↑オープニング曲でのたまこは、なぜマジシャンの格好なのか?
『たまこまーけっと』というアニメが人気らしい。
らしい、というのは、これまで観た事が無かったからです。
ウチの地区じゃアニメの深夜放送が無い為、
ちょっと観てみようかなという習慣が生活に組み込まれてません…。
アニ友さん達が上げる視聴感想は覗かせてもらってるので、
最近のトレンドがどういった作品にあるのかは知りえてるんですが、
それにしても、『たまこま』 の感想から得られる情報には、
言いようの無い違和感があるのを、第1話から感じていました。
こう、何て言うか、『エヴァ』や最近の宮崎アニメを観た後のような違和感。
釈然としないのに話だけがどんどん進んでる感覚が、
映像を観てもいない私でも、アンテナにびんびん伝わってくるのです。
この違和感は、第2話の感想でより強くなりました。
ヲタブロ : たまこまーけっと 第2話「恋の花咲くバレンタイン」レビュー・感想
『たまこま』には、何かある。
そう確信して、何とか視聴する方法を探してみたところ、
おお…ネット配信されてるじゃないですか。しかも公式で (*´∀`人)
これはもう観るしかないな…神が私にそう告げている。
という訳で、当道場では初となる深夜アニメの考察を、
『たまこま』の違和感の謎を解き明かすべくやってみたいと思います。
第2話までに分かった事を踏まえて掘り進めますが、
この謎の答えが導かれた時、果たしてどんな視点が生まれるのでしょうか。
―――
まずは、違和感のいきさつについて纏めてみます。
『たまこま』の舞台となるのは、「うさぎ山商店街」なるアーケードですね。
昔ながらのお店が軒を連ねていて、古き良き伝統が守られてます。
が、昔ながらのお店に居るはずの店主に、なぜかレトロ臭が一切しないのです。
町内の人はアーケードで買い物を済ませ、外れにある銭湯に通うなど、
時代錯誤な描写が至る所で散見されるにも関わらず、です。
↑ありえないその(1) 神田川…です。
資本の統廃合が進められる中で、保守的な働きかけを全くせずに、
アーケードの姿を存続させている事は"ありえない"ですし、
それとは逆に、耳にピアス穴を空け、折り畳み携帯を駆使する兄ちゃん達が、
積極的に町内会に参加してるのも"ありえない"です。
『ちびまる子ちゃん』の時代ですら、町内会という枠組みが嫌だったと、
まる子が盆踊りに参加する回で語られてますし。
しゃべる鳥はそんな"ありえない"の代表選手に過ぎません。
唯一、たまやの人達だけが、隣のライスケーキ屋なる店にツッコミを入れ、
「あんこ」と付けられた安直な名前を嫌がってます。
ピアスの兄ちゃんも「もち蔵」とかいう名前に疑問を持つべきだよね。
↑ありえないその(2) お前の事だよ。
で、この"ありえない"の中心に居るのが、主人公の北白川たまこです。
高校のバトン部の友達と仲良く楽しくやってる普通の女の子が、
隣のピアス兄ちゃんと携帯ではなく糸電話で会話し、
商店街のPR活動には友達も巻き込み、率先してこなすのです。
誕生日になれば町中の人が「今年こそは」とお祝いに駆けつけます。
町の人達と仲良しな所を強調するのは、それはつまり、
桜高軽音部のような纏まりを町内の人に持たせてるという事です。
京都アニメーション制作の従来のアニメ作品では、
ごく親しい身内同士の親交だけが強調されてきましたが、
コミュニティ規模が町全体に広がったのは初めてだと思います。
↑ありえないその(3) 町の人達との距離が近すぎる。
『たまこま』はこのように、"ありえない"描写を積み重ねているようで、
背景に何らかの意図が働いていると思えるのです。
町内会の枠組みがいかにもわざとらしく作られすぎている。
『gu-guガンモ』のような鳥との心温まる交流の話でもなさそうですし、
かと言って商店街の傾陽をどうにか救う話でもありません。
そして単なる日常風景を模した話でもない。
うさぎ町商店街という空間を、実際に図面を引いたかのごとく、
全て計算尽くで作られてるような気がするんですよね。
これまで背景構造を明確に意図した作品は無かったと思いますから、
そこには必ず、何か別の目的があるはずなんです。
私はその何かに違和感を覚え、考察に至ったという訳です。
―――
現実にありそうで"ありえない"うさぎ山商店街ですが、
ではなぜ、"ありえない"ほど仲良しな様子が描かれているのでしょうか。
ドイツの思想家、ヴァルター・ベンヤミンという人は、
『パサージュ論』の中で、19世紀のパリに実在したアーケード街を、
「街路を遊歩する事で、室内に彩られた歴史を幻視できる空間」と定義し、
街路と室内が分離したデパートと比較しています。
歴史性というのがポイントで、アーケードを遊歩する人達は、
時代を形象してきた店々によって、過去に連なる夢を見ているというのです。
町の伝統を象徴する餅屋・たまやの異端児であるたまこは、
昔ながらの商店街に自然と溶け込んでいます。
たまこのゆるーい空気に町中が染め上げられているかのようですが、
町の人達からレトロ臭がしないのは、これを視聴するユーザーが、
たまこの視点から商店街を見ているからだと思われます。
ユーザーから見たたまこは、学校に通い、友達と部活に励むなど、
日常を描写した従来の作品の延長線上にありますが、
うさぎ山商店街は、たまこにとっては日常の一部と言えども、
外から見たユーザーにとっては"ありえない"くらいの異空間です。
町の人達があれほど仲良しに描かれるのは、
そこが古き良きの時代を形象している空間である事を、
見ている人に伝える為ではないでしょうか。
つまり、ユーザーはうさぎ山商店街に紛れ込んできた遊歩者であり、
私達は夢の中に映し出された街路をぶらぶら散策しながら、
たまこの視点を通じて、形象化された商店街のかつての姿を見てるのでしょう。
『たまこま』はこの構造を作為的に生み出しているようで、
しかもそれはベンヤミンの理論が基になっていると思われます。
↑楽しい空間に引き連れられる町の人達。
例えばオープニングでは、たまこがマジシャンの格好をして、
シルクハットから鳥を出し、町の人達を引き連れてマーチ行進してます。
しゃべる鳥はたまこが生み出したマジック=奇術であり、
夢の商店街も全てマジックで形象したものだと言わんばかりです。
ユーザーも行進の後に付いて夢の世界へ連行されてるに違いありません。
もう鳥を頭に乗せて歩くなんか、普通に見えてしまいます。
ベンヤミンはアーケード街に映し出される夢の空間を、
ファンタスマゴリー(映像機で映し出された幻)と名付けてますが、
興味深い事にあの鳥は時々、目から光を投射して、
元の飼い主?である王子と故郷の映像を出力してますよね。
色んな所でベンヤミンと符号するのが私、気になります。
―――
さて、ここまで書いておきながらぶっちゃけますが、
文中で解き明かした謎は全て仮定によるこじつけに過ぎません。
定期的にやってる平成仮面ライダーの学術的考察も、
10年以上続けてきたからこそ、私自身も納得しています。
なのでこれからは毎回、京アニ作品をガチで考察していきましょうかね。
もしかしたら先行した『氷菓』や『中二病でも恋がしたい!』でも、
既にこういった学術的背景が用いられてるかも知れません。
私は深夜アニメについて考えた事はありませんが、
今後はDVDでも借りて、深夜デビューしていこうと思います。
ご清覧ありがとうございました。