漫画道場

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概論

【クールジャパン論】(1) 日本が海外に受け入れられない3つの理由


クールジャパン


↑ですよねー。


経済産業省がクールジャパン室を設置してから、6月18日で2年が経つ。

クールジャパンは、主に知的財産を基盤とした産業の輸出拡大を目的とし、
特に国内では自動車産業に比肩するほどの市場規模に成長した、
映画やドラマ、漫画やアニメ、音楽、ゲームなどのコンテンツ産業において、
国際競争力の強化への指針として具体的な数値目標を掲げ、
2020年には、デジタル・ネットコンテンツビジネスを1.5兆→7兆円、
クールジャパン関連産業の4.5兆→17兆円の市場を獲得するとしている。

今年5月29日には総理官邸にて知的財産戦略本部が開催され、
「知的財産推進計画2012」なるものも発表された。


しかし、その海外では日本のコンテンツ産業はとっくにピークを過ぎており、
映画やドラマは韓流に押され、音楽だけが頼みの綱となっている。
アニメは06年、漫画は07年、ゲームは08年以降に国内でも市場規模が減少し、
状況としては輸出拡大どころか、総じて縮小傾向なのである。

かつてジャポニズムはゴッホなどに影響を与え、海外の価値観をひっくり返した。
果たしてクールジャパンはジャポニズムの再来となるのか、
筆者の思う所を、過去に書いてきた記事の総論として纏めてみたいと思う。

なぜ海外に受け入れられないのか?今回のポイントは3つ。

(1) 造形の違い
(2) コンテクストの違い
(3) 文化の違い

これらを明らかにする事である。


―――


(1) 造形の違い

海外のアニメやゲームに登場する造形の濃いキャラクターを見て、
「バタ臭い」と思った事はないだろうか。

これは感覚的に感じているものではなく、きちんとした客観的基準がある。
それが「黄金比(1.618:1)」と「白銀比(1.414:1)」である。
数学者である中村滋の著書「フィボナッチ数の小宇宙」では、
外国人が黄金比を好むのに対し、日本人は白銀比を好む事が示されている。

西洋での美の基準となるのは、やはり黄金比だ。
海外に行けば日本人は童顔に見られる事が多いのだが、
これは外国人の顔の方が日本人より平均的に面長で、
目鼻立ちもより大人っぽく見える為である。
モナリザの顔の縦横比が1.618:1で描かれているのに対し、
日本人が美人とする顔立ちは、縦の長さが僅かに短い。
その為、日本生まれのキャラクターも縦長の顔の持ち主は少なく、
海外では「醤油臭い」と思われる理由になっているのかも知れない。


参照:日本人は黄金比よりも白銀比や正方形が好き?
http://amuta.jp/asarticles/silver.html


日本でも受け入れられている例外と言えば、ミッキーマウスくらいだろうが、
それもそのはず、ミッキーは手塚イズムを受け継いでいるからである。



(2) コンテクストの違い

日本のコンテンツ産業の最大の強みは、キャラクターを中心とした
コンテクストマーケティングの確立と展開の速さにある。
「コンテクスト」は"文脈"と訳される事が普通だが、この場合は"顧客背景"を指し、
顧客のニーズに合わせて記号化・象徴化された個性やテーマを、
理解度の高い顧客が「察する」事で成立するマーケティング方法の事だ。
日本ではこれが当然のように行われており、ハイコンテクスト文化とも呼ばれている。

これはAKB48とK-POP、両者のマーケティングを比較すれば瞭然で、
K-POPが"グループ"を売り込むのに対し、AKBは"個"を売り込んでいる。


海外ではこういったコンテクストが共有されていない為、
デフォルメされたキャラクターからは、全体を「察する」事が出来ない。
キャラクターだけでなく、日本は今やゲームや家電製品に至るまで
あらゆるものが"文脈病"に陥っており、ガラパゴス化していると言われている。
同じ日本人でも理解出来ない人が居るようなコンテクストなら、
外国人がより難解に感じるのは、想像に難くない。

しかも、現在のコンテンツ産業はますますコンテクストに依存している。
悪い事にはそれが先鋭化してデフォルメされた型だけが共有され、
特定のターゲット以外には全くウケなくなる傾向になってしまった。
『にこにこぷん』が『ぐ~チョコランタン』になっても
基盤となるコンテクストが変わらないのと同様で、
産業構造としてはNHK教育の子供番組と大差が無いほどの偏り方である。



(3) 文化の違い

海外では圧倒的に大人の文化が支持されている。
子供は未完成として扱われる為、子供を感じる要素は徹底して排除される。
ところが日本のキャラクターは、造形にしろコンテクストにしろ、
海外から見たら「子供っぽい」と思われるもので出来ている。

日本では「内心の自由」が憲法によって明文として認められており、
子供と大人の文化が混ざっているコンテンツも、中身が伴えば大人として扱われるが、
海外では、大人と子供は宗教観によって完全に隔てられていて、
子供に通じる行動だけでなく、思想ですら道義に反する行為である。

もちろん知的財産についても同様で、子供を感じさせる文化は、
日本では受け入れられても、海外では受け入れられない可能性が高い。
輸出面で未だ2%ほどのシェアしか獲得出来ないでいるのは、
こうした如何ともしがたい理由を抱えているからだろう。


―――


日本のコンテンツ産業は、こういったものに頼らざるを得ないほど、
何年も前から頭打ちの、厳しい状況に追い込まれている。
だが元々は白銀比の芸術も、キャラクターコンテクストも、
日本のお家芸=ストロングポイントだったはず。

問題は、自国の文化を売り込むにあたり、方向性が定まっていない事である。
片方では数値目標を掲げて推進しているように見せかけても、
もう片方ではそのストロングポイントを規制する動きがあるのだ。

次回は、コンテンツ産業への規制と市場縮小の関係性について、
具体的なデータを用いて解説していこう。
 



ご清覧ありがとうございました。

【オタク論】(2) 死に至る病


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↑アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』第16話のサブタイトル。



漫画やアニメなどのサブカルチャーに対する理解は、
それを支持する「オタク」と共に、有意水準の壁の向こうに追いやられている。

「オタク」の不幸は、ここまではまだ入口の段階だ。
存在を否定された「オタク」は、嗜好を理解をされないばかりか、
嫌悪の対象として一般的に認識されるようになった。
趣味に投資してきた分、ファッションに投資してきた人に比べて、
トレードオフで"見た目"の有意水準をクリア出来なくなっていたからだ。

カフカの『変身』に出てくる主人公のグレーゴルは、
ある日の朝、起床した自分の姿が巨大な害虫に変わっていた。
薄気味悪い姿に、妹のグレーテをはじめ、家族一同も嫌悪感を示す。
グレーゴルには家族に対する変わらぬ愛情が残っていたのだが、
家族は彼を次第に見放していき、彼は"絶望"して死に至る。
"見た目"は、人格ないし存在まで否定される理由にさえ成り得るのである。


こうなるともはや出力の有意差など関係ない。
オタクのステレオタイプが浸透するようになった頃から、
おおよそ"ボサボサの黒髪"で、"ダサいメガネ"をかけ、
"無粋な格好"をしている人なら、異常な値を出すに違いないと、
"見た目"でレッテルを貼られるようになった。
逆に、共通理解をされている"おしゃれな格好"の人などは、
正常な値であると見なされる事も多かった。


恋愛市場には、標準偏差というものが確かに存在する。
少女漫画論の回で述べたように、自分の理想をベースに
ルックスやファッションなど多岐にわたって有意水準が設けられ、
その水準内に正規に分布されているものだけが、恋愛対象となる。

これらの傾向は、『げんしけん』によく表されており、
イケメンの「高坂真琴」と、そうでない「斑目晴信」は、
同じアニオタでも一般人の「春日部さん」からの扱われ方が全然違う。
かたや「春日部さん」と交際し、自分の趣味を披露しても甘受される。
かたや日陰者で、「春日部さん」の鼻毛を指摘すればグーで殴られる。
変身したグレーゴルと同様に、"見た目"の有意水準に従って
「生理的に無理」という判定がなされているのだ。

いつしか「オタク」はこうした不条理な有意差に対し、
「ただしイケメンに限る」という言葉を使うようになった。
この言葉は、イケメンを否定しているのではない。
正規分布から外れた孤独な自分に"絶望"する、自己否定の言葉である。


―――


カフカはニーチェの実証主義の影響を受けており、
自分にとって、また他者にとっても誠実でありたいカフカは、
実証の過程を飛ばして決め付けを図る現実世界から乖離した存在だった。
文学を揶揄する偏見に満ちた父親への反目は、
かえって自分の中の文学意欲を高め、そして孤独にした。

カフカの文学は、彼が死ぬまで一般的には注目されなかった。
それは、彼はユダヤ人だった事も関係していると思われる。
しかしその死後、少ない理解者達によって彼の名前は世界中に広められた。
今では20世紀最高の文学に数えられるほどの人物が、
このような孤独な人生を歩んでいようとは、何という不条理だろうか。


実存哲学の祖として知られるデンマークの哲学者・キルケゴールは、 
こうした不条理を、著書『死に至る病』の中で以下のように説明している。
一般の人は、自己自身であろうという大それた事をせずに、
群衆の中に混じって他の人と同じようにしてる方が安全であると考えるが、
自己自身であろうとする人にとってそれは"絶望"である、と。

「斑目」はオタクファッションを「春日部さん」に笑われ、
「オタク」に見えないような服を買いに街に出るが、値札を見て愕然とし、
「買い物は自分の判断で決める。なぜならそれが自分そのものである。」
と、自己自身としての精一杯の矜持を口にしている。
(しかし、彼は結局それなりの値段の服を買い、妥協をするのだが。)

漫画オタやアニオタは、カフカと同じ苦悩を抱えている。
「オタク」にとって自己自身であろうとする行為は、
一般の人から見る有意水準から外れたものであっても、
彼らにとってはそうしなければ生きる価値が見出せないものだろう。
それを止めてしまえば、自分が死んだのと同じである。
だからこそ、「オタク」は奇異の目で見られ、たとえ嫌悪されても、
自己否定という死に至る病="絶望"と戦いながら、
自己自身を確認する為に、「オタク」としての矜持に生きるのだ。


『死に至る病』は、『新世紀エヴァンゲリオン』にて、
アニメ版の第16話のサブタイトルとして使用されている。

この作品がなぜ、オタクから絶大な支持を集めたのか、
次回は、主人公・碇シンジくんの心の葛藤を探ってみよう。

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ご清覧ありがとうございました。

【オタク論】(1) 統計学で「オタク」を定義する


正規分布

↑信頼率(1-α)の高い一般的な意見を採択した時の、
 オタクの認識への過誤を犯す確率(α)の図。たぶんあってる。

 引用:ようこそ、化学標準物質の不確かさへのいざない様
 (http://staff.aist.go.jp/t.ihara/confidence.html)より


「オタク」という言葉を聞くと、すぐに思い浮かべるのが、 
いわゆる秋葉系の、アニメや漫画などにどハマりしている男性でなかろうか。 

実際の所、それは一般人から見たステレオタイプなイメージに過ぎず、 
『仮面ライダー555』の半田健人は中川翔子と比肩するほどのネ申オタであるし、 
アスリートとして名高い柏原竜二や成田童夢もガチオタとしても有名だが、 
一般認識として、肯定的な捉え方をされる事は少ない。 
とかく、「オタク」はイメージがすこぶる悪い。 


「オタク」の定義には色々な解釈があり、例えば評論家の東浩紀は、 
キャラクターなどの愛玩的対象を構成する無数の記号を、 
自分の中に予め集積してあるデータベースと照合し、 
自分好みのものに選好して消費する人物を指すとしている。 

ただし、これは狭義的な観点から見たオタク像であり、 
先に挙げた半田健人の例には当てはまらない。 
自らをオタキングと名乗る岡田斗司夫は、SFオタクを自称する為に 
古今東西のSF作品を嗜好の有無に関わらず1000作品を観賞し、 
SFの知識を深めた事でオタクの王の地位を得たそうだ。 
広義の「オタク」は、選好などせず手に取ったものを片っ端から消費し続け、 
幅広く知識を取り入れた人物を指していると見るべきだろう。 


最も「オタク」を端的に表したのが、『バカの壁』の養老孟司が示した数式だ。 

 αx=y 

一般の人は、脳内入力 x にかかる脳内出力 y の値はイコールだが、 
「オタク」は、入力 x に係数 α が乗算される為、出力 y が膨大になる。 


―――


「専門家(マニア)」と「オタク」の違いはどこにあるか。

例えば小説や映画などのハイカルチャー評論を行うマニアと、
漫画やアニメなどのサブカルチャー評論を行うオタクは、どう違うか。
どちらも係数と出力の偏りの度合で言えば同じ意味となるだろう。


異なる2つのサンプル群のどちらが有益な情報かが未知である場合、
多くの人は自分の経験則、即ち主観によって情報を検定する。

 仮説(1) 「ハイカルチャー」は「サブカルチャー」より有益である。
 仮説(2) 「ハイカルチャー」は「サブカルチャー」より有益でない。

この時、"有益である"との仮定に基づく説を"対立仮説"といい、
"有益でない"との仮定に基づく説を"帰無仮説"という。
帰無仮説は、初めから棄却されて無に帰する事を前提としている。
このような仮定が現実に満たされるかは実証の問題で、
幾度もの反証テストを経て、信頼性の強度を勝ち得た仮説が、
晴れて一般論として広く認識されるのだ。

「マニア」は、こうした反証に支えられたハイカルチャーを論じる点で、
「オタク」が出力する情報とは違うと判断する事が可能である。
文学や映画は、優れた文化であるとして既に一般化している。
半田健人も昭和歌謡の知識において大作曲家の阿久悠にも認められたほどだが、
それもやはり時代を知る世代に歌謡曲が共有されてきた裏付けがあるからだ。


しかし、「オタク」を定義する上においても、
そのような反証が実際に行われたかどうかは疑わしい所だろう。

例えば漫画の場合、手塚治虫の時代から記号論が用いられている事が知られ、
現在では文芸小説にも劣らない高い文学的な技術や、
難解なテーマを作中に見事に落とし込んだ作品が数多く見られる。
アニメの場合でも、宮崎駿とジブリ作品を初めとして、
映画にも引けを取らないほどの印象的な映像表現を駆使し、
世界的に認められた作品の例はいくらでもある。
これは、別の仮説からの反証によって対立仮説を覆せる事の証明である。

だが、サブカルチャーに対しての反証が共有されてきた例は、
手塚や宮崎作品などを除いてほとんど存在しない。
サブカルチャーはハイカルチャーの付録だと思われているからだ。
情報を精査する上で有益な情報が選ばれるのであれば、
小説や映画より、漫画やアニメが劣っているものと主観的に判断し、
帰無仮説として棄却する事は、充分に理屈に反している。

このように、1つの仮説に対して補助仮説を立てて反証する考え方を、
デュエム-クワイン・テーゼ(決定不全性の命題)と呼ぶ。
物事には、色んな見方が必要だ。 


―――


一般的な認識と「オタク」の認識の違いの表し方は、偏見による所が大きい。
両者を区別するのは、出力された情報の大きさや深度ではない。
出力を受け取る側の情報許容量="有意水準"によって区別されるのである。 

一般化された情報の場合、情報を受け取る側の有意水準が高く、 
有意差も"正常なバラツキの範囲内"として見られるだろうが、 
「オタク」が出す情報だと、受け取る側の有意水準がおおむね低くなる為、 
有意差を"異常な値"として認識される場合が多い。 

共通理解の多い情報に対して100を出力できる人は褒められても、 
共通理解できない情報に100を出力されると気持ち悪がられる、という事になる。 
特に、東浩紀が著書の中で「動物化している」と表現した、 
美少女コンテンツを対象とする入力にセクシャリティの係数がかかる場合は、 
出力される値が正常だと一般的に認識される事はまず無いだろう。 

「オタク」はこのようにして、一般認識という有意水準から外れた 
はみだし者として扱われ、存在を否定されるのである。 


次回は、カフカの『変身』とキルケゴールの実存哲学から、
「オタク」の定義における補助仮説を挙げていこう。
 


ご清覧ありがとうございました。

【萌え論】(2) 倒錯の芸術美


同級生トゥハート

↑『同級生』と『To Heart』、どちらが"黄金比"に近いか?


現在の「萌え」を芸術美の完成、つまり"黄金比"としてみた場合、 
"黄金比"が確立する前の「萌え」の原型となる絵柄は、 
90年代に流行した、恋愛をテーマにした漫画やアニメ作品、ゲームなど、
美少女ものとして区分されるコンテンツの中に見られる。


1997年、『新世紀エヴァンゲリオン』の再放送を受けて、
深夜アニメの採算性が見込まれるようになり、
テレビ東京を中心にアニメの放送枠が急速に拡大した。
これより以前ならOVAとして作られただろう美少女ものの作品群も、
深夜枠を利用して地上波に流入する事となる。

が、同時期はTV業界全体で自主規制の嵐が吹き荒れる真っ直中であった。
98年には『ギルガメッシュないと』が打ち切りとなり、
深夜アニメにおいても、OVAでは積極的に用いられたお色気シーンの数々を、
地上波でそのまま適用する事は難しい状況にあった。

そこで白羽の矢が立ったのが、既に表現規制の問題をクリアし、
ブームを呼んでいた美少女ゲーム(ギャルゲー)のアニメ化である。

ヒットの要因は、美少女を美少女として描く作画技術の高さにあった。


―――


もともとギャルゲーは、アダルトゲーム(エロゲー)から派生したものだ。
美少女コンテンツの草分けは、92年発売の『同級生』とされているが、
同作品はエロゲーとして先にヒットを収めており、
家庭用ゲーム機に移植される際、「エロ」を完全に取り除く事で、
美少女として描かれた人物画と、背景となる心理描写が残った。

何をもって"美少女"とするかは様々だが、客観的には美しいと認識されるには、
端整な顔をした若い女性を、誰にでも分かるように美しく描く必要がある。
『同級生』の原画家・竹井正樹は、それに相応する作画技術を持っていた。 
エロゲーもギャルゲー同様、万人を説得する力が絵に無ければ、
審美眼の厳しいユーザーから冷たく見放されてしまう。
こうした技術的な下地があったからこそ、「エロ」が無くとも
キャラクターに深く感情移入する事が可能な美少女ゲームになりえたのだ。


しかし、「萌え」と比較した場合、竹井の絵は"黄金比"から外れている。 
どちらかと言えば『同級生』より後にヒットした 『To Heart』の方がそれに近い。 
前者の絵は顔の輪郭線がはっきり描かれているのに対し、 
後者の絵は鼻や頬の線がほぼ省略され、よりデフォルメされている。 


かつてのアダルトコンテンツは、劇画調が主であり、
顔の線や陰影は多く、裸体や服のしわも細微に描かれていた。
だが、そうした絵柄が用いられた女性は老けて見られる為、
次第に簡略化した線が用いられるようになった。

こういった特徴を表す作品は、美少女ブームより以前に存在している。 
1982年頃に流行した、ロリータブームである。 
 漫画で言えば内山亜紀、アニメで言えば『くりいむレモン』に代表される、
少女のかわいらしさを強調したような絵柄は当時から人気があり、
それ以外の目鼻立ちの濃い絵柄を市場から締め出すに至った。
『To Heart』は、そうした時代の変化を揺り戻すかのように、
竹井の絵を時代遅れの古臭いものへと追いやったのだ。

同作品は家庭用ゲーム機へと移植され、「エロ」成分が除去された後、
表現規制の風が強まった地上波で、堂々と放送される。
これ以降、より洗練された絵柄が用いられた『シスタープリンセス』が生まれ、 
「萌え」が一大ブームとなる礎が築かれていったのである。

「萌え」の"黄金比"となる絵柄は、ロリータブームを起源にし、
『To heart』によって方向性が決まり、『シスプリ』によって広まったと見られる。
 

―――


「萌え」作品は、こうした市場背景を持っており、 
80年代の淘汰を生き残った作家や、それを模倣してきた後続によって 
脈々と受け継がれてきた"黄金比"の絵柄によって表されている。 

"黄金比"とは即ち、これまでユーザーが「エロ」として消費してきたものだ。 
萌え漫画の代表格である『あずまんが大王』のあずまきよひこが、 
かつて『淫魔の乱舞』というエロ漫画を描いていた事も、 
あながち偶然ではない何かを感じずにはいられない。 

「萌え」は、「エロ」とははっきり違う。 
それこそ、『あずまんが大王』と『淫魔の乱舞』ぐらい違う。 
しかし絵柄だけを見て「萌え」と「エロ」を比較した場合、
ギャルゲーとエロゲーの美少女が同じ"黄金比"で描かれているように、
両者の境界も極めて曖昧になる事は確かだろう。

「萌え」とは、パラフィリア(倒錯)の芸術美である。 
個人の嗜好、つまりへーゲルの言う即自的な主観が、 
ロリコン(少女愛)や、フェティシズム(性対象倒錯)など、 
倒錯としての様々な形が存在するだけで、そのメカニズムは全く同じだ。 
「エロ」を排除しても残りうる美的感覚が対自的な客観として働く事で、
「X=¬X」というあり得ない数式が成立し、 
全く違うものが、あたかもイコールであるように倒錯を起こす。 

これが「萌え」の正体なのではないかと思う。 

美少女から「エロ」を取り除いても、倒錯によってそれを補完する事は、
『伊豆の踊り子』で言えば、主人公である「私」が、
女湯から身を乗り出して手を振る天真爛漫な「踊り子」を見て、
笑いがこみ上げてくる感覚と同様のものであるだろう。


次回は、へーゲル弁証法的な観点から、 
けいおん!』と芸術美について、 詳細に述べていく。


 この記事はアニプレッションに投稿しました。
 


ご清覧ありがとうございました。

【萌え論】(1) へーゲル弁証法で「萌え」を定義する


いまいち萌えない子

↑いまいち萌えない子。「萌え」の"黄金比"から外れている。


2011年1月14日、神戸新聞社が出したアルバイト募集の広告で、 
こんなユニークな問題が出され、話題になった。 

 右のキャラクターがいまいちいけてない(萌えていない)理由を3つ挙げなさい。 

問題のキャラクターとは、通称「いまいち萌えない子」と呼ばれ、 
ツインテール、だぼだぼのセーラー服、ニーソックス、ぺたん座りと、 
いわゆる"萌え要素"を必要最低限に備えているのに、 
どういう訳だがまるで萌えない、全身青尽くめの女の子だ。 

「萌え」については、これまで色んな解釈がなされてきた。 
そして、"萌え要素"は個人の嗜好によって左右される曖昧なものとして、 
見解を統一する定義が述べられる事は無かった。 
ところが、この子はどう見ても「萌え」度合が不足しており、 
その定義付けに解釈の余地が残されている事をはっきりと示したのである。 

「いまいち萌えない子」は、まず目が大きすぎると指摘された。 
それからパースの狂った体型、絶対領域の可視範囲の狭さなども理由に挙げられ、 
全身青尽くめな点は、優れた絵師によって無関係である事も明確になった。 
何と比較して"大きい"、"狂っている"、"狭い"と言っているのか、 
誰も根拠を示していないのだが、この子の空虚に浮いた表情を見ていると、 
なぜだか説得力があるように思えてしまう。 

ここから導き出されるのは、「萌え」は決して個人の嗜好だけではなく、 
客観的な判断基準によっても想起される感情であるという事だ。 


例えば、"絶対領域"という単語をネットで調べると、 

 ただ単に露出があれば良いというわけではなく、 
 「ミニスカートの丈:絶対領域:ニーソックスの膝上部分」の比率が 
 「4:1:2.5」であることが理想(黄金比率)とされ、 
 誤差の許容範囲±25%と言われる。 

と、具体的な数字までかなり詳細に書かれてある。 

もちろんこれは出典元のネタ的な解釈に過ぎないのだろうが、 
どうやら「萌え」には"黄金比"が存在し、その客観的基準により、 
顔パーツのバランスやデッサンの不安定さが指摘され、 
萌える、萌えないの正否判断がなされていると見て良いだろう。 


精神現象学の父・ヘーゲルは、主観と客観が合一に至る流れを、 
正・反・合の3つの図式で表し、弁証法をもって両者の矛盾を克服した。 


・正 =「即自」
 意識や精神など、主観的な考え方(萌え要素)を指す。 

・反 =「対自」
 法則や原理など、客観的な考え方(黄金比)を指す。 

・合 =「即かつ対自」
 主観と客観の合一によって生まれる理念(萌え)を指す。 


「萌え」は"萌え要素"という記号によって消費されるものでは無いと、 
「いまいち萌えない子」は確かに証明していた。 
必要最低限の"萌え要素"を装備していても、"黄金比"から外れていては、 
「萌え」という認識の合意には達しえなかったのだ。 

ヘーゲル弁証法で言うところの"合"に該当する理念が「萌え」であるなら、 
"萌え要素"という主観を、"黄金比"という客観と対比させ、 
「萌え要素=黄金比」となった時に、「萌え」が想起されるという事になる。 
「X=¬X」という回答は数学的には間違いであるが、 
「いまいち萌えない子」に対する回答としては、正解だろう。 


正…萌え要素 = 反…黄金比 

    ↓      ↓ 

     合…萌え 


ヘーゲルが目指したのは、芸術を理念によって体系化する事である。 
「絵にも描けない美しさ」や「言葉に言い表せない感動」を、 
カントは自然美とし、認識できる対象ではないとした。 
ヘーゲルはカントの美学を引き継ぎつつ、精神性と自由をもって 
これらを芸術美として客観的に認識していくようになった。 

ヘーゲルの理論に当てはめれば、「萌え」は美的感覚の一種であり、 
『へうげもの』の古田左介が感じる「数奇」と同様に、 
意識や精神で認識する芸術美として定義する事が出来る。 

ではいったい、「萌え」の"黄金比"はどこにあったのだろうか。 

次回は、萌えが想起されるメカニズムについて、詳細に述べていく。


 この記事はアニプレッションに投稿しました。
 


ご清覧ありがとうございました。

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