行させ、
未来へ進む可能性を閉じさせる、「オトナ帝国」化計画を実行します。

イエスタデイ・ワンスモアと「ともだち」にはいくつかの共通点があり、

 ・ 行動を起こしたのが21世紀になる節目の2000~2001年。
 ・ 昭和の町並みを21世紀の現代に再現した。
 ・ 再現しようとした年代が1970年の大阪万博より以前の頃である。
 ・ 自らを昭和風にオマージュしている。

などなど、行動原理が非常に似通ってますね。


しかし、ケンはしんちゃんのこの言葉に胸を打たれます。


> ケン
 だめだ。


> チャコ
 え?


> ケン
 見ろ、匂いのレベルが…。


> チャコ
 はっ…!


> ケン
 町の住人達も、あいつらを見て21世紀を生きたくなったらしい。


> チャコ
 嘘よ、嘘でしょ!? 私たちの町が、私たちを裏切ったって事!?


> ケン
 そういうことだ…。みんな今までご苦労だった。
 各自好きなようにしてくれ、外に行っても元気でな。



> チャコ
 どうして…ねぇどうして!?
 現実の未来なんて醜いだけなのに…!


> しんのすけ
 オラ、父ちゃんと母ちゃんやひまわりやシロと、もっと一緒にいたいから…。
 喧嘩したり、頭に来たりしても一緒がいいから…。

 あと、オラ、大人になりたいから…。 大人になって、
 お姉さんみたいな綺麗なお姉さんといっぱいお付き合いしたいから!



> チャコ
 …おしまいね。


> ケン
 …ああ、20世紀は終わった。

> チャコ
 私…外にはいかないわよ。


> ケン
 …わかった。

 …坊主、お前の未来…返すぞ。



……。

思い出すだけで涙がちょちょぎれますなぁ…。
20世紀博のシンボルタワーの階段をぼろぼろになりながら駆け上がり、
家族と未来を取り戻す為に、心の叫びを訴えるしんちゃんの姿。

ともあれ、ケンはこの言葉を受けた後、チャコと一緒に飛び降り自殺を図ろうとします。
しかし、その足元にたまたま鳩が巣を作っていた事と、
チャコが「死にたくない」と本心をつぶやいた事から、飛び降りを断念。
20世紀の終わりを見届けるかのように、どこかへ去っていきます。


―――


さて、ケンヂによって計画を崩壊させられた「ともだち」はどうだったでしょうか?

「ともだち」は1960年代の昭和文化を21世紀に再現しています。
それに対し、ケンヂが持ち込んだロックミュージックは1972年以降の文化です。
ケンヂはこれをラジオを使って全国に流し、支持を集めました。

つまりケンヂは、新しい文化価値の創出によって時代が前へ進んでいる事を、
西暦が終わった時代で、もう1度再現させたのです。
しんちゃんが必死で訴えた未来の可能性のように、ケンヂもまた、
20世紀の郷愁のまま止まっていたモラトリアムの時代を、
しらけ世代と呼ばれた自分達の手で、21世紀へと進める事が出来たという事です。
最終巻では表題も、『20世紀少年』から『21世紀少年』に変わってます。


伏線が回収されていないといくつも検証されている今作ですが、
作中では既に未来への暗示がなされています。

例えば「超能力」。ストーリーの中ではよく分からない設定になっていますよね。
これもやはり浦沢先生によって仕掛けがなされており、
20世紀の文化の1つとして、"象徴"化されていると思われるのです。

浦沢先生や同世代の子供達、そしてケンヂとその仲間らは、
1974年に来日したユリ・ゲラーの超能力ブームを中学生の頃に経験しています。
「ともだち」は、その後に全国で発見される事となった、
清田益章氏に代表される超能力少年の1人であった事も明かされていて、
さらに、後に側近となる万丈目胤舟のプロデュースでテレビに取り上げられ、
他の子と同様に超能力のトリックを見破られる挫折を経て、大人になってます。

これって、要するに音楽で挫折したケンヂと同じなんですよね。
「ともだち」が小学生の1960年代に起きたミステリーブームの後釜として、
1974年の超能力ブームは新たな時代を築いていくはずでした。
ところが、いんちきがバレると状況は一変し、ブームも下火になります。
超能力は、21世紀にまで残りうる文化にはなりませんでした。
前述の清田氏に至っては、21世紀になってから脱・超能力者宣言までした挙句、
その3年後には大麻譲渡の疑いで逮捕される始末です。


しかし、遠藤カンナと神永球太郎の力は「ともだち」とは違います。
この2人が使っているのは、どう見ても本物の超能力です。
カンナは「運命の子」、神永は「神様」とまで呼ばれ、神格化されています。

では、なぜカンナが「運命の子」であるのでしょうか。
それは、「ともだち」が信じていた超能力が引き起こす超常現象を、
21世紀の時代に持ち込む事が出来る存在だからでしょう。
超能力は70年代文化の象徴であり、60年代をオマージュした「ともだち」にとって、
それは唯一と言っていい自己表現の方法です。
ロックがケンヂにとっての新しい文化価値の創出であるなら、
超能力は「ともだち」にとって、新しい時代を切り開く為の力でした。
本物の超能力者であるカンナは、その存在証明であったのです。

神永球太郎の「ボウリング」も同様です。
ボウリングブームでおなじみの中山律子さんのCMは、1972年の放送です。
ケンヂ達が小学生の頃に経験した昭和文化ではありません。
つまり、ボウリングブームは神様にとっての新時代の幕開けであり、
中山律子さんの再来である小泉響子は、やはりその存在証明であるのです。

ブームの年代を押える事が出来れば、きちんと読み解けるんですな。


以下は、原作を基にした考察ですので、映画版には関係ありません。

「ともだち」=フクベエの目的は、単に昭和のモラトリアムを継続させるだけでなく、
本当はカンナを使って自分の過去を他人に認めさせる事にあったのでしょう。
60年代の町並みの再現も、その布石にすぎなかったはずなのです。

ところが、夢を手中に収める直前でヤマネに暗殺され、その後の未来を、
超能力が使えないカツマタくんに"ともだち暦"として曲解されたのが、
「ともだち」事件の背後に隠された真相ではないでしょうか。

フクベエとカツマタくんの理想が完全には反り合っていないのは、
万丈目がともだち暦以降の「ともだち」が偽者だと気付いた事からも分かります。
万丈目はフクベエが超能力少年だった過去をよく知っているのです。

もしもフクベエが生きていたら、ともだち暦は共産的な社会ではなく、
お互いの価値を認め合える理想の世界になっていたかも知れませんね。
 


ご清覧ありがとうございました。

【短評】『YAWARA!』~今だから学びたい嘉納治五郎の「一本」の精神


猪熊滋悟郎

↑滋悟郎おじいちゃんの口癖。


今回からしばらくロンドンオリンピック特集です。
第1回目は「柔道」をテーマに扱います。
第2回「体操」はこちら。


しかし今回の柔道競技、判定で荒れていますね…。
海老沼匡選手の準々決勝で起きた、あの前代未聞の判定覆り。
あの3人の審判は謹慎処分になったそうですが、
対戦相手だった韓国の曺準好選手にも申し訳ない事をしたと思います。

ジュリー(審判委員)によるビデオ判定が導入され、判定が何度も覆った事で、
これまでいかに誤審が多かったかが、改めて証明されてしまいました。


漫画で柔道と言えば、手塚イズムの後継者・浦沢直樹先生の名作である
『YAWARA!』の名前が真っ先に挙がるでしょうが、
この作品では、実は誤審が描かれた事は1度もありません。
これは、漫画の世界で描かれる"柔道"と、現実世界で行われている"柔道"が、
全く別の競技である事を意味しています。

いったい何が違うのか?なぜ漫画には誤審が無いのか?
柔道の親と呼ばれる故・嘉納治五郎氏の教えを紐解きながら、
これを明らかにしていきたいと思います。


―――


柔道って何でしょうかというそもそも論から始めると、
講道館柔道を興した嘉納治五郎氏の精神を学ぶ事だそうです。
即ち、「一本を取る柔道」によって「精力善用」と「自他共栄」を図る事。
相手の背中を先に畳に付ける競技を行う事じゃないんですって。

『YAWARA!』には、嘉納氏の教えを体現したキャラが居ますよね。
その名も猪熊滋悟郎(じごろう)。どう見ても嘉納氏をモデルにしています。
で、その滋悟郎おじいちゃんですが、口癖のように突いて出る言葉が、
「一本取らずして何が柔道ぢゃ」ですね。

滋悟郎おじいちゃんは、何も自分の美学を押し付けているのではありません。
「一本を取る柔道」こそが正しい柔の道に通じているから、
孫である柔や、入門してきた弟子に対してそう言ってるだけでしょう。


では、なぜ「一本を取る柔道」が正しいのか。
当然ながらこれが根底にあるがゆえに、おじいちゃんの言葉がある訳です。

道を志した事も無い私が人に道を説くというのもおかしな話ですので、
猪熊柔のモデルとなった山口香さんの言葉を借りる事にしましょう。


引用:山口 香の「柔道を考える」より

技を練る時間
http://blog.goo.ne.jp/judojapan09/e/547ef2b4ed46614478dd5012f33b7132


 技術があって試合で勝つことができたとしても、さらに技を練り、
 高める時間がなければ技は錆び付いてしまい光を失っていく。
 相手に研究され、技を見切られるために試合自体も魅力のないものになっていく。
 お互いが手の内を知れば知るほど試合は緊張感を欠き、
 平凡なものとなる傾向にある。

 国際柔道連盟は効果ポイントをなくしたり、足取りを禁止したりと、
 柔道本来の持つ魅力を取り戻そうとの努力が見られる。
 しかし、一方でこんなに大会を増やし、ポイントで選手を縛ったことは、
 柔道で最も大事な技を練る時間を選手から奪い、
 本質であるべき切れる技をみる醍醐味を無くしてしまう危険がある。


山口さんは、柔道の本質が技の研鑽を積む事にあると書かれています。
そして別の記事では、こうもおっしゃっています。


自他共栄
http://blog.goo.ne.jp/judojapan09/e/855216dbd2784c401bbdf43bbf665857


 柔道のルールが柔道の魅力を失わせたという議論もあるが、私はそうは思わない。
 もちろん、要因の一部ではあるかもしれないが、
 取り組む人間の柔道に対する根本的な考え方を変えなければ
 どんなにルールを変えても変わらないと思う。


嘉納氏や滋悟郎おじいちゃんの言う「一本を取る柔道」とは、
即ち、技の研鑽を積み、誰の目にも明らかな完璧な一本を取るという事であり、
相手からポイントを奪う為に修得した中途半端な技をかけるのでは、
自分の為にも、自分に礼を尽くしてくれる相手の為にもならないという事でしょう。


―――


浦沢先生が『YAWARA!』で描いたテーマは、まさに
嘉納氏の教えにある「精力善用」と「自他共栄」にあります。

主人公の猪熊柔は、天賦の才を持ちながら、柔道にあまり熱心ではありません。
つまり、「精力善用」ではない状態にあるという事です。
ところが、決着がつかなかったジュディとの国際大会での再戦の約束や、
柔道を辞めたいと言う柔を支えた伊東富士子の助力があって、
柔は柔道に真剣に取り組むようになります。つまり、「自他共栄」です。

『YAWARA!』の世界では、誰1人としてポイントを取りに行く柔道をしません。
あのプライドの高い本阿弥さやかですら、柔からポイントリードをしている場面で、
逃げずに柔の組み手を真っ向から受けています。
(現実の柔道の場面なら、組み手を切ります。そういう指示が出ます。)


「一本を取る柔道」を目指さなければならないのは、
それが嘉納氏が掲げた理念を実践する為の唯一無二の答えだからで、
山口さんの言葉を借りれば、柔道の本質だからなのだと思います。

この作品では、なぜ誤審が描かれなかったか?
考えてみれば簡単で、誤審をしてしまうような微妙な技の決まり方が、
作中ではまるっきり無かったからなんですよね。
柔の出した技は全て綺麗に決まっており、疑いようの無い一本だったからです。

仮に山口さんの危惧が当たっているのだとしたら、
ポイントを奪い合う現在の柔道は、道の精神から外れていってるのかも知れません。


―――


海老沼選手は準決勝で敗れたものの、続く3位決定戦では、
誰の目にも明らかな美しい一本勝ちを収めました。

ご本人は「金メダルを獲れなかった事が悔しい」とおっしゃっていましたが、
あの時に繰り出された技は、メダルよりも価値のある、
本物の柔道精神の賜物であったと思います。
滋悟郎おじいちゃんもきっと、お褒めになるでしょうね。
 


ご清覧ありがとうございました。

【キャラクター論】(2) 一刻館の人々


四谷さん

↑五代いるところに四谷あり。"変態"にして"紳士"である。


高橋留美子と言えば、数百にのぼるキャラクター達を 
安定して生産し続けてきた屈指のヒットメーカーの1人で、 
ストーリーにも定評があり、コメディから恋愛物、冒険劇に至るまで、 
幅広いジャンルの作品を残してきた事で知られている。 


高橋の作るキャラクターは、とても個性的だ。 

漫画では一般的に、人物の表情に差を付けてキャラを立てる。 
例えば、『HUNTER×HUNTER』の冨樫のキャラは、 
複雑に入り交じった人間性を、人物の表情で形而的に描き分ける。 
評論家の斉藤環は、これを「顔の固有性論」と呼んでいる。 

高橋の場合、表情で分類されるのはボケとツッコミの立場のみ。 
ボケの方が真顔で冷静、ツッコミの方が感情的、など。 
その代わり、人物を構成する"素材"に大きな落差を持たせ、 
強烈な印象を残すキャラに仕立てている。 


高橋のキャラは基本的に、2つの"素材"で構成されている。 
現実 ⇔ 非現実、常識 ⇔ 非常識、日常 ⇔ 非日常と、 
相反する"素材"を同じ人物の中に同棲させているのが特徴である。 

"冷血な雪女"かつ"お金に汚い"おユキさん。 
"ボクサー"なのに"食い意地の張った"畑中耕作。 
"恐ろしい半妖"だけど"主人に従順な"犬夜叉、他。 

理屈は野茂英雄や佐々木主浩のフォークボールと同じ。 
ストレートボールに威力があるほど落差が活きてくるように、 
彼らが真面目な顔で真剣に"素の素材"を演じれば演じるほど、 
"もう1つの素材"とのギャップが生まれ、面白くなる。 

このように、2つの"素材"を渾然一体に描く事で、 
カオティックでハチャメチャな人物が出来上がるのである。 
昨年12月にドラマ化された『らんま1/2』では、 
この2つの"素材"を分割し、別人格として成立させた。 
これも、高橋のキャラ作りに礎があるがゆえに可能だった訳だ。 


――― 


『らんま1/2』から10年前、小学館発行の少年サンデーにて、 
初の連載作品である『うる星やつら』を連載していた高橋は、 
同社の青年向け漫画誌・ビッグコミックスピリッツにて、 
1980年より『めぞん一刻』の連載をスタートさせた。 

『めぞん一刻』は、一般的にはラブコメディに分類され、 
恋愛物としてスポットが当てられる事が多いが、 
この作品の真価は、主人公・五代が暮らす一刻館の特異性と、 
五代を取り巻く人物の"素材"をストーリーに綿密に絡ませる、 
高橋の計算された構成がなされた点にある。 

一刻館には、実に個性的な面々集まっている。 
浪人生の部屋に集まってどんちゃん騒ぎを始めるような、 
五代をして「生きた非常識」と言わしめた人物ばかりだ。 
『めぞん一刻』の舞台となった時計坂には、 
スナック、テニスクラブ、学校と、様々な場所が登場するが、 
そこに息づく人々は常識を持ったキャラとして描かれるのに対し、 
一刻館の住人だけは、るーみっくわーるどのDNAを継いだ 
明らかに異質なキャラとして描き分けれている。 


その中でも、2つの"素材"の落差が群を抜いて激しく、 
一刻館の特異性を象徴する住人が、「四谷さん」である。 

「四谷さん」は、身なりや口調は"紳士"でありながら、 
思考や行動は"変人"そのもので、趣味はのぞき、特技はたかり。 
隣のに引っ越してきた五代の部屋に穴を開け、 
事あるごとに五代のプライベートに干渉していき、 
五代とヒロイン・響子との関係性をややこしくしている。 

一見するとこの人物、五代の邪魔をしているように見える。 
しかし、ストーリーを注意深く追っていくと、 
実はただの1度も、五代と響子の縮まらない関係を 
本気で害した事がない事に気づくだろう。 


この変態紳士が、どのように五代達と関わったかを振り返ってみる。 

まずは五代の最初のガールフレンド「七尾」。 
五代が部屋の穴を塞ぎ、密室で2人っきりの状況を作り上げた後、 
いいムードになって、いざ迫ろうとした所で、 
再び壁を壊し、穴の奥から「お・ま・た・せ」と出てくる。 

続いて五代の教育実習先の女子生徒「八神」。 
腰の引ける五代の部屋に強引に押し掛けてきた時に、 
「八神」を自分の部屋に引きつけ、管理人室に逃げ込んだ五代に 
遠回しに弥明後日までの夕飯をたかっている。 

「四谷さん」は、五代の本命ではない女性には邪魔をするが、 
五代の意中の相手である響子へは間接的なアシストをしており、 
甲斐性の無い五代と、踏ん切りの付かない響子を 
何かと気にかけ、2人の間を取り持とうとしている事が分かる。 
その証拠に、五代が響子と結ばれた事を告白するシーンでは、 
「よかったじゃないですか」と、純粋な笑顔で祝福した。 

このように、自分のキャラを確実にストーリーに絡め、 
読者の印象に残るような登場の仕方をしているのである。 


――― 


『めぞん一刻』では、たとえ脇役であっても 
ストーリーを動かす着実な布石として用いられており、 
囲碁の名人の一手がごとく、キャラを無駄に使わない。 

例えば、 五代と響子の関係が壊れかねないラブホテル事件が起きた時、 
事件の原因はいかにも"扇情的"な「朱美さん」が作り、
「七尾」のいつもの"かん違い"が大きな誤解を生んで、
「二階堂」の"鈍感さ"が誤解を解くきっかけになっていたりする。 

話のダレがちな終盤になっても、それぞれのキャラがきっちり顔を出し、 
納得の行くストーリー展開を生んでいるのである。
後発キャラの「二階堂」まで無駄に使用しない辺りは流石としか言いようがない。


近年における漫画では、キャラは消費するものになっており、 
"素材"がその人物の全体像を表さなくなってきている。 
ファストフードのように適当な味付けでも、お腹を満たせれば
読者はそれで満足だろうが、"素材"の味を知る事もまた必要であり、
それを教えるのは優れた作家にしか出来ない事なのだ。
高橋はそれが出来る、漫画界の三ツ星シェフである。

人間性を描く事は、作品を残す上での根幹だと言える。 
それが表面的であるほど、読後には軽い印象しか残らない。 
漫画においてキャラクターが最も重要だと言われる所以はここにある。 

『めぞん一刻』に触れれば、漫画の何たるかが分かるだろう。

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