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漫画論

【上級】『20世紀少年』の郷愁

20世紀少年

↑"ヒーロー"を表す、地球防衛軍のシンボルマーク。



19世紀が「理性の時代」と呼ばれるのに対し、 
20世紀は「感性の時代」だと言われている。 

感性の時代は、1900年に行われた5度目のパリ万博で幕を開ける。 
19世紀最後となったこの年、フランス美術100年展が催され、 
新古典主義から印象主義への変遷を振り返りながら、 
後期印象派が生んだ象徴主義に彩られる20世紀を展望した。 

これと同じ年、象徴主義を代表する画家、パブロ・ピカソが、 
世界中の芸術家が集うパリの地を初めて訪れた。 
翌年1901年には、パリで自身初の個展を開催するに到り、 
以降、幾度も作風を変化させながら表現を追求していった。 

表現の極地へ登り詰めたピカソは、1937年の第7回パリ万博にて、 
象徴画の最高傑作の1つ、『ゲルニカ』を出展する。 
そしてその絵に感銘を受け、伝統芸能を重んじていた日本に 
前衛芸術を持ち帰った人物こそ、太陽の塔の制作者、 
象徴画の巨匠・岡本太郎、その人である。 


1970年にお目見えした太陽の塔は、戦後復興を遂げ、 
高度経済成長を終えた日本に、強烈なモラトリアムを残した。 
40年経ってもなお現存し、人類の進歩と調和の"象徴"として、 
日本人の古き良き時代を照らし続けている。 


――― 


岡本太郎が提唱した理念の中に、対極主義というものがある。 
写実主義=レアリスムの流れを組む定型的な象徴主義と、 
深層心理を描く不定型なシュールレアリスムの融合を意味し、 
前回に解説した"象徴"の両極性を捉えた理念を指す。 

『20世紀少年』は、そんな象徴主義の思想を背景に持つ。 
管理される社会に背を向け、自己表現に浸る新人類世代が、 
理想と現実の間にある"ヒーロー"になっていく話だ。 


新人類世代が子供の頃に夢見ていた"ヒーロー"は、 
なりたいと願いながらも、なれないと諦めている"象徴"だ。 
科学特捜隊の「イデ隊員」は、ウルトラマンが居れば 
われわれ科学特捜隊は必要ないような気がする、と、 
ウルトラマンに依存しきった無力感を吐露していた。 

『20世紀少年』に登場する人達も、理想の中にのみ存在する、 
"ヒーロー"の到来をひたすら待ち望みながらも、 
現実世界で自分達がその理想に到達する事は無いと、 
モラトリアム世代の心境を無力感で表現した。 

そんな鬱屈した対極主義の構造を打ち砕いたのが、 
世界を細菌テロの危機から救った、ともだちだ。 
ともだちは、理想を具体化する、まさに"ヒーロー"だった。 


主人公のケンヂも、幼少時代のモラトリアムを引き摺りながら、 
コンビニの店長として働く自分を嫌厭していた。 
小学生の頃は、友人と秘密基地で地球防衛軍ごっこをして遊び、 
"ヒーロー"が地球を救う「よげんの書」を書いた。 
ケンヂの理想は、世界をこの手で変える事だったのだろう。 

中学生になって、自分の力で世界を変えようと、 
放送室を乗っ取り、T.REXの『20th Century Boy』を流すのだが、 
変革は起きず、やっぱり"ヒーロー"にはなれなかった。 
現実は、ケンヂの理想を受け入れなかったのだ。 
いつしか自分が思い描く理想を、郷愁の中に閉じ込めて、 
ケンヂは現実に頭を下げて生きるようになった。 


――― 


けれど、そんな小さな郷愁まで奪われようとしていた。 
ともだちは、ケンヂとその友人の"象徴"であった 
地球防衛軍のシンボルマークを自分のものにして、 
ケンヂ達が書いた「よげんの書」を実行していった。 

ケンヂ達の理想は、大阪万博と太陽の塔に"象徴"された 
人類の進歩と調和を、自分達の世代が引き継ぐ事である。 
それを実行するのは、他人であってはならない。 

だが、立ちはだかる現実に打ちのめされている間に、 
ともだちが自分達の理想を具体化してしまった。 
"ヒーロー"になるのは自分達であるはずだったのに、 
ウルトラマンの「イデ隊員」ように、大人になってからも、 
他人が世界を救うのを見届ける役割になろうとしていた。 

ケンヂ達は、ともだちから"象徴"を取り戻す為に、 
今度こそ自分達の手で理想を掴む事を決意する。 
誰もが憧れる正義の"ヒーロー"にはなれないけれど、 
理想と現実の間に確かに存在する、郷愁の中に佇む 
自分達の矜持を守る、小さな"ヒーロー"になる為に。 


――― 


モラトリアム世代が抱いた個人至上の思想は、 
ケンヂ達と同じく、現実を越えたシュールレアリスムだろう。 
松本人志の『しんぼる』が国内で酷評を受けたように、 
そのまま描くだけでは、他人から理解される事は無い。 
岡本太郎が定義付けたように、現実であるレアリスムと融合し、 
両極性を包括する事で、ようやく共通認識が生まれる。 

『20世紀少年』は、岡本太郎の対極主義をそのまま形にした、 
象徴性の極めて高い作品だと言えよう。 
"ヒーロー"という郷愁の中のシュールレアリスムを、 
作品の"象徴"として現実に落とし込んだ、まさに傑作である。 

2011年で、岡本太郎の生誕から100周年目を迎えた。 
岡本太郎の残した20世紀は、確かに21世紀に引き継がれている。 


次回は、徹底したレアリスムを追求する事で 
理想を具体化した『ワンピース』の世界に触れてみよう。
 


ご清覧ありがとうございました。

【上級】ワンピーススタイル

ワンピース

↑背景が潰れるまで描かれた大海賊時代の1カット。



累計発行部数、2億5000万部。 
最新巻初版、400万部。 

『ONE PIECE』の凄さを端的に表した数字である。 

これほどまで人気がある理由は、作者である尾田栄一郎が、 
「誰にでも分かる」漫画を描いている所だろう。 

「誰にでも分かる」と述べてしまえば簡単なように思えるが、 
作者が読者に対し、作品の意味を過不足なく伝えるというのは、 
老若男女さまざまな、何百万の違う価値観を持った読者と、 
たった1つの共通認識で結ばれるという事だ。 
信号機の赤が「止まれ」で、青が「進め」といった、 
単純な"記号"なら「誰にでも分かる」だろうが、 
作品という複雑に入り混じった"記号"を充分に理解させるには、 
激流に隔てられた対岸に橋を渡すのと同じくらい努力が居る。 
尾田はそれを15年間も継続しているのである。 


――― 


『ONE PIECE』の凄さを表すのは、何も数字だけではない。 
尾田はヒットを計算して描ける作家だという事が、 
この作品の特徴を挙げていけば見えてくる。 

まず、全体を通して、抽象的な表現が全く無い。 
少年漫画全般に言える事だが、尾田はこれを徹底している。 
『ONE PIECE』は1つを理解させるのに10の描写がなされていて、 
これにより読者の解釈をその1つに集約させようとしている。 
小説よりは映画に近い表現方法だと言える。 

ストーリーの骨子に命を宿す為に、肉付けとして 
時代背景やストーリー設定にも配慮を行き渡らせ、 
建物や群集まで、とにかく細密に描き込まれている。 
それらを寄木細工のように配置通りに組み上げる事で、 
空想の中の大海賊時代を、まるでその場で見てきたかのように、 
具体性を帯びた世界観を作り上げているのである。 
ここまで細かい作品を週刊誌で連載している事が驚きだ。 


これは美術や文学で言う所の写実主義=レアリスムに当たる。 
写実主義は19世紀半ばにフランスで興った思潮であり、 
美術ではクールベやマネ、文学ではスタンダールが完成させ、 
日本では明治時代に坪内逍遥の『小説神髄』によって著された。 

以下はその引用である。 

 小説は、見えがたきを見えしめ、曖昧なるものを明瞭にし、 
 限りなき人間の情欲を限りある小冊子のうちに網羅し 
 之をもてあそべる読者をして自然に反省せしむるものなり。 

漫画では『ナニワ金融道』の青木雄二も取り入れており、 
社長とヒラ社員のスーツの柄の違いや、領収書の金額など、 
背景が黒く潰れるまで書き込んである。 

『ONE PIECE』にも、この写実的な手法が取り入れられている。 
見えがたきを見えしめ、曖昧なるものを明瞭にする為に、
時には背景が潰れるほどまで10の描写をしているという訳だ。


――― 


次に、『ONE PIECE』には『スラムダンク』にも見られた、 
完成されたプロットが繰り返し使われている。 

『スラムダンク』では、 

・桜木が天才の自分を夢想する 
↓ 
・ライバルに天才性を否定される 
↓ 
・自分に出来る事を絞り込む 
↓ 
・ダンクを決めて天才を証明する 

どの試合でも、基本的な流れは全て同じである。 
少年漫画に限らず、例えば高橋しんの『いいひと。』でも、 
LG編から完成されたプロットが繰り返されている。 

『ONE PIECE』では、 

・新しい島に上陸 
↓ 
・事件が起こる 
↓ 
・事件の首謀者を倒す 
↓ 
・宴を開く 

この流れが、それぞれの島で手を変え品を変え展開される。 

これは、作者の"象徴"を変化させない為に用いられるもので、 
最後まで同じテーマを伝え続けるのに有効な手法だ。 


『ONE PIECE』が連載されている週間少年ジャンプでは、 
伝統的に、努力・友情・勝利というプロットが多用され、 
鳥山明の不朽の名作『ドラゴンボール』など、 
正義の主人公が悪を討ち滅ぼす"勧善懲悪"の作品が占めている。 

ところが、『ONE PIECE』にはこれが当て嵌まらない。 

ルフィ達は悟空のように修行をする場面が描かれておらず、 
唯一例外として覇気を会得する場面も、さわりに触れただけだ。 
ベジータのようにかつての敵と共闘したのは、 
投獄されたクロコダイルらと一時的に手を結んだくらい。 
必ず勝利ともいかず、青キジやマゼランに破れ、 
シャボンティ諸島やマリンフォードでは大敗北を喫する。 

"勧善懲悪"どころか、ルフィ達の方が悪者扱いされ、 
賞金首として指名手配されているくらいである。 


では、尾田が完成されたプロットを繰り返して 
伝えようとしている"象徴"とは何か? 


――― 


再び『小説神髄』を紐解くと、坪内逍遥は、 
作品作りにおける主脳は人情なり、と述べており、 
日本人の根底に流れているのは"人情"だから、 
それをありのままに写実しなさい、としている。 

これより以前、つまり江戸時代の小説というと、 
歌舞伎の脚本のような"勧善懲悪"の作品を指し、 
それは当時においても充分に古臭いものだった。 
明治以降、二葉亭四迷らによって日本に写実主義が広まり、 
"勧善懲悪"のスタイルから、"人情"を描いた 
心理的写実のスタイルへと移り変わっていった。 


尾田の描くレアリスムは、こういった"人情"をテーマにした 
任侠映画や時代劇の影響を受けている事で知られている。 

どんな苦難も分かち合い、支え合ってきた日本人の心― 

仲間と一緒に喜び、仲間と一緒に泣き、仲間と一緒に怒る。 

なぜこの作品が何百万もの支持を集めるのかと言えば、 
明治以降に生まれた「誰にでも分かる」日本人の"人情"を、 
一切の抽象表現を排し、圧倒的な写実描写によって 
解釈の余地が残らないほどにまで伝えてきたからだろう。 


20世紀少年』はシュールレアリスムの極致にあり、 
抽象表現の奥にある20世紀の文化を読者が認識しなければ、 
作品の"象徴"を拾い上げる事はなかなか難しい。 

『ONE PIECE』はレアリスムの極致にある。 
既に読者の中に存在している解釈項を"象徴"にしているので、 
おおよそ写実主義が何たるかを知らなくとも理解できよう。 

伝統文化の魂を込めつつ、新しい世界観を構築する。 
やはり、『ONE PIECE』は凄い。
 


ご清覧ありがとうございました。

【中級】象徴と伝える技術

ゴールデンボーイ

↑言ってる事は分かるけどね…もはや漫画である必要ないよね。


漫画の表現の上で、叙述=文と、映像=絵によって 
作者と読者との間に共通認識が構築される事は、 
入門編『スラムダンク 』の回で述べた通りだ。 

この考え方は、アメリカの言語学者である、 
チャールズ・パースの提唱した記号論に基づくものである。 
記号はアイコン・インデックス・シンボルに三分され、 
これを漫画に当て嵌めると、以下のようになる。 


・アイコン「図像」 
 映像=絵。登場人物や背景画を指す。 

・インデックス「指標」 
 叙述=文。台詞やナレーションを指す。 

・シンボル「象徴」 
 作者の伝えたい事。主義主張やテーマ性を指す。 


漫画家が漫画を描く。 
それは"象徴"を伝える事と同じ意味である。 

ある漫画家は高い画力でそれを伝えたい。 
ある漫画家はストーリーの巧みさでそれを伝えたい。 
ある漫画家はキャラでそれを伝えたい。 

伝え方は違えども、伝えたいものは自分自身の存在意義だ。 


台詞の秀逸さや絵の美しさだけでは作品として成り立たない。 
叙述と映像は伝達の手段であり、目的にはなりえない。 
作者の"象徴"がまず明確化され、そしてそれが 
絵と文を用いて、いかに面白く読者に伝えられるかが、 
作者と読者との間に共通認識が生まれるかどうかを分ける。 
大事なのは3つの記号のバランスだ。 

例えば、作者の主張を登場人物にそのまま代弁させれば、 
作者の意図する"象徴"が読者に伝達される事は明らかだが、 
それで面白いかと言えば、物足りないというのが本音だ。 

絵と文章がバランス良く組み合わさって説明されていれば、 
沢山の読者と面白いという共通認識で結ばれて、 
一般的には面白い作品だと言われるようになるだろう。 
表現力が高いと読者にもより伝わりやすいし、 
それだけ多くの支持も得る事が出来る。 

だが、絵や文章の力が不足してたり難解だったりして、 
共通認識で結ばれる読者の数が少なくても、 
伝えたいものが一貫していたり、ユニークだったりすれば、 
それをキャッチ出来る読者から支持を得る事が出来る。 
やはりそれも、面白い作品であるのだ。 


漫画には、作者の"象徴"が読者に伝わりにくい作品がある。 
作者の表現したい事に技術が届かないケースが大半だが、 
中には、作者の表現が読者の理解を追い越してるものもある。 

次回は、『3月のライオン』が読者に伝わりやすい理由を、 
その次は、『HUNTER×HUNTER』が伝わりにくくなった理由を、 
2回に分けて解説していこうと思う。 
 


ご清覧ありがとうございました。

【中級】『3月のライオン』の心象描写

3月のライオン

↑まるで文芸小説に挿絵が付いたかのような表現力。


『3月のライオン』の作者である羽海野チカは、 
文芸小説に用いられる叙述的な心象描写を、 
そのまま絵に表す事の出来る、表現力の高い漫画家だ。 

一手一手、まるで素手で殴ってるような感触がした、とか、 
香子はひびの入ったグラスみたいな女の子だった、とか、 
いかにも小説的な比喩表現を使っている文章に、 
硬く握り締めた拳の絵や、半ばまで脚が水に浸かった絵など、 
描画技術によって的確に心象状態が表されている為、 
登場人物の気持ちがとてもよく伝わってくる。 

こういった描写に優れた作家は女性の漫画家に多いが、 
その多くが恋愛の話に依存して共感を得ているのに対し、 
羽海野はプロットまでもが小説の組み立て方と同じで、 
テーマ性に主眼が置かれているのが特徴である。 


――― 


『3月のライオン』は夏目漱石の『こころ』に似ている。 

「家も無いし」 
「家族も無い」 
「学校にも行って無い」 
「友達も居無い」 

アナタの居場所なんて、この世の何処にも無いんじゃない? 

という義理の姉・香子の台詞で始まる本作。 
主人公の桐山零くんは、そんな言葉を思い出しながら、 
引っ越しの荷物も未開封のまま、窓にはカーテンも付いてない、 
カーペットもない床板に直に敷いた布団の上で目覚める。 

桐山くんは幼くして家族を交通事故で亡くした事で、 
父の親友だった将棋一家の養子になり、そこで 
あまりの将棋の強さゆえに義理の姉弟から嫉まれる。 

桐山くんの心を支配しているのは"自己否定"だ。 
そしてそれは夏目漱石の生涯のテーマでもあった。 


漱石の作品は"自己肯定"か"自己否定"のどちらかがテーマで、 
『坊ちゃん』が"自己肯定"の代表格であるとするなら、
『こころ』は"自己否定"の精神が最もよく表された作品だ。 

「K」は"自己否定"をしながら道を求め続け、 
それが叶わずに最期は自分の存在を自分で絶った。 
「先生」は「K」の自殺を自分のエゴイズムのせいだと考えるも、 
苦悩の末に、やがて「K」と同じ"自己否定"に行き当たる。 

桐山くんも同じだ。義理の家族の家を出てから、 
1人暮らしを始め、高校にも通うようになるのだが、 
結局そこでもずっと孤独に、自分をひたすら消して生きた。 
自分はカッコウと同じだと"自己否定"する事で、 
自分のせいで将棋を諦めた義理の姉の面目を保とうとしていた。 


――― 


「K」は自殺する日の晩、隣の部屋で寝ている 
「先生」との間に仕切られた襖を少しだけ開けている。 
誰も寄せ付けず、ずっと心を閉ざしたままだった「K」は、 
「先生」にだけは心の襖を開いていたという事だ。 

「先生」もまた自殺する前に、妻にも開いていなかった心を、 
"遺書"という形で書生の「私」に残している。 
「K」と同じ孤独を抱えながら、「K」を理解しなかったのが、 
「K」の自殺を通じてようやく孤独の意味を理解したのだ。 


桐山くんも何も無い部屋の中で、孤独に喘いでいた。 
必死に泳いで空虚な生活から逃げてきたのに、 
泳ぎ着いた先もやっぱり何も無い無人島だった。 
将棋だけが自分が生きている存在意義だったのだが、 
自分の存在を消して"自己否定"をしていた桐山くんは、 
将棋においても自分を大切にしなくなった。 


だけど、桐山くんには二階堂くんが居た。 
桐山くんの心の中にぐいぐい上がり込んでいって、 
何も無い部屋にソファーベッドと羽毛布団を置いて帰る。 
「K」が「先生」の部屋の襖を開けていたように、 
この心の距離感が2人の関係性を表現している。 

二階堂くんも桐山くんと出会う前は、難病で友達が作れず、 
盤上で強くなる事だけが拠り所のひねくれてた子だったのだが、 
自我のカタマリに成り果て、孤独だった二階堂くんの 
アタマをかち割り、救ってくれたのが桐山くんだった。 

桐山くんの将棋がおかしい事に気付いた二階堂くんは、 
自分の将棋を大切にしてくれ、と桐山くんに訴えかける。 
それに対して桐山くんは、自分の事で一杯いっぱいで、 
二階堂くんの言葉の意味を理解しなかった。 

「先生」が「K」を理解する唯一のチャンスの時に 
自分のエゴイズムを優先させてお嬢さんに求婚したように、 
桐山くんも二階堂くんの言う自我のカタマリになっていて、 
二階堂くんと同じ孤独を背負い込んでいたのに、 
そこからずっと目を背け、逃げ続けていたのだ。 


――― 


そんな時、二階堂くんが新人戦の準決勝で倒れ、入院した。 
「K」は死を選ぶ事で"自己否定"を完結させたが、 
二階堂くんは倒れるまで自分の生きる証である将棋を指し続けた。 
桐山くんは死の影が忍び寄る二階堂くんの残した棋譜を見て、 

戦ってるんだ 
みんな たったひとつの 
小さな自分の居場所を 
勝ちとるために 

と、自分への決意を固める。 

そして決勝戦での対局中、また自暴自棄になって 
自分を見失うような強引な一手を打とうとした 
桐山くんのアタマを、自分を大事にしてくれ、と言った、 
二階堂くんの言葉がかち割ったのだ。 

桐山くんは「先生」のようにはならなかった。 
孤独の中で思い出したのは独りぼっちの苦悩ではなく、 
孤独と戦いながら生きてきた人達の事だった。 
彼はついに"自己肯定"に至り、自分を守る術を知る事で、 
自分の心を取り戻したのである。 


――― 


『3月のライオン』は、夏目作品とも比較できるくらい、 
心象描写に優れ、メッセージが読者の心に深く刻まれる。 
同じ"自己否定"から"自己肯定"に至った作品なら、 
最近では『新世紀エヴァンゲリオン』が有名だが、 
『3月のライオン』がこれだけ分かりやすいのと比べたら、 
『エヴァ』はとても分かり難い作品だと言える。 

なぜか? 

解釈項の中に、余計なステップが混じってるからである。 

『エヴァ』と読者が共通認識で結ばれる為には、 
フロイトの心理学やキルケゴールの実存哲学などを 
読者が予め知っている必要がある。 


つまりこう↓ 


【3月のライオンの解釈項】 
"象徴" → 記号化 → "象徴"の理解 

【エヴァの解釈項】 
"象徴"→ 学論 → 記号化 → 学論への理解 → "象徴"の理解 


"象徴"をそのまま叙述や映像で記号化しているものは、 
絵や文章を見るだけでそれが伝わり、理解が出来る。 
『3月のライオン』はそういう作品だから分かりやすい。 

しかし、"象徴"が薄まったりブレたりした時や、 
叙述や映像が"象徴"ではない別の何かを表している時など、 
それを読み解くのが困難になる場合がある。


次回は、『HUNTER×HUNTER』がなぜ分かり難くなったのかを、 
『ジョジョの奇妙な冒険』と対比させながら解説してみる。 


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ご清覧ありがとうございました。

【中級】冨樫義博の挑戦

HUNTER×HUNTER

↑ゴンの表情に注目。


『HUNTER×HUNTER』の冨樫義博は、ビジョンを持っている。 
『レベルE』を連載していた頃に作者自身が語っていたように、 
最初に着想があり、それを自分の中で暖めておき、 
時間を置いてから何かのきっかけで別のヒントを得た時、 
それが最初に得た着想と結び付く事があるそうだ。 

卵は放っておくだけでは孵化しない。 
抱卵して暖める事で、新しい命が内側から殻を破る。 
冨樫が休載するのは、抱卵が必要な為だろう。 
そこでようやく冨樫のビジョンが作品に落とし込まれる。 


『幽☆遊☆白書』の頃は、まだビジョンは無かった。 
他の少年漫画のプロットに着想を得て、それを流用して 
自分流にアレンジしているような作品であった。 
だが、『幽白』は魔界編より以降、少年漫画から脱却する。 
連載によって洗練され、むくむくと起き出した冨樫の"象徴"が、 
少年漫画の枠組の中に収まり切れなくなったのだ。 

冨樫は勧善懲悪を越えた"人間性"を描こうとした。 
読者の『幽白』の認識は、暗黒武術会の『幽白』である。 
暗黒武術会のプロットを魔界統一トーナメントでもやれば、 
読者の支持をずっと維持する事は出来ただろうが、 
冨樫はそれを許さず、連載を終わらせた。 

読者から見たら、それは「変わった」という認識だろう。 
少年漫画の読者が望むものは、少年漫画であるからだ。 
読者の認識と違う、象徴性が強まった『幽白』を見て、 
つまらないとか、面白くないという意見が出ても然りと言える。 
だが、冨樫の漫画は決して劣化した訳ではない。 
"象徴"が読者の理解を越え、認識が一致しなくなっただけだ。 
それは次作の『レベルE』で証明された。 


――― 


『H×H』では、『レベルE』で試された新しい枠組作りを、 
今度は少年漫画のプロットを利用して伝えられた。 
偉大なハンターである父親を探して旅に出るという、 
いかにもありがちな使い古されたプロットを流用しながら、 
揺るぎない強い信念を持った登場人物が、協力し合い、 
また相反し合いながら、1本のストーリーを紡いでいくという、 
作者の手から離れた所で作品をコントロールする、 
キャラクター重視の手法が取られている。 

実は、『H×H』の連載開始から遡ること十数年前、 
かわぐちかいじが『沈黙の艦隊』でこの手法を確立している。 
小説でもよく言われるのが、キャラクターが独り歩きをすると、 
作者の"象徴"が最初と最後で変わってしまうという事だが、 
『H×H』や『沈黙の艦隊』は、最初にキャラクターを固める事で 
ストーリーを脱線させる事なく"象徴"に導いている。 

『ブラックジャックによろしく』や『東京大学物語』は、 
作者の主観がストーリーに介入しすぎて、登場人物が 
作者の"象徴"を代弁するただのメッセンジャーになっていた。 
ストーリーを完全な客観によってコントロールする事は 
優れた小説家でもなかなか出来る事ではなく、 
実際に日本人が書く文学作品には私小説が非常に多い。 

冨樫は海外作家のような俯瞰の目線で作品を作る、 
音楽に例えれば、指揮者のような役割に徹している。 
冨樫の伝えたい事、つまり"人間性"は、登場人物の表情で表している。
10の台詞を並べるより、1つの表情で伝えようとしているのだ。
まさに漫画という媒体の特徴を活かした表現である。
だから人物の心情がどんな台詞より伝わるのだ。


――― 


『ジョジョの奇妙な冒険』では、『H×H』と逆の手法が取られる。 
『ジョジョ』の作者・荒木飛呂彦も、冨樫と同じように 
初めは少年漫画の枠組の中で漫画を描いていた。 
しかし、第5部の後半から少年漫画にマッチしなくなり、 
第6部からは読者の理解を越えた作品になっていった。 

たがこれも、荒木が目指そうとしていた"象徴"が、 
読者の『ジョジョ』に対する認識と乖離していった為で、 
当然ながら作品自体が劣化した訳ではない。 

『H×H』は最初にキャラクターをがっちり固める事で 
その後のストーリーの脱線を防いでいたが、 
『SBR』はが最初にプロットを線路のように敷いて、 
そこからはみ出ないようにキャラクターを動かしている。 
荒木の描くキャラクターは、線路を走る列車に乗った乗客である。 

第7部では、相対性理論や特異点定理、回転と重力の関係など、 
難解な学論に着想を得ていると思われる為、 
『エヴァ』と同様の分かり難さが障壁となっているが、 
荒木の描く"象徴"は、とてもシンプルなもので、 
生きる事に背を向けたジョニィの"成長"を追っている。 
これは最も人気のあった第3部の頃より巧みに描かれていて、 
劇場型とも言うべき手法は、究極の域に達した。 


――― 


手法こそ違えど、"象徴"を一貫したものにする構成力の高さは、 
冨樫義博も荒木飛呂彦も、他のジャンプ作家より抜きん出ている。 

共通認識で結ばれる読者数が前より減ったとしても、 
どちらも優れた漫画家である事に変わりはないだろう。
 


ご清覧ありがとうございました。

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