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漫画論

【作画論】(2) 実像のイメージ化

ドラえもん

↑「ドラえもんの絵」を分解してみよう。


【作画論】
 (1) イメージの実像化
 (2) 実像のイメージ化


前回、「絵」を上手く描く秘訣は、頭の中のイメージに置き換えずに
実像の見たままを写し取るように描く事にあると定義したが、
誰しもそれが出来るのであれば、誰もが天才漫画家になっているはずである。

人間の記憶は、実像そのものをインプット出来ない。
作画をする度に何かを参考にしながら描くという訳にもいかない。
上達には、鮮明なままのイメージをアウトプットする技能の習得が不可欠だ。


今回は、記憶の情報量を左右する"解釈項"を解説しながら、
記憶を「絵」に落とし込む具体的な方法を挙げてみよう。


―――


情報(Information)とは、人間の脳の内部(in)に形成(form)される、
記憶の海に堆積した砂粒の1つひとつの事である。
複雑な記号表現を記憶する時、読み取られた情報はバラバラに分解され、
0と1の電気信号になるまで単純化が行われる。

これらを思い出す際は、ひと粒ごとを探すのは非常に困難であるので、
脳の内部では類似している情報を1箇所に集積し、
すぐに引き出せるように他の情報と関連付けて保存されている。


「絵」から得られる情報は、主に3つに大別される。


 ドラえもんのイメージを分解すると…?

3要素

 ・カラー(全体の色)
  全体から得られた最も印象的な色の情報。
  似たような色の記憶と照会され、パターン認識される。

 ・アウトライン(全体の形)
  大枠のイメージとして捉えられた形の情報。
  感覚記憶から海馬へと送られ、記号認識される。

 ・ディテール(詳細)
  単純化できない細かい部分の色や形の情報。
  感覚記憶として一時的に認識されるも、すぐに消失する。


 ※ 色情報の詳細はここでは省略。「記憶色」でご検索下さい。



視覚情報はまず感覚記憶に保存され、印象の大きいものから、
感覚記憶→短期記憶→長期記憶へと順を追って送られるが、
"解釈項(Interpretant)"は、記憶を呼び覚ます"鍵"の役割を果たすもので、
「ドラえもん」を思い出す時は、"青い"や"丸い"など、
いくつかの根幹情報を基に、情報全体の復元再生が行われる。

漫画はモノクロ印刷である為、カラー(色)以外が視覚情報として取得された後、
電気信号の粒子になるまで単純化されてから、
アウトライン(大枠)だけが、"丸い"として記号認識に至る。

しかし、ディテール(詳細)に関してはほんの1~2秒で失われてしまう為、
"首→鈴がある"、"お腹→ポケットがある"という風に、
具体的に関連付けて記憶しない限り、これらの情報は復元されない。


という事は、鮮明なままのイメージを再現するには、
このディテールをいかに記憶・復元するかが重要になるはずだ。


―――


だが、実際のプロ漫画家の多くは、ディテールには時間をかけない。
漫画の「絵」は、細かい描写を簡略化するからである。

前回で使用した「お花」を例に挙げてみよう。

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どちらの「絵」が上手いかと問えば、もちろんリアルな方の「お花」と答えるだろう。
しかし、極端に写実的な描写は漫画には全く向かない。
こんな花が背景に咲いていたら、より描くべき物や人が埋もれてしまう。
かと言って記号的な「お花」を背景に据えると、今度はチープになる。

もう少し工夫したい所だが、どのようにすれば良いか?
ディテールを簡略化して、実像のアウトラインだけを活かすと良い。

漫画の絵

これで漫画の「絵」にぐっと近付いたはずだ。
元のイメージと比較してみよう。

イメージのおはな

さて、どちらの「絵」が上手いだろうか?
当然ながら、鮮明なイメージの「お花」の方を選ぶだろう。

これは、花の"解釈項"として挙げられる花びらの枚数や形などの必要条件を、
単純構成された左の「お花」より完璧に満たしているからで、
同じ記号でも"解釈項"の数が多いほど、伝わる情報の量も多くなる。

イメージと符号させればどちらも花であるのに違いは無いのだが、
アウトラインが実像に限りなく近いなら、それを見た人の頭の中では、
脳神経をリレーして、ディテールまで忠実に記憶が復元される。
他者の中にある記憶をはっきりと蘇らせるのは、
自分の中のイメージがより鮮明になっている「絵」の方だ。



解釈項

→ ディテールの記憶が復元されず、「下手」だと感じる。

解釈項

→ ディテールの隅々まで復元され、「上手い」と感じる。



このように、漫画の「絵」はアウトラインを正確に描くだけで、
イマジネーションを喚起し、鮮明なままのイメージを伝える事が出来る。
つまり上手い「絵」を描くなら、記憶の定着に不必要な細部の再現にこだわるより、
アウトラインを徹底して練習した方が効率的に上達できると言えよう。

あやふやなイメージで描いたものに、どれだけ細密さを付け足しても、
ヘタクソに見えてしまうのは、この為だ。


―――


人物を描く場合、少なからず漫画を描いた事がある人なら、
多くの場合は、人物の「顔」を描く練習をひたすら反復している。
決して間違いではないが、そればかり練習していると、
頭の中にインプットされている同じ角度からの「顔」しか描けなくなる。
イメージに無いものをゼロから生み出す事は、
人間の記憶のメカニズム上、不可能であるからだ。

漫画の専門用語では、アウトラインの事を「アタリ」と呼ぶ。
固定されたイメージから脱却するには、色んな角度からのアタリを練習し、
そこに「目」や「口」をはめ込んでいくように描くと良いだろう。

※ アタリについて
 引用:漫画考察 - 漫画の描き方を考える - / テキスト


実像は客観的で、イメージは主観的なものだ。
漫画の「絵」はイマジネーションの産物であるがゆえに、
客観的な観察眼の他にも、主観的な想像力を鍛え上げなければならない。

それが出来るプロの漫画家のように「絵」が上手くなるには、
記憶の引き出しを増やし、イメージをより多く蓄積させる事こそが、
単純な反復練習を続けるよりも重要なのである。



ご清覧ありがとうございました。

【作画論】(1) イメージの実像化


ドラえもん

↑「ドラえもん」の絵を、何も見ずに描いて下さい。


【作画論】
 (1) イメージの実像化
 (2) 実像のイメージ化


漫画は言うまでもなく、「絵」で表される芸術である。

登場人物の台詞が無くても、凝ったストーリーを考えなくても、漫画は成立する。
「絵」は漫画である事の、唯一の必要条件なのだ。


では、「絵」が上手い人と、そうでない人の違いは何だろうか。
同じものを描くにしても、人によって作画の巧拙があるが、
それを「才能」という言葉に置き換えてしまうと、違う理由は分からなくなる。

上手い「絵」には、上手いだけの理由がある。
ゆえに、上手く描く為には、上手な「絵」のメカニズムを基礎にしなければならない。
その為にも、感覚的な作画からいち早く抜け出す必要があるだろう。

作画論では、まず作画のメカニズムから明らかにしていこう。


―――


例えば、「ドラえもん」の絵を描いたとする。
「ドラえもん」を知らない人は日本にはまず居ないだろう。
このキャラクターの一般的な理解度を100%と仮定した場合、
描いた「絵」が似てるかどうかを判断するのは、「ドラえもん」の"解釈項"である。

「ドラえもん」の"解釈項"を抜き出してみよう。

 ・ 22世紀のネコ型ロボット。
 ・ 腹部にポケットが付いている。
 ・ 鈴の付いた首輪を装着している。
 ・ 球状の頭部と胴体。丸くて太め。
 ・ 短い手足。やっぱり丸い。
 ・ 体は青、顔と腹部は白のツートン色。
 ・ 鼻としっぽの先は赤色。
 ・ 耳はかじられて無くなった。



では、上に挙げた特徴だけで、「ドラえもん」を何も見ずに正確に描けるだろうか。

世間一般に100%理解されたこのキャラクターですら、
頭の中にあるイメージを、実像としてアウトプットする事は難しいだろう。


―――


「絵」を描くという行為は、イメージの実像化に他ならない。

別の例を挙げると、「お花」を描いて下さいと学校の先生に宿題を出されたとしよう。
多くの人は、下図のような絵になるのではないだろうか。
おはな
↑ イメージで描いた「お花」の絵。


「お花」の絵の"解釈項"を挙げてみよう。

 ・ 花びらは平均して5~8枚。
 ・ 葉っぱは2枚。
 ・ 花びらの中心に黄色い丸がある。

これがイメージとして描かれる「お花」の特徴である。
"解釈項"の数が、実像から抜き出した時より限られている事が分かるだろう。
しかし、イメージだけで描き出された「お花」は、
いつどんな時でも、誰が描いても、ほぼ100%同じ特徴になる。


では、実際の「花」はどんな姿をしているか、確認してみよう。


お花

↑ 「花」の実像。


「花」は太陽の方に向き、花びらは立体構造になっていて、
太い茎から数本の花茎が出ており、1本1本のその先に咲いている。
葉っぱも2枚だけでなく、養分を集める為に何枚も生えていて、
花びらの中心には雄しべと雌しべがあり、受粉しやすいように上に伸びている。

イメージで描いた「お花」とはまるっきり異なるはずだ。


―――


なぜイメージで描かれた「絵」が、実像と結びつかないのか?
それは記憶力と関係がある。人間が実像そのものを記憶出来ないからである。

物を記憶をする時、記憶の対象はいくつかの"解釈項"に分解され、
バラバラにされて脳内にインプットされる。
それを取り出す時は、バラバラにされた情報同士をリレーして呼び起こし、
元の状態に繋ぎ合わせてからアウトプットされる。
この時、断片化された記憶の"解釈項"が曖昧であったなら、
組み上げられる「絵」も曖昧になってしまう、という訳だ。


「絵」が上手い人は、例外なく観察眼に優れた人で、
他人より多くの"解釈項"を見つけ出し、記憶としてインプットする事が出来る。
抜き出された情報の数が多ければ、いざ「絵」を描くときに、
より完璧に情報を元通りにする事が出来るので、それだけ実像に近いものになる。

逆に、「絵」が下手な人は、実像の記憶を思い出して描くのではなく、
バラバラになった記憶の欠片の中から、極めて象徴的な特徴だけを拾い集めた、
記号化されたイメージだけで描いているのである。

上手い「絵」を描く為に必要なのは、頭の中のイメージに置き換えず、
見たままの姿を写し取るように描く事だと言えるだろう。


―――


絵画の世界では、前者を「写実画」といい、後者を「象徴画」という。

ピカソの「絵」が一見するとものすごく下手くそに見えてしまうのも、
作画のメカニズムが、幼い子供の描く「絵」と同じで、
目の前にある実像を見ながら描いているのではなく、
"象徴"として頭の中に渦巻いているイメージを描いているからだ。

しかしながら、ピカソは写実画もべらぼうに上手かった事が知られている。
写実画とは、読んで字のごとく、実像を写し取った「絵」であるが、
優れた画家は、実像というインプットが無い状態から、
頭の中にある鮮明なままのイメージをアウトプットする事が出来る。


漫画もやはり、鮮明なイメージのアウトプットが不可欠であるが、
漫画の「絵」を上達させる秘訣は、実像を出来るだけ克明に描くだけでなく、
「お花」の絵ように、特徴を出来るだけ絞り込んで描く事にある。

次回は、"解釈項"についてより詳しく解説しつつ、
「お花」の絵を実際にバージョンアップさせてみよう。
 


ご清覧ありがとうございました。

【キャラクター論】(2) 一刻館の人々


四谷さん

↑五代いるところに四谷あり。"変態"にして"紳士"である。


高橋留美子と言えば、数百にのぼるキャラクター達を 
安定して生産し続けてきた屈指のヒットメーカーの1人で、 
ストーリーにも定評があり、コメディから恋愛物、冒険劇に至るまで、 
幅広いジャンルの作品を残してきた事で知られている。 


高橋の作るキャラクターは、とても個性的だ。 

漫画では一般的に、人物の表情に差を付けてキャラを立てる。 
例えば、『HUNTER×HUNTER』の冨樫のキャラは、 
複雑に入り交じった人間性を、人物の表情で形而的に描き分ける。 
評論家の斉藤環は、これを「顔の固有性論」と呼んでいる。 

高橋の場合、表情で分類されるのはボケとツッコミの立場のみ。 
ボケの方が真顔で冷静、ツッコミの方が感情的、など。 
その代わり、人物を構成する"素材"に大きな落差を持たせ、 
強烈な印象を残すキャラに仕立てている。 


高橋のキャラは基本的に、2つの"素材"で構成されている。 
現実 ⇔ 非現実、常識 ⇔ 非常識、日常 ⇔ 非日常と、 
相反する"素材"を同じ人物の中に同棲させているのが特徴である。 

"冷血な雪女"かつ"お金に汚い"おユキさん。 
"ボクサー"なのに"食い意地の張った"畑中耕作。 
"恐ろしい半妖"だけど"主人に従順な"犬夜叉、他。 

理屈は野茂英雄や佐々木主浩のフォークボールと同じ。 
ストレートボールに威力があるほど落差が活きてくるように、 
彼らが真面目な顔で真剣に"素の素材"を演じれば演じるほど、 
"もう1つの素材"とのギャップが生まれ、面白くなる。 

このように、2つの"素材"を渾然一体に描く事で、 
カオティックでハチャメチャな人物が出来上がるのである。 
昨年12月にドラマ化された『らんま1/2』では、 
この2つの"素材"を分割し、別人格として成立させた。 
これも、高橋のキャラ作りに礎があるがゆえに可能だった訳だ。 


――― 


『らんま1/2』から10年前、小学館発行の少年サンデーにて、 
初の連載作品である『うる星やつら』を連載していた高橋は、 
同社の青年向け漫画誌・ビッグコミックスピリッツにて、 
1980年より『めぞん一刻』の連載をスタートさせた。 

『めぞん一刻』は、一般的にはラブコメディに分類され、 
恋愛物としてスポットが当てられる事が多いが、 
この作品の真価は、主人公・五代が暮らす一刻館の特異性と、 
五代を取り巻く人物の"素材"をストーリーに綿密に絡ませる、 
高橋の計算された構成がなされた点にある。 

一刻館には、実に個性的な面々集まっている。 
浪人生の部屋に集まってどんちゃん騒ぎを始めるような、 
五代をして「生きた非常識」と言わしめた人物ばかりだ。 
『めぞん一刻』の舞台となった時計坂には、 
スナック、テニスクラブ、学校と、様々な場所が登場するが、 
そこに息づく人々は常識を持ったキャラとして描かれるのに対し、 
一刻館の住人だけは、るーみっくわーるどのDNAを継いだ 
明らかに異質なキャラとして描き分けれている。 


その中でも、2つの"素材"の落差が群を抜いて激しく、 
一刻館の特異性を象徴する住人が、「四谷さん」である。 

「四谷さん」は、身なりや口調は"紳士"でありながら、 
思考や行動は"変人"そのもので、趣味はのぞき、特技はたかり。 
隣のに引っ越してきた五代の部屋に穴を開け、 
事あるごとに五代のプライベートに干渉していき、 
五代とヒロイン・響子との関係性をややこしくしている。 

一見するとこの人物、五代の邪魔をしているように見える。 
しかし、ストーリーを注意深く追っていくと、 
実はただの1度も、五代と響子の縮まらない関係を 
本気で害した事がない事に気づくだろう。 


この変態紳士が、どのように五代達と関わったかを振り返ってみる。 

まずは五代の最初のガールフレンド「七尾」。 
五代が部屋の穴を塞ぎ、密室で2人っきりの状況を作り上げた後、 
いいムードになって、いざ迫ろうとした所で、 
再び壁を壊し、穴の奥から「お・ま・た・せ」と出てくる。 

続いて五代の教育実習先の女子生徒「八神」。 
腰の引ける五代の部屋に強引に押し掛けてきた時に、 
「八神」を自分の部屋に引きつけ、管理人室に逃げ込んだ五代に 
遠回しに弥明後日までの夕飯をたかっている。 

「四谷さん」は、五代の本命ではない女性には邪魔をするが、 
五代の意中の相手である響子へは間接的なアシストをしており、 
甲斐性の無い五代と、踏ん切りの付かない響子を 
何かと気にかけ、2人の間を取り持とうとしている事が分かる。 
その証拠に、五代が響子と結ばれた事を告白するシーンでは、 
「よかったじゃないですか」と、純粋な笑顔で祝福した。 

このように、自分のキャラを確実にストーリーに絡め、 
読者の印象に残るような登場の仕方をしているのである。 


――― 


『めぞん一刻』では、たとえ脇役であっても 
ストーリーを動かす着実な布石として用いられており、 
囲碁の名人の一手がごとく、キャラを無駄に使わない。 

例えば、 五代と響子の関係が壊れかねないラブホテル事件が起きた時、 
事件の原因はいかにも"扇情的"な「朱美さん」が作り、
「七尾」のいつもの"かん違い"が大きな誤解を生んで、
「二階堂」の"鈍感さ"が誤解を解くきっかけになっていたりする。 

話のダレがちな終盤になっても、それぞれのキャラがきっちり顔を出し、 
納得の行くストーリー展開を生んでいるのである。
後発キャラの「二階堂」まで無駄に使用しない辺りは流石としか言いようがない。


近年における漫画では、キャラは消費するものになっており、 
"素材"がその人物の全体像を表さなくなってきている。 
ファストフードのように適当な味付けでも、お腹を満たせれば
読者はそれで満足だろうが、"素材"の味を知る事もまた必要であり、
それを教えるのは優れた作家にしか出来ない事なのだ。
高橋はそれが出来る、漫画界の三ツ星シェフである。

人間性を描く事は、作品を残す上での根幹だと言える。 
それが表面的であるほど、読後には軽い印象しか残らない。 
漫画においてキャラクターが最も重要だと言われる所以はここにある。 

『めぞん一刻』に触れれば、漫画の何たるかが分かるだろう。

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ご清覧ありがとうございました。

【キャラクター論】(1) 素材の集合体


キャラクター論

↑"己が信念"を仲間に預けるルフィ。人物像や作品の主題まで伝わってくる。


漫画におけるキャラクターとは何だろうか。 

「Character」とは、創作作品で"登場人物"を指す言葉だが、 
漫画では2つのアプローチをもって「Character」を形成している。 

1つは、形而下学的な、形の有るものとして。 
「ルフィ」が"麦わら帽子"に換喩して表すことの出来る、 
外観を伝える上での形式的な特徴である。 

もう1つは、形而上学的な、形の無いものとして。 
「ルフィ」が"海賊"としての誇りを胸に掲げているような、 
内面を伝える上での表象的な特徴である。


人間性を1つの表現で表す事は困難だが、漫画はそうはいかない。 
際立った特徴を抜き出し、強調する事が必要になってくる。 

漫画で最も重要なのはキャラであると言われているが、 
ここで言うキャラとは、意味上の「Character」を指すのでなく、 
複雑に入り混じった人間性の中から簡略して抜き出された、 
単一的な"素材"を表すもので、これらを集合させる事で、 
その人物の全体、つまり「Character」が形成されるのである。 


――― 


ところが、こうした単一的なキャラ作りが行き過ぎた事で、 
成熟した作品が目立たなくなってきたのが昨今の現状としてある。 

例えば、「ライバル」が"天才"で"お金持ち"で、とか、 
「妹」が"ツインテール"で"ツンデレ"で、という風に、 
単一化された"素材"を集合させて組み上げるだけで、 
マクドナルドのハンバーガーのようにお手軽に 
読者のニーズに応えたキャラが出来てしまう訳だ。 


本来であれば、人間性は"素材"によって単一化されても、 
"素材"の1つひとつは人物全体を類型するものであるべきだろう。 

『タッチ』の「上杉達也」は、高校野球の"エース投手"だが、 
同じエースなら『ダイヤのA』の「沢村栄純」も居る。 
しかし、"エース投手"を使って物語を進行するのに、 
"バントだけはやたら上手い"というキャラの抜き出し方では、
「沢村」全体の人物像は見えてこない。
事故死した弟より速い球を投げる"双子の兄"の「達也」のように、
マウンドに向かう強い動機となる"素材"が欠かせないのである。

逆に、『NANA』の「小松奈々」や『DEATH NOTE』の「ニア」は、
人間性は類型できても、キャラの抜き出しが弱い。
全体の人物像が形而的に表されていない為、
特徴が伝わらず、読者の認識が分枝する可能性があるのだ。


つまり、人物の特徴を形而的に強調する事に配慮しながらも、
抜き出す"素材"はその人物を"象徴"するものが望ましい。 
単一化された"素材"は他者と差別化する為の記号に過ぎないが、 
その記号から人物像までをも類推させられるような 
可逆的な意味を持たせる事が、キャラを立てる事に繋がるのだ。 


キャラ  人間性
"素材"←→"象徴"


「ルフィ」は"麦わら帽子"に触れられる事を嫌がるが、
信じた仲間になら、それを預けようとする。
ここに、「ルフィ」の人間性を見る事が出来よう。


―――


キャラ作りが重要なのは、漫画に限らない。

『ふしぎの海のナディア』の主人公、「ナディア」は"肉嫌い"であるが、
これは彼女の過去や人間性に深く関わっている"素材"である。
『仮面ライダー555』の主人公、「乾巧」の"猫舌"も、
後のストーリーで怪人化する重要な伏線になっている。
『仮面ライダーカブト』の「天道総司」の"料理好き"とこの点が異なる。

最近では漫画的なキャラが芸能人などへも拡張していて、 
AKB48、オリラジ藤森、川越シェフ、尾木ママなど、 
形而下学ないし形而上学的な"素材"の集合体がウケている。 

複雑な人間性を分かりやすくアピールする為にも、
キャラ化は欠かせないのだろう。


次回は、高橋留美子『めぞん一刻』の登場人物の1人、 
四谷さんにスポットを当て、キャラ作りの秘訣に迫る。
 


ご清覧ありがとうございました。

【上級】象徴の両極性


火の鳥

↑記号化された生命の"象徴"。


作家が思い描く理想は、それを追い求める事で"象徴"となり、 
叙述や映像といった"記号"を用いて表す事で現実となる。 
ところが、理想と現実は掛け離れているもので、 
なかなか現実は理想通りに行かないのが、作家の苦悩だろう。 
それゆえに表現力を磨き、自分の理想に近付けるのだ。 


今から200年ほど前から、宗教や科学といった神話的なものが 
論理や演算によって説明され、意味付けられるようになった。 
19世紀は「理性の時代」と呼ばれ、ありとあらゆるものに 
意味を持たせていく事が、人間性を表すと考えられていた。 

ところが、どうやっても意味付けできないものがあった。 

それが、人間の感情だ。 

叙述や映像によって記号化=意味を持たせるという事は、 
固定してそこから動かなくする、断定という静的な動作である。 
だが言うまでもなく、人間の感情は動的で不断だ。 
揺り動く感情を、1つの表現で記号化する事は出来ない。 

例えば、テレビタレントの「ベッキー」を見て、 
"明るい"性格な子だと記号化する事が出来るだろうが、 
ハーフとして周りから区別されてきた"暗い"一面もあろう。 
どんなに正しく意味付けしようとしても、人によって 
受け取り方が異なるし、理解のされ方も違ってくる。 
人間性とは、19世紀の学者達でも答えを出せなかった、 
とてつもなく深淵で、複雑怪奇なものなのだ。 


ドイツの哲学者、エルンスト・カッシーラーは、 
人間を19世紀的な「理性の動物」としてでなく、 
感情と理性の間にある"象徴"を取り出す事の出来る、 
「象徴の動物」として定義した。 

二律背反する人間の感情は、"記号"で表す事が不可能だが、 
"記号"を越えた"象徴"を使えば説明出来ると考えたのだ。 
この思想は、シンボル(象徴)の哲学と呼ばれる。 

カッシーラーは"象徴"をイカロスの飛翔に例えている。 
太陽には届かないと分かっていても、翼を持って翔び立つのが、 
人間性の本質を表すものだとした。 

太陽=理想 > 蝋の翼=象徴 > 地面=現実 


欧州では19世紀末から20世紀初頭にかけて象徴主義が興り、 
文学では抽象的な叙述、絵画では抽象画が流行り始めた。 
ピカソや岡本太郎は、動的で不断な人間の感情を、"象徴"によって 
両極の意味合いを包括し、過不足なく伝えようとしたのだ。 

漫画にもやはり、抽象化作品と、具体化作品がある。 
次回は、抽象表現で理想と現実の間を描いた『20世紀少年』を、 
その次は、空想写実を具体化した『ワンピース』を解説する。
 


ご清覧ありがとうございました。

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