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ジブリ映画

【短評】『ハウルの動く城』~ソフィーにかけられた2つの魔法


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↑飾らない美しさが、心にはある。


ジブリ映画考察の第4回は、2004年公開の『ハウルの動く城』です。

【ジブリ考察シリーズ】
 第1回 『千と千尋の神隠し』
 第2回 『火垂るの墓』
 第3回 『崖の上のポニョ』


宮崎駿作品は、『もののけ姫』以降で変革が起きました。
どこらへんが変わったのかを読み解くには、これより以前の作品、
つまり『紅の豚』を掘り下げて考える必要があります。
監督はこの作品を「作るべきではなかった」と反省の弁を述べられ、
「次作で決着を付ける」と決意を新たにされています。

宮崎作品は豚を醜く汚いものの象徴にしてますが、
『紅の豚』では、豚になる魔法を自身にかけた飛行機乗り・ポルコを、
ニヒルな賞金稼ぎとしてかっこよく描いてます。
ポルコが豚になったのは、人間としての暮らしが嫌になった為で、
豚になった苦悩も無ければ、周囲への偏執も無く、
最後にはフィオのキスで元の人間の姿に戻っています。

『もののけ姫』や『千と千尋』は、『紅の豚』では触れなかった
生きる苦悩や偏執を描こうとしたに違いありません。
ゆえに、アシタカや千尋にかけられた呪術に"意味"を持たせています。
タタリガミの呪いは、死の運命に向き合いながら
生きる道を選んでいくアシタカの生と死の二面性を描き出しており、
そして湯婆婆の呪いは、生きる事に背を向けた千尋の心に、
もう1度前を向いて歩みを進める機会を与えています。


『ハウル』も、変革のあった後期作品に位置します。

 '84 風の谷のナウシカ
 '86 天空の城ラピュタ
 '88 となりのトトロ
 '89 魔女の宅急便
 '92 紅の豚

 '97 もののけ姫
 '01 千と千尋の神隠し
 '04 ハウルの動く城  ← ココ
 '08 崖の上のポニョ

この作品にもやはり、魔法をかけられ姿を変えた主人公として、
90歳のおばあちゃんになったソフィーが登場しますが、
豚になったポルコとは、その経緯も、その意味も、明らかに異なりますよね。

では、ソフィーにかけられた魔法の意味とはいったい何なのか。
今回はこれを詳細に追ってみたいと思います。


―――


まず、ストーリーを整理してみましょう。『ハウル』には、
ソフィー以外にも姿を変えている人や物がたくさん出てきます。

ハウルの動く城


空を飛んだり透明になったりする魔法もいくつか見られはするんですが、
作中で描かれている魔法は、基本的に姿を変えるものが多く、
ハウルも敵を倒すのに、妖力を使ったり、光線を出したりしません。
黒い鳥に化けて、肉弾戦のみで戦ってます。

ここから魔法の定義を考察すると、ポルコが豚の姿になったように、
自分の心の姿を写し取る為に用いられると考えられます。
ハウルの金髪姿や、マルクルの大人ぶった姿、荒野の魔女のマダム然とした姿も、
元来の姿を否定し、心の中の願望の姿を肯定した結果であると言えます。


さてこの姿を変える魔法、使っているのは主にハウルと荒野の魔女です。 
ハウルは悪魔・カルシファーと契約によって力を得ています。
カルシファーが「ソフィーの目をくれるかい?」と何気に怖い台詞を言ってる事から、
どうやらハウルの魔法は等価交換が求められる西洋黒魔術のようです。
より強大な力を求めてハウルの心臓を狙う荒野の魔女も、
サリマン先生によると「悪魔と取引をして身も心も食い尽くされた」との事。
そう言えば魔女って悪魔と姦通するんですっけ…((((;゚Д゚))))ブルブル

となると、この2人が変身魔法を使うには何かしらの代償が必要になりますよね。
ハウルの場合はズバリ、若い女性の心臓が。
町の噂によれば「南町のマーサって子」が犠牲者らしいのですが、
これ、カルシファーが具体的な供物を要求してるとなると、
物の例えでなく本当に心臓を食べられてるという可能性もありますけど、
おそらく心臓=心を意味していると考えるのが妥当であると思います。

では、荒野の魔女はいったい何を代償にしたのでしょうか。
これは仮定に過ぎませんが、元々の姿がよぼよぼのお婆ちゃんであった事や、
若くて良い男に執着を見せている事から察すれば、男にモテる為に、
ソフィーの「若さ」を吸い取って、自分のものにしているのだと思われます。


ではでは、なぜ荒野の魔女の呪いの魔法を受けたはずのソフィーが、
自意識に応じて若返ったり老いたりを繰り返しているのか。
ポルコやアシタカや千尋にかけられた呪いは、勝手に解けたりはしませんし、
自力で何とか出来るような容易なものでもありません。

ここから得られる答えは、ただ1つ―

ソフィーは荒野の魔女からお婆ちゃんの姿に変えられるより前に、
ハウルによって強大な魔法をかけられてしまっているからです。
ハートズッキュン、心を奪う、恋の魔法を。


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↑奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です(キリッ


ソフィーはハウルと空中遊泳をした時に、魔法にかけられたと思われます。
「どうせ私なんて」と自分を否定する暗示の鍵が外れ、
心だけが恋しちゃってもいいじゃないモードに変身しているのです。

荒地の魔女がかけた呪いの力で肉体が老いても、心は18歳のままである為、
ソフィーが心のままを表した時はハウルの力に天秤が傾いて若返り、
逆にソフィーが心を否定した時は、荒地の魔女の力に傾き、
心身ともに老人の姿に近付くという、実にややこしい事になっています。

この複雑に揺れ動く天秤模様は、ソフィーの心理状態をよく描き出しており、
外見にとらわれない心の美しさを90歳のお婆ちゃんに投影し、
死の呪いをかけられたアシタカや、 名前を奪われた千尋と同じように、
今作のテーマに直結する"意味"を持たせています。


―――


ここからはストーリー考察です。

物語が佳境に入ると、ハウルは「守らなければならないものが出来た」と告げ、
悪魔の力とさらに同化し、国王軍との戦争に加担します。

ハウルは金髪から黒髪に戻ってしまった自分の姿に、
「美しくなかったら生きていたって仕方がない」と絶望してますが、
ソフィーに励まされてからは、黒髪の自分を肯定しています。
心の向くままに生きるのに、もう変身なんてしなくてよかったはずなんです。

ですがハウルは再び変身しちゃいました。ハウルが花畑の中で誓った、
「ソフィー達が安心して暮らせる」夢のような生活を続けるには、
本物の悪魔へと身をやつし、外敵を排除しなければならなかったからですね。
前述の通り、変身魔法は心の願望を肯定した姿です。
ハウルはソフィーを守る為に、デビルマンに変身したのです!


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↑悪魔になります。


ソフィーはハウルの身を案じ、「あの人は弱虫が良いの」と言って、
カルシファーとの契約の秘密を突きとめ、ハウルの心臓を元に戻します。
悪魔となってしまったハウルに、人間の心を戻したという意味でしょう。


で、これと同時にもう1人、変身魔法が解けた人が居ますよね。
かかしのカブ頭にされていた、隣国の王子です。
いったい誰がこの王子をカブ頭にしてたのか、疑問が残りますが、
おそらく王国側の都合で隣国との戦争を誘発する為、
サリマン先生が王子をかかしに変えていたと思われます。

宮崎監督は、『ナウシカ』の頃から"非戦"を訴え続けています。
監督のメッセージは、2人の変身が解けた事で成就されているのです。
これで話はめでたしめでたし…


と思いきや、最後の疑問がまだ解消されていません。
ソフィーの魔法ってどうなったの?

ソフィーの姿は、ハウルが悪魔と同化し戦地に飛び立って以降、
髪は銀髪のままですが、1度も老化していません。
要するに心の天秤がハウルの方に傾きっぱなしになっているという事ですが、
ソフィーにかかっていた2つの魔法は、解けていないんです。

これは、ハウルがソフィーの銀髪を肯定してくれたからに他なりません。
ハウルの黒髪をソフィーが肯定してくれた時のように、
お互いがお互いの本当の姿を、心から認め合っている。
まさに、サリマン先生の言った「ハッピーエンド」という訳ですね。


―――


原作には、ソフィーも命を吹き込む魔法を使える、という設定があるようです。
どうかカルシファーが千年も生き、ハウルが心を取り戻しますように
というソフィーの台詞が、実は魔法の呪文だったというのです。

宮崎監督が原作の設定に必ずしも忠実では無いので、
道場主としてはこういった考えを否定していますが、
心臓=心を失ったハウルに、ソフィーが新しい命を与えるという、
また違った解釈の仕方も出来るので、面白いですね。

引用:ハウルの動く城の謎の分析と解釈


そして、原作の設定に準拠していると仮定した場合、
ハウルがソフィーに惹かれた本当の理由も明らかになります。

ソフィーがカルシファーとの契約内容を知るべく、ハウルの過去を覗いた時、
私はソフィー、待ってて、私、きっと行くから、未来で待ってて!
と、子供の頃のハウルに必死で叫んでいますよね。

もしもこれが魔法の呪文であったとしたら?
そう、幼いハウルも、ソフィーに魔法をかけられているんです。
心を奪う、恋の魔法。ハウルとソフィーは最初から相思相愛だったんです。
だからこそ、何も無かった草原を花畑でいっぱいにして、
何年もずっとソフィーを待っていた、という事になるんでしょうね。

ハウルの心情は1番最初の台詞に現れてます。
「やぁごめんごめん、探したよ」、とっても深い意味になります。


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↑ハウルはずっと待っていた。


今年2013年は、宮崎監督の待望の新作、『風立ちぬ』が公開されます。
堀辰雄の同名の作品のプロットを下地にした、
ゼロ戦の設計者である実在の航空技師・堀越二郎のお話だそうで、
つまりこれもまた戦火の愛を描いた作品になるっぽいです。

『ハウル』では暈されてきた戦争描写が克明になるはずで、
ファンタジーを主体とした作品を残されてきた監督が、
実際に起きた太平洋戦争という題材を、どのように変身させるのか。
『ハウル』が大好きな道場主は、とっても期待しています。

未来で待ってます。
 


ご清覧ありがとうございました。

【短評】『崖の上のポニョ』~ディストピア文学と奪われた主体性


崖の上のポニョ

↑ポニョにとってのユートピアは、陸の上にあった。


ジブリ映画考察の第3回は『崖の上のポニョ』です。

【ジブリ考察シリーズ】
 第1回 『千と千尋の神隠し』
 第2回 『火垂るの墓』
 第4回 『ハウルの動く城』


このアニメは、『もののけ姫』から変化を続けてきた、
宮崎駿監督作品の集大成と言えます。

生と死の側面から見た謎の多いストーリーの考察は、
他のサイトに沢山ありますので、そちらを参照して頂くとして、
当道場では、宮崎監督自身にスポットを当てて、
この作品が生み落とされるに至った理由を考えていきます。


『崖の上のポニョ』は、宮崎作品の中でも異色の存在で、
これまでの作品と決定的に異なる点があります。

それは、ストーリーから主体性が欠如している事。

過去の主人公は、ナウシカにしろ、アシタカにしろ、
ストーリーの中心に位置し、主体性を持って世界を動かしていました。
こうしたい、こうありたいという理想や願望があり、
現実の世界をそれに近付ける明確な目的があったのです。

ところが『ポニョ』の場合、アプローチの仕方が違います。
ストーリーの主体性を握るのは、フジモトやリサ、グランマンマーレなど、
事情を知っている、もしくは知らされた周りの大人達で、
宗介とポニョは、その大人達の都合によって動かされています。
まだ5歳の子供達、生きる目的なんて背負っていません。

「主体性が感じられない」という批判を散見しますが、
宮崎監督は初期の頃から、キャラの主体性を重視されてきた方。
それもまた狙って作られていると考えるのが妥当です。

ではなぜその監督が、『ポニョ』から主体性を奪ったのでしょうか。


―――


ストーリーを簡単におさらいしてみましょう。
まず、ポニョの起こした危機について触れてみます。

ポニョはなぜ宗介の住む町を水没させたのか?

これは、月の影響が関係しています。
高校の教科書などに書かれてある通り、潮の満ち干きは、
月の重力によって起こされ、月が地球に近づいてくるというのは、
その影響をより強く受けるようになる事を示しています。

ではなぜ月が近付いてきたのかと言うと、 ポニョの魔法で
地球が4億年前のデボン紀の姿に戻ろうとしてたのだと思います。
かつての月は、今よりも地球に近かったそうで、
地球に及ぼす潮汐力も大昔の方がより強く、
この為、海水準もずっと高かったと言われてます。

デボン紀は特に海の生き物が繁栄した時代であり、
フジモトら海の眷属は、魔法の力を凝縮させた生命の水を使って、
4億年前の地球の姿を蘇らせようとしていたと推察されるのです。

それが、ポニョが起こしたミステイクによって、
月が地球に近付きすぎてしまい、衝突しそうになっていました。


この時の距離をきちんと計算された方もいらっしゃいます。


引用:第93回 「崖の上のポニョ」の謎 (~康平PAGE様)
http://homepage3.nifty.com/kouhei1016page/Math/Math093.HTM


計算によると、通常38万km → 10万kmまで接近していたとの事。
「あれが見えないんですか」とフジモトが指差した月は
明らかに大きく、衝突間近だった事が分かります。


引用:地球と月の距離 (~月世界からの報告様)
http://www12.plala.or.jp/m-light/Distance.htm


月と地球の距離は年間で約3cmずつ離れていってるそうなので、
デボン紀における月までの距離は、

3cm × 4億年前 = 12億cm(1万2千km)

ほど近かったと推定されます。つまり、

38万 - 1.2万 = 36.8万km

これが、4億年前の地球の姿です。
10万kmまで接近した事がいかに危険だったか分かると思います。


―――


作品のテーマを読み解く上でもう1つ重要なのが、
「月」が"女性"の、「海」が"愛"のメタファー(隠喩)である点です。

神話に出てくるアルテミスやセレーネなど、女性はよく「月」に例えられます。
月経周期が月の朔望周期(29.5日)と重なっているからでしょうか。
そして、母親となった女性が捧げる愛情は「海」に例えられます。
母の愛は海より深し、月の接近による潮汐の変動は、
そのまま地球が「母親の愛」で満たされる事を象徴していると言えます。

『崖の上のポニョ』には、3人の母親の存在があります。
リサ、グランマンマーレ、船に乗ってたお母さん。
全ての命は母親から生まれている、というメッセージを、
わざわざ3人も使って説明している事から、
宮崎監督はこの作品の重要なテーマとして、
「母親の愛」を組み込んでいると推察する事が出来るでしょう。


『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』、『ハウルの動く城』の3作品は、
いずれも主人公過酷な運命を最初に背負わせる事で、
作品のテーマを定義付けて主体的に物語を動かしてきました。
宗介とポニョにはその定義付けを、はっきりと持たせてはいないのですが、
やはりそれは2人の母親が関係しているのです。

大人の視点から見れば、ポニョは災厄の使者です。
トキさんも「人面魚が出ると津波が来る」と恐れてました。
ポニョだって本当は、「わるいまほうつかい」に違いないのです。
だけど、町に災厄を齎した事さえ気付いていません。
純粋であるゆえに、ただ宗介に会いたい一心で、
生命の水のバルブを開き、海の力を解放してしまっています。

宗介にしても、「ポニョ、そーすけ、すきー」という言葉に、
「ぼくもだよ」とただ答えているだけです。
その言葉にはまだ"愛"と呼ぶほどの覚悟はありません。
2人はまだ5歳、自分達の進むべきを主体的に選ぶ事の出来ない、
まだ母親の庇護下にある子供だからです。

グランマンマーレは宗介とポニョに、覚悟を問います。
これにはフジモトも大人の意見として「まだ早すぎる」と反対してますが、
グランママはリサと相談して2人を大人にします。


最後に宗介とポニョが、大人の誓い=キスをした事で、
魔法の力が解け、月の衝突は回避されます。

即ち、接近した月を元の38万kmの距離に戻すというのは、
過剰な"愛"の庇護下に置かれ主体性を失った子供達が、
母親から離れ、自らの足で自立を果たすという事に他なりません。
分かり難いながらも、この作品のテーマはきちんと帰結しているのです。


宗介とポニョから、世界のあるべき姿を取り戻すという目的を奪ったのは、
宮崎監督の狙いが、作品に隠されたメッセージではなく、
表面的に展開される純粋無垢な子供達の心の交流を伝える事を
主眼に置いていた為であると考えられます。

ところが、これらの背景を正確に理解しなければ、
子供達が手を繋いで、てくてく歩いてくだけで目的に辿り着く、
実に主体性の無いストーリーのように思えてしまいます。

どうしてこんな作品にする必要があったのか、
宮崎監督自身の背景も踏まえて、さらに突っ込んで考えてみましょう。
道場主の考察はここからが本番ですよ。


―――


さて、過去作品の主人公は、明確な目的を持っていたと述べましたが、
それはつまり、自らが望まんとする"ユートピア(理想郷)"に、
現実世界を導いていくストーリーであったと思います。

皆が仲良く楽しく幸せに、ハッピーエンドで終わる。
『紅の豚』までの作品は特にその傾向が顕れていますが、
これは哲学者のプラトンやトマス・モアが夢見た、空想的社会主義です。

ユートピア思想は、現実世界ではとっくに崩壊しています。
理想の社会を目指した社会主義国家がどうなったか、
今や説明するまでもありませんね。


『崖の上のポニョ』でも、ユートピアを作ろうとしていた人物が居ました。
それがポニョのお父さんである、フジモトです。
フジモトが目指す理想は、まさに海の中にありました。
作中に出てくる海底には、ゴミが堆積してごちゃごちゃになってます。
ポニョもゴミ山の中のジャム瓶に頭を突っ込んで死にかけていましたね。
海の眷属にとってそれは理想の海の姿ではありません。

宮崎監督の作品は共通して、崩壊した自然の様子を描いています。
そしてその中に人間の生死観も組み込まれている。
人間は自然によって生かされており、敬意や畏怖の象徴として、
自然と共存する姿を理想的に捉えたのが、宮崎監督の自然観です。
言うなれば自然は、監督のユートピア文学なのです。
フジモトはそのメッセージの発信者であり、象徴でもあります。

ところがこの作品は、そうしたメッセージをあえて受け取らないように、
フジモトの背景を説明せず、分かり難く描いてます。


デボン期の海の現出は、フジモトにとってはユートピアでした。
しかしポニョは、フジモトを否定するように陸の上に憧憬を抱き、
人間の姿になってまで、宗介と暮らす事を選んでいますよね。
フジモトから見ればそれは、"ディストピア(反理想郷)"です。
そしてフジモトを象徴化した宮崎監督にとっても、
これまでの主体性あるストーリーを否定するこの作品は、
過去作品に対するディストピア文学として定義されるのです。

フジモトが宮崎監督の思想を象徴する存在であるなら、
それを意図的に隠してまで伝えようとしたポニョの存在は、
はたしてどのようなものだったのでしょうか。
これを読み解けば、宮崎監督の真のメッセージが見えてくるはずです。


―――


ポニョはフジモトを「わるいまほうつかい」だと言い、
何をするにしても話を聞かず、とことん逆らい続けます。

しかし実はその陰で、フジモトはポニョの仕出かしたミステイクを
グランマンマーレと協力して挽回し、帳消しにして、
最後にはポニョの意志を尊重し、人間にしています。

フジモトを宮崎監督に置き換えてみましょう。


宮崎監督は常に啓発的なメッセージを発し続けています。
しかし、人間はその忠告を聞かず、自分勝手に振る舞った挙句、
地球環境を危機的な状況に追い込んでいます。

それを、グランママ=月と協力し、愛情で包み込んで、
大人として優しく見守っていく選択をしている。

あれほど空想的社会としての結末にこだわってきた宮崎監督が、
並々ならぬご自身の強い意志を隠されてまで、
ディストピア文学としてのストーリーを書き起こすというのは、
我が子であるポニョを手放したフジモトと同じくらいの、
大変に大きな、苦渋の決断であったと思います。


つまり、ポニョを象徴にして描かれた5歳児とは、
宮崎監督から見た子供の存在="若者"を意味していたのではないでしょうか。
もしこういった解釈が正しいのであれば、
宮崎監督の真のメッセージは、やはりポニョにあるのです。

「君達のしている事は間違いだけれども、君達の意志を尊重する」、と。


これが、ストーリーから主体性を奪った理由でしょう。

フジモトやグランマンマーレに隠された背景を、
私達1人ひとりが自発的に考え、真摯に向き合う事。

宮崎監督の狙いは正しかったと思います。
多くの人の頭を悩ませ、考えさせる事に成功しているのですから。


―――


『崖の上のポニョ』は、現在ではTV放映を自粛していると言われています。
津波の描写が東日本大震災を想起させるからだそうです。

宮崎監督の強い想いが込められた作品に蓋をしてしまうのは、
私見ながら、監督のメッセージが届かなくなるという事ですから、
無益な若者の1人として、とても残念に思います。

監督、引退されるのはまだ早いですよ。


※ この考察を書いて40日後、2年ぶり2度目となる地上波放送がありました。
  何とノーカット放送。日本テレビも政治的判断を迫られたと思いますが、
  当道場はこの判断を全面的に支持します。
 



ご清覧ありがとうございました。

【短評】『火垂るの墓』~節子の死の真因を探る


火垂るの墓

↑幸せそうに笑う幼い命が、なぜ失われたのか。



『となりのトトロ』面白かったですね。
でもジブリ映画考察の第2回目は、『トトロ』じゃないんです。
これと同時上映された『火垂るの墓』の考察なんです。

【ジブリ考察シリーズ】
 第1回 『千と千尋の神隠し』
 第3回 『崖の上のポニョ』
 第4回 『ハウルの動く城』


『トトロ』に関しては、本当は悲しいお話だったと解説した
優れた記事が他にいくつも見受けられますので(ガセらしいですが)、
当道場が後追いで同じ事を指摘するのも差し出がましくあります。
ですが、『火垂るの墓』のある疑問点について、
詳細に触れている記事を見つける事が出来なかったので、
いっちょ、取り上げてみようかと思った次第です。

その疑問とは、節子の死因です。

感想としてよく言われるのが、幼い妹・節子が死んだのは
兄・清太のエゴイズムのせいであるという事ですが、
私は初見からこの説を否定しています。
節子はなぜ死ななければならなかったのか?
原作者・野坂昭如氏の文学的背景も踏まえて解説していきましょう。

なお、今回はかなり残酷なテーマを扱います。
苦手な方は、回れ右でお願いします。


―――


節子は栄養失調で亡くなったとされています。
これは、原作でそう明記されているからに他なりません。


> 白い骨は清太の妹、節子、八月二十二日西宮満池谷
 横穴防空壕の中で死に、死病の名は急性腸炎とされたが、
 実は四歳にして足腰立たぬまま、眠るように
 みまかったので、兄と同じ栄養失調症による衰弱死。



文章だけをそのまま受け取ると、やはり清太のエゴイズムが
節子を死に追いやったように捉えかねないのですが、
ストーリーを注意深く見てみると、おかしな点が1つだけあります。


詳細を思い出してみましょう。節子は亡くなる前に、
「あせも」が出来て、「おなかびちびち」になっていますよね。
下痢症はおそらく栄養失調によって引き起こされ、
皮膚症も免疫力が落ちた事で複合的に発症したと伺い知れます。

では、この症状が最初に現れたのは、いつだったか?

実はおばさんの家に居る頃に既に発症してるんです。
清太はお風呂で節子の背中に「あせも」を見つけ、
療養と称し、海に行って患部を塩水に浸けさせている。

つまり節子は、清太と2人でおばさんの家を出る前から
身体に何らかの異常をきたしていたのであり、
清太の行動によらずとも、節子は遅かれ早かれ、
同様の症状で亡くなっていた可能性があるという事です。


では、節子はいつ、病にかかったというのか?

答えは冒頭。

お母さんが重体となった空襲の後に降った雨が、
節子の左目の中に入った時―


このシーンがすごく引っかかってました。
節子がおばさんの家から出て行った為に栄養失調になったのなら、
なぜこんな描写を入れる必要があったのかと。

原作の記述を確認してみました。


> ようやく爆音遠ざかり、やがて五分ほど夕立のように雨が降って、
 その黒い染みを見ると、「ああこれが空襲の後で降るいうやつか。」(中略)

 堤防下りかけると、またも爆発音がする、まだ瓦礫の中の火は治まらず
 よほど広い道でないと熱気にあおられて歩けず、「もうちょっとここにおろ。」
 節子に言うと、声かけられるのを待っていたように「兄ちゃんおしっこ。」
 よっしゃと降ろし、草むらに向けて節子の足を抱える、
 思いがけず勢いよく小水ほとばしり、手ぬぐいでふき、

 「もう頭巾取ってええわ。」見るとすすけた顔だから、
 水筒の水で「こっちはきれいやからな。」手ぬぐいの一方の端湿らせて清める、
 「眼エ痛いねん。」煙のせいか赤く充血していて、
 「学校へ行ったら洗うてくれるよ。」(中略)

 「清太さん、お母さんに会いはった?」向かいの家の娘に声かけられ、
 清太は学校の校庭で衛生兵に節子の眼を洗ってもらい、
 一度ではまだ痛がるのでまた行列の尻に並んだ
ところで「ううん。」



やはり、空襲の後の降雨と、目に何らかの異物が入ったシーンがあります。
しかも痛がってる事を2回も強調して書いていますね。

アニメでは、財布からおはじきを取り出し地面に並べた時、
上から雨が降ってきて、それを見上げた節子の左目に雨粒が入ってます。


火垂るの墓


それからしばらくして「目が痛い」と清太に訴えた時も、
こすっていたのはやはり、左目の方でした。


火垂るの墓


―――


野坂昭如という作家がどういった人物であったのか。
これがはっきりすれば、このシーンの意味も分かるでしょう。
節子の死因を探る上ではっきりさせておきたいのは、
野坂氏が無駄な描写を入れたがる作家であったかどうか?

これは即答出来ます。答えはNOです。
理由は、野坂氏は無駄な文節をカットして文章を紡ぐスタイルを
作家デビューした当時からずっと貫いてきたからです。
直木賞の選考委員の方からも、このような評価を受けています。

第58回直木賞~最高評価を付けた先生方の選評

海音寺潮五郎
 大坂ことばの長所を利用しての冗舌は、縦横無尽のようでいながら、
 無駄なおしゃべりは少しもない。十分な計算がある。見事というほかはない。
 描写に少しもいやしさがなく、突飛な効果が笑いをさそう。感心した。

松本清張
 前回からの推薦者としては同慶に堪えない。
 私の好みとしては『アメリカひじき』よりも『火垂るの墓』をとりたい。
 だが、野坂氏独特の粘こい、しかも無駄のない饒舌体の文章
 現在を捉えるときに最も特徴を発揮するように思う。


野坂氏は、確固としたスタイルを築き上げると、
それを絶対に崩さないポリシーの持ち主でもありました。

選考委員の両先生が共に挙げられている「饒舌(冗舌)」スタイルは、
野坂氏がまだデビュー間も無い頃から続けているもので、
句点で区切らず、読点で文章を繋いでいく手法を指しています。
短所としては慣れていないと読みにくい一方で、
長所として、余計な文節を削ぎ落とす事が出来ます。

マルチタレントであった野坂氏は、もともと放送作家で作詞家でした。
大学ではシャンソン歌手を志していて、文芸作家となるのは
コラムニストとして成功を収めた後になるのですが、
つまり、純文学を志して文章表現を磨いた作家とは異なり、
手探りの状態で句点を使わないスタイルを生み出しているのです。
それだけに、自分の文章には相当の自信があったと思います。

野坂氏は、トレードマークとしていた黒いサングラスのように、
作家として研鑽を積んだ後も、無駄を省いた文章スタイルを続けています。
かっこいい自分を絶対に曲げない人でありました。
ですので、そのかっこいい文章にミソを付けるような、
蛇足な事をするかと言ったら、まずそんな事はないだろうと思います。


そもそも小説に無駄な描写はありません。
2流の作家ならともかく、直木賞作家である野坂氏が、
意味も無くこんなシーンをわざわざ用意するとは思えません。

やはり、ストーリーの主幹に関わる何らかの意味があって、
目に異物が入るシーンを書いた
、と考えるのが妥当なのです。


―――


しかし、まだ根本的な疑問があります。
目に雨粒が入っただけで、皮膚症や下痢症を引き起こすのか?

焼夷弾の後に降る雨は、原子爆弾による「黒い雨」とは異なり、
放射能の内部被曝の疑いは考えられません。
空襲後の雨、もしくは煤に、そのような毒性は無かったと考えられます。


> 六月五日神戸はB二九、三百五十機の編隊による空襲を受け、
 葺合、生田、灘、須磨および東神戸五か町村ことごとく焼き払われ、
 中学三年の清太は勤労動員で神戸製鋼所へ通っていた



原作の記述より、数度に渡った神戸大空襲のうち、
6月5日の空襲に使用された爆弾の種類を調べてみました。


引用:神戸市文書館 米軍資料にみる神戸大空襲
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/kushu/kushu70.html


月日 機種 爆撃機
数(機)
攻撃時刻 弾種等 投下爆弾
トン数
攻撃高度
(メートル)
第一目標 作戦の位置づけ
2月4日(日)

B29

69

13:50~
14:24

焼夷弾
破砕弾

172.8

7470~
8230

神戸市街地試行的大都市市街地への焼夷弾攻撃
3月17日(土)

B29

306

2:29~
4:52

焼夷弾
破砕弾

2328.1

1520~
2900

神戸市街地大都市市街地への焼夷弾攻撃
5月11日(金)

B29

92

9:53~
10:03

爆弾

459.5

4790~
6100

川西航空機深江製作所主要工業目標に対する昼間爆弾攻撃
6月5日(火)

B29

474

7:22~
8:47

焼夷弾
破砕弾

3079.1

4160~
5730

神戸市街地大都市市街地への焼夷弾攻撃
8月6日(月)*

B29

250*

0:25~*
2:01

焼夷弾
破砕弾
爆弾

2003.94

3840~*
48804

西宮ー御影市街地*中小都市市街地への焼夷弾攻撃


これによると、

・M47A2 100ポンド焼夷弾
・T4E4 500ポンド破砕集束弾
・E46 500ポンド集束焼夷弾

以上の3種類が使用されていた事が分かります。
清太が「250キロの直撃かて大丈夫」と言っていたのは、
M64 500ポンド通常爆弾、通称「250キロ爆弾」の事ですが、
この日の空襲ではどうやら使用されていないようです。
使用された爆弾のうち、神戸市街地に甚大な被害を齎したのは、
M69 6ポンド焼夷弾を38発内臓した、E46集束焼夷弾、
すなわちクラスター爆弾と呼ばれるものです。
清太の家に落ちてきたのも、この弾の中に入っていた1つです。

6ポンド焼夷弾の中身は、ナパーム剤(ホワイトガソリン)です。
付着した箇所の火を消えにくくする為、増粘剤が混ぜてあります。
これが投下後の熱で気化して雨雲になり、広範囲に降り注いだとしても、
要するにガソリンや増粘剤を目の中に入れただけでは、
確かに目には害であれ、体中に異常をきたすまでにはならないでしょう。


では、雨粒に含まれる煤の方はどうか?

ダイオキシンなど有害化学物質を含んだ家屋は、戦前にはありません。
当時の木造建築物は、日本の伝統工法で建てられており、
壁は添加物を用いない土壁で、金具も使わず凹凸だけで組んであります。

これもやはり、燃えかすが雨粒と一緒に目に入ったとしても、
その後の疾患の原因になったとはまず考えられません。


―――


ではいったい、何が目に入ったというのか?

このままでは道場主の妄想で終わってしまいますので、
とある仮説を立ててみましょう。


6月5日空襲の主な攻撃目標は「神戸市街地」でした。
しかし、清太とおばさんの会話からも分かるように、
「動員行っとった神戸製鋼は爆撃でメチャメチャ」になってます。
つまりこの日に爆撃を受けた中には、軍需工場も含まれるのです。

再び米軍資料を元に、場所を確認してみましょう。


被害状況


これは神戸市の損害評定です。少し分かりにくいですが、
青い線が1945年当時の海岸線で、作中に出てくる川は石屋川の事です。
現在では石屋川周辺は埋め立てられて河口位置が変わっているので、
ポートアイランドと六甲アイランドがある推定位置から、
当時の石屋川の河口付近を割り出してマーキングしました。

これを見ると、石屋川近くにある清太の住む御影地区は、
「第二焼夷弾攻撃」の際に、爆撃を受けた事が分かります。


神戸


これが現在の石屋川周辺の地図です。

赤いポイントと色付けされた範囲が清太の家があった地区、
青いのが御影公会堂、オレンジのが御影小学校(御影国民学校)です。


> 中学三年の清太は勤労動員で神戸製鋼所へ通っていたのだが、
 この日は節電日、御影の浜に近い自宅で待機中を警報発令された



原作の記述によると、清太の家は海の近くにあったのでしょう。
アニメでも、いったん海側に出てから川を上ってます。


> 「御影国民学校へ集合してください、上西、上中、一里塚の皆さん。」
 清太の住む町名を呼ばれ、とたんにそや学校に避難しとるかもしれん



ともありますが、この3つの地区は現在の御影本町(赤く色付けした範囲)の、
御影字上西(御影本町6丁目)、上中・一里塚(御影本町8丁目)の事です。
清太の家はこの中にあったと思われます。


石屋川と御影公会堂


これは節子の目に雨粒が入った直後のシーンです。
画面左手の壊れた建物が石屋川駅、右手にある建物が御影公会堂です。


> 時折堤防の松並木越しに見透かす阪神浜側の一帯、
 ただ真っ赤に揺れ動いていて、

 きっと石屋川二本松のねきに来てるわ(中略)

 堤防の上を歩き進むと、右手に三軒の焼け残り、
 阪神石屋川の駅は屋根の骨組みだけ、
 その先のお宮も真っ平らになって御手洗の鉢だけある(中略)

 二本松は国道をさらに山へ向かった右側にあり、
 たどり着いたものの母の姿なく、



こうありますので、石屋川駅のねき(近く)にある二本松の所で、
清太と母は非常時に待ち合わせをする約束を交わしていた事が分かります。

※ (コメント欄より追記。情報有り難うございます。)


アニメの映像と合わせて確認すると、こういう進路が推測されます。


 ・清太と節子、家を出て避難を開始。
 ↓
 ・まず駅のある西の方角に向かう。
 ↓
 ・いったん海に出てから、川床のくぼみに身を隠す。
 ↓
 ・雨が降った後、川縁を登って状況確認。
 ↓
 ・北側に見える御影公会堂には行かず、その焼け跡だけを見る。
 ↓
 ・避難案内に従い、東にある御影国民学校へ。


―――


問題は、風向きです。

節子が財布を取り出し、雨粒が落ちてくるシーンでは、
アニメの映像を確認する限りだと、西から風が吹いています。
それより前の、清太が海へ逃げてきたシーンでも、
対岸から濛々と立ち昇った黒煙が空を覆いつくしてますが、
これもやはり西側から清太達の居る地区に伸びています。


火垂るの墓


西側の対岸、現在のポートアイランド周辺には何があったかと言うと、
当時は軍需製品を製造していた海軍管理工場がずらーっと並んでます。
米軍資料にも、攻撃目標の中には対岸の重化学工業地帯にある、
川崎重工など18の企業の名前がリストに挙がっている事が分かります。

もちろんそこでは、化学製品を扱っています。
これらが燃焼して化合すればダイオキシン類が発生しますし、
当時は鉱毒を含む金属も大量に使用しています。


さらに損害評定で位置関係を見ると、この付近は
「第一焼夷弾攻撃」によって損害を受けた事も確認出来ます。

空襲後の雨は、爆撃から20分~1時間後に降ると言われていますが、
清太が石屋川に辿り着いたのは、自宅が爆撃を受けて10分後です。
御影本町から川までの距離は1kmもなく、走って逃げた事を考慮しても、
川に到達するのに20分以上もかかった事はまず考えられません。

つまり2人が見た雨は、風向きと時間を考慮すると、
「第二焼夷弾攻撃」ではなく、「第一焼夷弾攻撃」で発生した
工場からの黒煙によって降ったものだと仮定されます。

有害物質を含んだ黒煙が雨として降り注げば、
人体に影響が出るのも不思議ではないでしょう。
まして目の中に入れるなどしたら、中毒症状が出ても当然です。


さて、もうお分かりでしょう。

無駄を省く文章スタイルの持ち主であった野坂昭如氏が、
重化学工業地帯の対岸にあった御影地区に、
通り雨が降った事をわざわざ明確に記述する意味が。

節子の死の真因は、軍需工場の出火から生まれた
有害物質を含む黒煙の雨粒を左目に受け、
体内に取り込んだ事によるものだと考えられるのです。


そもそもただの栄養失調であれば、エネルギー消費量から言っても
兄の清太の方が先に症状が出るはずです。
小さな子供はお年寄りと同じで、成長期の中学生よりも
生体を維持するのに大きなカロリーやビタミンを必要としません。

一方で子供は、免疫力が低く、疾病にかかりやすい傾向にありますが、
節子の場合は化学物質によって体内の免疫機能が失われ、
栄養素の欠乏を引き起こしたものと思われます。

死の運命は、清太がどんなに手を尽くしても、
回避する方法が無かったのでしょう。


―――


この映画は、兄妹の閉じられた交流を中心に描かれ、
作品のテーマとなる戦争感は、他のジブリ作品と同様に、
時代の背景としてなるべく奥に隠されています。

しかしどんなに上手く隠していても、それが滲み出ています。
お母さんの悲惨な姿、節子の病気、清太の苦酷と、
死の色合いがあまりに強すぎる為に、誰もが否応なしに
反戦のメッセージを受け取らざるを得ません。

高畑勲監督はこれを反戦映画では無いとしていますが、
戦争によって父母兄妹が全て亡くなっている事を考えれば、
その残酷さが浮き彫りになるのは間違い無いでしょう。


戦後から半世紀以上を経ても、『火垂るの墓』など、
優れた作品によって、当時の状況を鮮明に知る事が出来ます。
最後に、神戸大空襲で失われた多くの命に敬意と哀悼の意を表し、
この記事を終えたいと思います。
 


ご清覧ありがとうございました。

【短評】『千と千尋の神隠し』~唯識論から見た"名付け"の行為

さて、今月からしばらくジブリ映画の考察をやります。

【ジブリ考察シリーズ】

 第2回 『火垂るの墓』
 第3回 『崖の上のポニョ』
 第4回 『ハウルの動く城』


宮崎駿監督の作品については、『もののけ姫』以降、
誰の目にも分かるくらい、明確な変化を遂げていますよね。
しかし、それがどんな変化であるかを説明するのはなかなか難しく、
特に『千と千尋』に関しては、私も幾度か観た事はありましたが、
雲を掴むような実態の無い理解を得た程度で、
何とも腑に落ちない、もやもやした感じがしてました。

難しさの理由ははっきり分かっています。
私の小さな頭で認識できる理解を越えた作品だからです。
だけど、TVで放送されるのを繰り返し観てるうちに、
もしかしてこの作品は、こういう認識の仕方が
正しいのではないかという気がしてきました。

ちょうどこれは、三島由紀夫の文学と受け取り方が同じです。
何を言ってるのかわからねーと思うが(ry

…って思われてるかも知れませんが、昨日の放送で
私が感じた事のそのままを、ここに記したいと思います。


―――


名は体を表す―

『千と千尋』を観て、私が最初に抱いた感想がこれでした。
千尋の無意識の中にある"名前"を、言葉に発する事で、
千尋の"体"をつなぎ止め、意識を生み出している。

庵野監督の『エヴァンゲリオン』のようにキーワードを散りばめ、
解答に誘導するヒントを出す事も、この作品にはありませんでしたが、
宮崎監督のメッセージはある程度は分かりました。


最初は、そこで考えるのを止めました。
それ以上の感想が出てこず、あぁこれだったら、
昔のジブリ作品の方が分かりやすくて面白かったな、と。

この感想は、半分は正解で、半分が大間違いでした。
私はストーリーに必然性を求め過ぎていました。
おそらく私の他にも、同じように千尋の行動に必然性を求め、
そしてそれがこの作品の認識と一致しなかった為に、
「面白くない」と感じられた方が居ただろうと思います。


2回目に観た時、認識の不一致が違和感として残りました。
もしかしたら「面白くない」という一言で片付けてしまうのは
勿体ないほどの質量を備えたメッセージが、最初に感じた、
「名は体を表す」という言葉の奥にもっと隠されているのでないか。

この後、"名付け"の行為に関する文献を徹底して読みあさりました。
そこでようやく、宮崎監督のメッセージの真意と、
私の認識がどうしようもなく浅薄だった事に気が付きました。

この作品は、ストーリーの必然性なんて最初から求めていない。
千尋の頑張る姿を、無意識の内に感じるのが正解なのだと。


―――


『千と千尋』は、大乗仏教で言う「唯識論」に基づいた、
他者と自我の認識の在りようを背景にしていると思われます。


冒頭の場面、千尋は新天地となる引っ越し先でも、
前の学校の友達との思い出を引きずり、心を閉ざしています。
新しい家、見慣れぬ場所、長く続いた暗闇の奥、
自分の世界の外にある他者を受け入れられません。
それどころか、「嫌だ、嫌だ」と口にし、他者を拒絶する事で、
どんどん意識が消沈し、自分をも見失いかけてます。
まるで赤子のように依るべき両親の手に引っ張られないと
一歩も前に進めない、「心ここに在らず」の状態です。

幸か不幸か、これが千尋の命運を分けました。
他者の世界に土足で踏み込んだ両親が、豚にされてしまいます。
1人ぼっちになった千尋は、やがて体が透明になります。
他者の世界に居る事を拒み続けた為に、自分が消えてしまったのです。


唯識論では、自我の世界を8つの意識に分類してます。
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識(5感)と、意識(第6感)、
そして無意識の中の末那識(マナ識)・阿頼耶識(アラヤ識)の8つ。
すっげ分かりにくいので、この方に解説してもらいましょう。


シャカ

> シャカ
 フッ、君たち、少し行儀が悪いな。


皆さんご存知、乙女座のシャカ様です。
シャカ様ならきっと、唯識論を分かりやすく解説してくれるでしょう。

恐れながら、唯識というのはどういったものなのでしょうか。


> シャカ
 君たち凡人が出来るのは、目や耳などの5感を使ったものか、
 せいぜい第6感を働かせた意識的な認識にとどまるだろう。

 だが、黄金聖闘士の中でも最も神に近い私であれば、
 無意識の中に存在する第7感、第8感をも引き出す事が出来る。
 それが末那識阿頼耶識と呼ばれるものだ。


末那識…ですか…?


> シャカ
 そう、マナとは"心"を指す。心は"個"そのもの。
 無意識の内に働く、自我を成す為の生への執着心の事だ。

 だが、ひどく残念な事に、愚かな君たちは
 自我の存在にのみ捕らわれすぎている。
 心は澱みきり、他者の心を自我の内に映す事は出来ない。
 セブンセンシズ(第7感)に目覚めるには、
 無我となり、鏡のように清浄な心を持たなければならない。


むうぅ…それでは、阿頼耶識とは…?


> シャカ
 まるで死肉に飛びつく餓鬼の様だぞ。

 アラヤとは、無意識の心のさらなる奥底に"蓄積"されたものの事。
 人間という存在が生まれてから、幾度も生まれ変わり、
 永い間ずっと継承してきた根元的な生命の情報だ。

 個々の意識も、元はただ1つ(唯)の存在だ。
 生命の歴史から見れば、個々の存在など無に等しいだろうが、
 他者より自我の生に執着する君たち弱者の心は、
 自我がここに存在するものだと認識をしてしまっている。
 全ての存在は実体なきもの無常であるのだ。

 自我は他者に等しく、他者は自我に等しい。全ては唯である。
 無我となり無常を知る、それこそがエイトセンシズ(第8感)…。
 人間が神に到達する為の真理なのだ!


エイトセンシズ


> シャカ
 神に最も近い私の素晴らしき教説…。
 しかと心に留めておくが良い。


…あ、有り難うございました!


―――


さて、自分の"心"を見失いかけていた千尋でしたが、
これをつなぎ止めてくれたのが、ハクという男の子でした。

ハクは透明になった千尋の寂しそうな"心"を見つけ、
まるで自分の"心"のように慈しんでくれました。
きっと彼は"セブンセンシズ"に目覚めていたのでしょう。


ここでもう1つ重要なキーワードとして、
"身口意"という言葉を挙げる事が出来ます。

・身 … 行動
・口 … 言葉
・意 … 心

"身口意"は、阿頼耶識の内に蓄積されてきたものです。
3つ全てを一致させる事が、自我の自覚に繋がります。
ですが、普段はこれらは無意識の"心"の奥底に眠っている為、
簡単には思い出す事が出来ません。

なので、人間は忘れてしまわぬように自我に名前を付け、
"口"を使って無意識の中から意識の上に引き出します。


八百万の神を迎え入れる温泉宿を経営する魔女・湯婆婆は、
名前を人間の意識から奪い、契約をさせます。
他者の"身"と"意"を思い通りに操り、働かせる為だと思われます。
千尋を助けたハクも、湯婆婆に名前を奪われており、
自分の無意識にある"口"を思い出せずにいます。

そして千尋も、湯婆婆と契約して「千」と呼ばれるようになりますが、
千尋は名前を奪われる前に、恩人であるハクから、
"意"を強く保って、"身"をもって湯婆婆の所へ行き、
"口"から「ここで働かせて下さい」と言う事を、
つまり無意識に眠る3つの意識の出し方を教わっていた為に、
自我に付けられた名前を失わずにすみました。

"心"を強く意識するようになった千尋は、
以前のように「嫌だ、嫌だ」と"口"にする事がなくなり、
自分と同じくらい大切な他者の"心"を意識するようになりました。
言うなれば、"セブンセンシズ"の目覚めです。


―――


千尋はこの後も、"身口意"を揃えたおもてなしをしていきます。
それがよく表れているのが、リンに教わった"礼"です。

他者を拒絶していた頃の千尋は、お世話になった釜爺に対し、
"礼"をせずにボイラー室を出ようとし、リンに怒られています。
しっかり頭を下げ、「有り難うございました」と"心"から言う事で、
ハクのように他者の"心"を慈しむ方法を覚えていきます。

カオナシを宿の中に招き入れてしまった時も、
千尋はきちんと"礼"をしていますよね。
カオナシは千尋にお礼をする為に手から砂金を出しますが、
これは"意"が、即ち他者を思いやる"心"が揃っていません。
だから今度は千尋がカオナシを怒ります。
「欲しくありません」と、それはもうきっぱりと。


この段階で、千尋は他者の無意識を見抜けるようになってます。
他者の"身"と"口"に、"心"がこもっているかどうかを。
そして血まみれの竜がハクである事も、"心"で理解します。
千尋の自我が、他者の自我と1つになっていたからです。
これはいかに魔女である湯婆婆にも出来ない事でした。

唯識論では、"心"が言葉に捕らわれ、"身口意"が揃わない状態を、
「煩悩」を生み出す諸悪の根元として定義しています。
湯婆婆は普段から魔法を使い、"身"を使っていないので、
姉・銭婆にネズミへと"身"を変えられた坊の無意識を見抜けませんでした。
一方の坊は以前の千尋のように、湯婆婆に手を引かれなければ
外にも出る事の出来ない、"心"を無くした存在でした。
坊は自我をもって湯婆婆の庇護から離れる事で、"心"を得て、
自分の足で立って歩けるようになります。


ハクと"心"を通わせた千尋は、瀕死のハクを救うために、
銭婆のもとへ行き、「ごめんなさい」と"心"からの謝罪を尽くします。
銭婆は千尋の"心"を理解し、許してくれます。

銭婆と別れた後、千尋を心配して迎えに来てくれた
竜の姿のハクに乗って、2人が出会った温泉宿に戻ります。
この途中、千尋はハクの本当の名前を思い出し、
ハクは無意識の中の"口"が、意識として蘇ります。
この時ポイントとなるのは、2人がお互いを完全に理解した事です。
唯の存在として、"エイトセンシズ"に目覚めたのです。


湯婆婆の所に戻った千尋は、最後の仕事に取りかかります。
名前の契約書を破棄し、千尋の両親の本当の姿を取り戻そうとします。

湯婆婆はちょっとしたいじわるで、10匹の豚の中から
豚の姿をした両親を見つけ出せと千尋に言いますが、
"エイトセンシズ"に目覚めたスーパー千尋には、
10匹の中に両親が含まれていない事くらい、お見通しでした。
千尋は正解を言い当て、契約を無かった事にしました。

両親と共に元の世界に戻ってきた千尋でしたが、
"心"はまだ、向こうの世界に置いてきたままでした。
ちょうど最初の頃の千尋と同じ状態です。
しかし、ハクの「こちらを振り向いてはいけない」との"口"に従い、
強い"意"を持って、"身"を前へと進めます。

「もう一度、会える」、この約束を信じて。


―――


唯識論が定義する"名付け"とは、無意識の中にある自分を、
意識の外に取り出し、認識する事を意味するもので、
つまりそれは自分を"象徴"するものでなければならないのでしょう。
「名は体を表す」の言葉は、こうした背景を持っています。

世の中にはDQN(キラキラ)ネームと呼ばれる名前があります。
唯識論の観点から言えば、人から認識されない名前というのは、
"身口意"の「体」を初めから成していない、
親の自我が勝ったものだという事になるのでしょうが、
『千と千尋』は、"名付け"の大切さも投げかけている気がします。


なぜ私が、『千と千尋』にストーリーの必然性を求めなくなったのか。
それは、この作品が頭で理解するのではなく、
心で感じるものである事に気が付いたからだと思います。
広く使い回された、実に凡庸な感想ですが、
これほどぴったり当てはまる解釈も他にありません。

完全に千尋の心になりきり、完全にハクの心を理解して、
そこでようやく、私の心も開く事が出来る。
『崖の上のポニョ』も、これと同じような作られ方をしてます。


頭を使って理解した上で、今度は心の感じるままに、
3度目の視聴となる昨日の放送に臨みました。
あまりに心を開きすぎたせいで、全くの無防備のまま、
エンディングテーマの『いつも何度でも』を聞いてしまい、
不覚にも涙がぼろぼろと出てしまいました。

やばい…木村弓さんの歌声が、ここまで心に沁みるとは。
次に観る時は、しっかりハンカチを用意しておこうと思います。
 


ご清覧ありがとうございました。

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