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漫画道場 漫画やアニメを学術的観点から考察・レビューします。



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新ブログ「記号論研究所」を宜しくお願い致します。
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少女漫画

【雑記】いじめ問題~スケバン刑事と学校の闇


漫画道場


こんにちは、道場主です。
今回は、リアル問題を取り上げたいと思います。


最近、何かと話題なのが、滋賀県大津市の
大津市立皇子山中学校で起きた、いじめ問題ですね。
ネットでは炎上が続き、関係者の実名が暴露され、
それをデヴィ夫人が拡散するという、収拾の付かない事態となっています。

加熱しすぎな感もありますが、やはり問題は、
学校や市、警察の対応のまずさにあるかと思います。
事無かれにするには、重すぎる事件です。


もしもこの問題、和田慎二先生がご存命であったなら、
どういったご意見を示されただろうかと考えてしまいます。

和田先生は『スケバン刑事』の作者であり、
学校という閉鎖環境にうごめく「闇」を、真剣に取り上げられた方でした。


―――


スケバン刑事


『スケバン刑事』については、ドラマ化もされ人気を博しましたので、
改めて紹介するまでもないと思いますが、
この原作は、警察が踏み入れない聖域である学校に、
主人公の麻宮サキが学生刑事として潜入し、
問題を解決するといったテーマを基本プロットとしています。


で、麻宮サキはいくつかのいじめ問題にもぶち当たってます。
例えば第2部「新たなる戦い」編ですね。

鷹ノ羽高校に戻ってきたサキは、生まれつき体の弱い片岡くんを
無理やりトラックで走らせる剣道部の部長と対峙します。
部長の目は、まっすぐに自分を信じる輝きを持っていました。
ところが、しごきの最中に片岡くんが倒れて死亡し、
部長はこれを片岡くんの心身の弱さのせいにします。

部長の発言に怒ったサキは、


> 性根ってのはな、同じ立場にたった時、
 どれだけがんばれるかを言うんだ。
 片岡に比べれば、てめぇらの根性など豆腐も同然だ!



と、刀を取り上げ、部長の手に突き刺します。
いいぞもっとやれ。


―――


いじめの根幹にあるのは、閉鎖環境の中で生まれた序列関係が
優位に立つ生徒を増長させていく事にあるそうです。

この序列については、統計学上でも証明されています。
陸上の為末選手が研究論文を発表してますが、
プロのスポーツ選手になった人の誕生日を調べてみると、
4月生まれが最も多く、3月生まれが最も少ないそうです。
Jリーグ選手を対象に行った調査でも、同様の結果が得られています。

誕生日が遅い人ほど、先に生まれた人より劣等感を抱きやすく、
学校という閉鎖環境の中で、身体的な序列を付けられる事で、
自分の将来を決め付けてしまうのが原因らしいです。
それに対し身体的に恵まれた人は、剣道部の部長のように
優越感を抱きやすく、自分の行いに疑問を持たなくなる。
こういった傾向が、誕生日の差として顕れやすいんでしょうね。


序列関係が生まれる事は、『3月のライオン』の6巻でも、
いじめに苦しむひなちゃんがこう言ってました。


> 何かクラスの中に見えない階級とかがあって、その階級にあわせて、
 「どれくらい大きな声で笑っていい」とか、
 「教室の中でどれくらい自由に楽しくふるまっていい」とかが
 決められてるみたいな…。

 …ねぇ桐山くん、あれは何なの?
 私たちみんな同じ、ただの中学生のはずなのに。
 ただの同じ、人間のはずなのに。



本当は第三者である先生が、こういった学校の「闇」に
先導して立ち向かわなければならないはずで、
ひなちゃんのクラスも結局、学年主任の国分先生が介入するまで、
いじめ問題が解決するには至りませんでした。


サキもやはり第三者として、「闇」に介入していきます。

第1部「無法の街」編では、生徒から慕われているという若松なる先生が、
学校の「闇」の部分を見過ごし放置していたのを見て、
サキの追っかけをする三平と、こんな会話をやりとりします。


> ねぇサキさん まともな教師ってのは日本に何人いるんでしょう。

> もしいい教師ばかりなら…
 あたしみたいな学生刑事は必要なくなるかも…しれないねぇ。



サキの母校・鷹ノ羽高校には不良教師の沼先生が居るのですが、
サキはこの先生の言葉を若松の引き合いに出します。


> 沼先生がこう言ったことがあったんだ。

 サキ…おれは自分でもいい教師じゃないと思うぜ。
 なにせ人数が多すぎる…。

 だがなぁサキよ…。2人か3人…せめて5人の生徒なら、
 おれはいい教師になる自信があるんだぜ…



な…なんという至言!


―――


現実に起こるいじめ問題も、学校や市にだって言い分はあると思います。
先生もカウンセラーとしての専門の知識がある訳ではありませんし。

しかし、目の前の問題から目を背ける事とは別ではないかと。
自分の言い分を泣いて訴える先生が居ましたけど、
いやいや、泣きたいのは亡くなった生徒の親御さんの方ですから。


かつて私は、実際にこういう場面に出くわした事があります。

体育教師ですら手を焼く暴れ放題の男の子が居て、
その子が別の同級生の子から言いがかりの末に殴られて、
報復にぼっこぼこにしてしまい、誰も止める事が出来ない状況。

これを止めたのは、理科の先生でした。
つかつか歩みよって、この男の子の襟を掴んで立たせた後、
おもっきしビンタをかましたんですよ。

で、ビンタされた男の子もいきり立って、
「先にやったのは相手の方だ、自分は悪くない」と言うのですが、
先生はただひと言、「だってこっちは泣いてるじゃないか」と。

喧嘩をしかけた相手の子は、床に横たわり、
口と鼻から出血して泣きはらしてる。
対してこの男の子は、最初にもらった一発だけ。
これを諭した事で、喧嘩はぴたりと収束しました。

誰も止められなかった生徒を、たったひと言で納得させる。
しかもそれをやったのが、見るからに弱そうな理科の先生っていう。
どっちが悪いじゃなく、目の前の問題だけを見て、
体を張って介入していく先生の姿を、私は未だに覚えています。


―――


最近じゃこういうのは体罰として取り上げられるそうですが、
殴るのが良いか悪いかも、やはり別問題です。
理を正せば殴られる相手も納得するものだと、経験上から思います。

生徒が目に見えない序列関係を強いているなら、
それに介入できるのは第三者、特に先生だけでしょう。
先生と生徒は立場が違いますし、生徒それぞれに価値を置いているなら、
何も介入せずにのさばらせている事の方が悪いと言えます。


和田先生なら、この問題をどのようにとらえられたでしょうか。
麻宮サキのような学生刑事が本当に存在したなら、
この中学校はとっくに裁かれているでしょうね。
 


ご清覧ありがとうございました。

【総評】『坂道のアポロン』~アニメならではの「音」の表現

『坂道のアポロン』の最終回、面白かったですね。
いや~、あのシーンとか、泣けたわ~。

…とか書いとけば観た気になれそうな感じがしますが、
私の住んでいる長崎県は、このアニメの舞台となった場所なのに、
ノイタミナの放送が10日遅れなのです。
つまり、現時点で私は最終2話を観てません!

お隣り佐賀県でも1日遅れだというのに…。

なので、この記事は原作とアニメを比較させた総評である事を、
皆様に予めご了解頂けると助かります。

なお、手前味噌になりますが、こちらも合わせてご覧下されば、
より理解が深められるのではないかと思います。
このアニメのストーリーに横たわる文化的背景を解説したものです。

【短評】『坂道のアポロン』~佐世保の街とその歴史


それでは、どうぞ。


―――


さて、一口に「原作とアニメを比較する」と言ってしまうのは簡単ですけど、
そもそもアニメと漫画の違いって何でしょうか。

これは言わずもがな、"表現"方法の違いですね。

当道場では、小説・漫画・アニメ・映画の表現の違いを、
メディア論の観点から、このように定義しています。

【叙述】 小説 <<<< 漫画 >> アニメ > 映画 【映像】

小説は叙述によって1つの事を詳細に説明出来ます。
「佐世保」と3文字に記すだけで、1つのイメージを断定して伝えられます。
映画は映像によって10をいっぺんに映し出す事が出来ます。
「佐世保」の風景を映すだけで、大雑把にですが全てを伝えられます。
ですが、「佐世保」の文字だけではそこがどんな所なのか分かりませんし、
風景だけではそこが本当に「佐世保」なのかが分かりません。

優れた小説は1つの叙述で10を伝えようと表現し、
優れた映画は10の映像で1つを伝えようと表現します。
どんな表現をしても、結果としてユーザーに伝わる情報は同じですが、
優れた作品は伝わる情報の質量が違います。これが"表現力"です。

漫画はちょうどその中間にあります。
叙述と映像の両方を使って幅広く表現する事が可能です。
アニメは漫画と映画の中間ぐらいか、映画に極めて近い表現になります。


アニメと映画の違いは何か?

アニメは映画と違い、漫画と同様に伝える必要の有る無しによって、
表現を選択して付け足したり、カットしたりする事が出来ます。

例えばモブキャラですね。映画はどんな脇役でも必ず動きがありますが、
アニメではそれを伝える必要が無い場合、静止画を使えば良い訳です。
逆に言えば、アニメは制作者に「動かす」意志が無ければ、
人も物も、決して動かないという事も意味してます。


では、漫画とアニメの違いは何か?

漫画は小説のように、1つの表現を静止させて伝える事が出来ます。
アニメでもかつて庵野秀明という人が予算の都合で取り入れましたが、
それを表現と呼ぶかどうかは賛否の分かれる所です。

アニメは映画のように、連続的な表現で伝える事が可能です。
漫画でも連続カットでやろうと思えば可能ですが、
コマ割りやページ数を考慮しても物理的に限界があります。

何を当たり前の事を言ってやがる、と思うなかれ。
『坂道のアポロン』のアニメの表現力がどれほど優れているかを知るには、
実はこの違いこそが、最も重要なポイントとなるのです。


―――


『坂道のアポロン』の原作とアニメの表現の違いを、
第7話のシーンから具体的に見ていきましょう。


【原作】 ~第5巻より

坂道のアポロン


【アニメ】 ~第7話より

千太郎薫


まず、カットです。

原作の方は、平面的なカットのコマを多層化させて右側に割り、
薫と千太郎の目がかち合うカットに読者の視線を誘導した後、
2人の呼吸がぴったり重なる瞬間を捉えた中央の大きな2コマに、
自然と目が集まるような構図を作っていますね。
いわゆる「視線誘導」というテクニックです。

中央の2コマはお互いが対面し、寄り添うように描かれてます。
2人の距離感が縮まるのを、コマ割りによって表現しているのです。
「凄い演奏をしてる」というのが伝わってくるような、
原作の中でも屈指の名シーンです。


それに対しアニメの方は、薫の表情を映す時は上からの視点、
千太郎の表情を映す時は下からの視点と、
ステージの高さを意識した立体的なカットが用いられていました。
演奏時はそれぞれのカットに移り変わっています。

映画的と言えばそれまでですが、2人の息の合うシーンも、
別々のカットに切り替わって連続的に流れてしまっていたので、
原作よりも距離感が出てしまっていた気がします。

これは、アニメ版の方が劣っているという意味ではなく、
瞬間を捉える事の出来る漫画という媒体の良さが出ただけでしょう。


では、なぜアニメ版の第7話の演奏シーンがYoutubeで出回り、
音楽情報サイトで絶賛され、神回と呼ばれるようになったのでしょうか。
どうやって2人の音楽が融合する瞬間を捉えたのでしょうか。

言うまでもありませんね、それは「音」です。
漫画には絶対に出来ない表現方法で、プロの耳をも唸らせるほどの、
強固な説得力を持たせる事に成功しているのです。


―――


JAZZ JAPAN編集長の三森隆文さんは、薫と千太郎のセッションを、
「3分31秒の奇跡、ジャズそのものだ」と評されています。

引用:エムファウンド

この評価に、もう1つだけ観点を加えるなら、
それは映画的な観点から見た「動き」でしょう。

第7話の演奏シーンは、映画では絶対に出来ない「音の動き」です。
映画はその道を極めた演技のプロが演じるとは言え、
違うジャンルのプロを演じた場合、体のどこかに必ず"嘘"が出ます。


同じ長崎県を舞台にした『奈緒子』の映画版でも、
三浦春馬さんが演じた"波切島の疾風"・壱岐雄介の走りは、
とても希代の陸上ランナーとは思えないほど違和感だらけでした。
音楽をテーマにした映画でも、『BECK』の主人公の
佐藤健さんが演じた"エンジェルボイス"のコユキの歌声は、
何と無音でした。再現不可能だったのです。

これは俳優さんの演技力が乏しかったのではなく、
映画という媒体には出来ない表現だったからです。
人間にカメハメ波が出せないのと同じです。
ゆえに、映画では別のプロの方にそのシーンを演じてもらい、
手元のアップを多用したりしてカットを工夫してます。

ですが、長尺の演奏シーンを撮るとなると、
その工夫にも当然ながら限界があります。
同じカットの繰り返しになってしまうからです。
『のだめカンタービレ』の水川あさみさんも長尺に挑戦してますが、
観る者を圧倒するほどのパフォーマンスには追い付いてません。
やはりこれが、映画という媒体で出来る表現の限界なのです。


―――


しかし、アニメにはそれが出来るという事を、
『坂道のアポロン』のスタッフは証明してしまいました。
「祭りジャズ」や「喧嘩セッション」などなど、
文字に表すだけではイメージしか伝わらなかった「音」の説得力を、
アニメという動きのある表現媒体を使って表したのです。

吹き込んである「音」が凄いのは当たり前ですよね。
薫役がプロのジャズピアニストである松永貴志さんで、
千太郎役がスーパー学生ドラマーの石若駿さんなのですから。
それと同じくらい凄いのは、制作スタッフによる「音の動き」です。

前述の通り、アニメは制作者に「動かす」意志が無ければ、
人も物も、決して動く事はありません。
ゆえに、何をどのように「動かす」かによって、
ユーザーに伝わる情報の質量が違ってくるのです。


第7話の演奏シーンは、瞬間を表現した原作に対し、
連続的な流れを最初から最後まで"嘘"なく見せる事で表現しています。

薫が演奏を始めた事に対する千太郎の驚き。
千太郎が自分の要求に応じてくれた事に対する薫の戸惑い。
だけど以心伝心、会話もなくお互いの心が通い合い、
地下スタジオで練習していた時間が蘇ってきます。
そして徐々に高まっていく会場の気運と、2人の意気。
同じ空間を共有する為にどんどん人が集まり、
それを作り出した2人は汗だくの笑顔で演奏を終える。

これらを「音の動き」で表現すべく、凄腕の演奏家が付けた「音」を
"嘘"にしないよう、全く静止させずにアニメーションに落とし込んでいる。
原作では途中で回想が入るのですが、それすら「音」で表現してます。
大変な質量の情報が、3分31秒の中に凝縮されています。

一連の流れが歯車のようにがっちりと噛み合い、誰が見聞きしても、
「凄い演奏をしてる」というのが伝わってきますよね。
それほどの説得力を、「音の動き」で持たせているのです。

漫画にも出来ない、そして映画にも出来ない表現。
まさに、アニメならでは、と言えるのではないでしょうか。


―――


このように、『坂道のアポロン』は圧倒的な表現力を持っています。
ごくごく当たり前の事を羅列しただけなのですが、
「誰にでも分かる」表現というのは、実はとても凄い事です。
確かな技術の裏打ちが無ければ、"嘘"が見破られてしまいますから。
アニメもお金をかけて作る以上、ごまかしや妥協があるものです。
しかし、『坂道のアポロン』の制作スタッフは、それを許さなかった。
もはや一流の映画や小説と、何ら変わりはありません。


このアニメに"嘘"があるとすれば、長崎県民から見た、
千太郎や律子らの"長崎弁"くらいでしょうか…。
ええ、分かってます。日本全国に向けて作るからには、
表現表現と小うるさい長崎県民の意見などゴミ箱にやるしかないと。

それでも、第9話の淳一との別れのシーンで千太郎が言った、
「淳兄…!今日のセッション、俺ぃ一生忘れんけんな。」
この台詞は、感情のこもった本物の長崎弁でした!


総評は以上です。
このアニメへの理解をさらに深めて頂けたなら幸いです。


この記事はアニプレッションに投稿しました。


ご清覧ありがとうございました。

【短評】『坂道のアポロン』~佐世保の街とその歴史


坂道のアポロン


↑混ざり合う2つの魂。


『坂道のアポロン』の舞台となった、長崎県佐世保市。

県内で2番目に人口が多く、ハウステンボスのある所として知られており、
作者・小玉ユキ先生の故郷でもあります。
私は今この街に住んで、翻訳家の仕事をしています。


長崎県には「南北問題」というのがあり、経済の流動性を見ると、
「北」の佐世保市が活発で、積立金を減らさず収支を安定させているのに対し、
「南」の長崎市は停滞していて、減債基金を切り崩す事で健全な収支を保ててます。
そのせいか、長崎県の経済政策はおおむね南高北低になっています。

佐世保の足腰の強さの秘訣は、何と言っても民業にあり、
ハウステンボス以外にも、一代で成功を収めたジャパネットたかたや、
あのマクドナルドを撤退させるに至った佐世保バーガー、
地方都市の中では日本一元気なアーケード街など、
地域振興のモデルケースとしても全国的に名前を知られています。

なぜ佐世保がこんなに上手くいってるのか?
理由は、軍港と造船の街してのもう1つの顔にあります。


佐世保市の町並み
引用:まちあるきの考古学様(http://www.koutaro.name/machi/sasebo.htm)より

佐世保

↑佐世保川を挟んで、東側に市街地、西側に造船所と軍港がある。


上の地図を見て頂けるとこの地域の地理的特性を一望できる思いますが、
田園広がる人口4000人ほどの小さな集落だった佐世保は、
明治19年(1886)5月の軍港設置の勅令から都市計画が立てられ、
同年9月には家屋を無秩序に建築する事を制限しました。
その為、市街地と港が東西に綺麗に分かれており、
東側にある市街地の道路はタテヨコ揃うように、碁盤目状に整備されてます。

この都市計画があったからこそ、アクセスの分散が防がれ、
人が一ヶ所に集まるコンパクトな街並みが作られたと言えます。
旧海軍府グッジョブ。お上のおかげやでぇ。


―――


長崎県では今年の4月から「ノイタミナ」を再び放送するようになりました。
『のだめカンタービレ』以来、60分に増枠してからは初めてですが、
理由はもちろん前半30分枠の『坂道のアポロン』。後半はカケラも流しません。
そもそも長崎では『ワンピース』ですら深夜アニメ扱いです。

県と佐世保市は観光振興の期待を寄せているそうですが、
地域振興課で宣伝をしていた記憶はありません。
ここは来月アップ予定のクールジャパン論で詳しく述べましょう。


『坂道のアポロン』では、主に市街地が舞台となっています。
作中で練習場所として利用していた「ムカエレコード」のある三ヶ町と、
薫と律子がスティックを買った「フルヤ楽器店」のある四ヶ町のアーケード街も、
最初の都市計画通り、見事なほどに真っ直ぐに作られてますよね。
これ、直線に繋がったアーケードとしては日本一の長さらしいです。

薫と千太郎が通う「佐世保東高」ですが、佐世保には東高は無いんですよ。
アニメ版の第2話で出てきた亀山八幡宮の位置から言っても、
地図上で赤く囲われた市街地エリアの最上部付近にある
「佐世保北高」の事だと見て間違いないでしょう。

同じく第2話では、鹿子前(かしまえ)行きのバスに乗って海水浴に行ってますが、
ここは地図の西側、佐世保重工の先にある西海パールシー辺りでしょうか。
第3話で出てきた眼鏡岩は、北高より更に北側に行った眼鏡岩公園にあります。
小玉ユキ先生と同じ佐世保市出身・久保ミツロウ先生の『モテキ』にも、
下関が舞台とのたまいながら、なぜかこの岩が出てきましたね。

オープニングで出てくる道路は、国道35線だと思われます。
薫と千太郎はこの道を南に下って帰宅します。

北高 → 亀山八幡宮 → 三ヶ町(ムカエレコード) → 四ヶ町(フルヤ楽器店)


―――


こんな佐世保ですが、旧海軍府の軍港は昭和20年(1945)に米軍に接収されました。
昭和30年(1955)に陸軍が撤退しますが、その後も海軍による統治は続き、
現在も多くの米軍さんが佐世保には滞在し、Yナンバーの車が市街地を走ってます。
佐世保と米軍さんは、切っても切り離せない間柄なんですね。

昭和25年(1950)には朝鮮戦争が勃発しますが、佐世保は連合軍の作戦基地となり、
三ヶ町と四ヶ町には米軍向けの飲食店・バー・キャバレーが激増しました。
特需景気の恩恵を受けるのと同時に、米国の文化もまた持ち寄られます。
前述のハンバーガーもそうですし、そしてジャズもまた然り、という訳です。
佐世保は戦後の日本きってのジャズの街でもあるんですよ。
当時は東京に次いで日本で2番目にレコードが売れ、地価は東京より高かった所です。
今でも九州最大規模のジャズフェスティバルが佐世保で毎年開催されていて、
ジャズは米軍さんの心だけでなく、佐世保市民の心も捉えています。


『坂道のアポロン』は昭和41年(1966)頃の佐世保を描いてるそうです。
アニメ版の第4話では、この街と米軍との関係がよく表されていました。
アメリカ人の父を持つハーフの千太郎が、なぜ不良になったのか。
なぜ白人のジャズが好まれ、黒人のジャズが嫌われるのか。

翻訳家の仕事というのは、言ってみれば他人を知る事です。
薫が千太郎の生い立ちに触れて涙を流したように、
他人を言葉の意味を知るには、その人の背景までを知らなくてはなりません。
言葉の通じない相手に対し、千太郎のように怒りをぶつけるのか、
それとも淳一のように理解で包んであげるのかは、
まさにこの街が半世紀に渡って経験してきた葛藤でもあるのです。
私は佐世保で翻訳家をしている事に浅からぬ縁を感じてます。

ジャズというのは、1つの答えでもあります。
『坂道のアポロン』では、米国生まれのジャズを通じて人と人との心を通わせます。
ジャズは西洋の音楽技術と、アフリカ系移民の魂が融和した音楽です。
薫と千太郎、生まれも育ちも全く異なる2つの魂が混ざり合うテーマは、
米国の文化を受け入れた佐世保が舞台だからこそ説得力が生まれるのです。

佐世保の街の文化背景を知れば知るほど、『坂道のアポロン』は面白くなります。
この記事が同作品の理解の一助となってくれる事が、私の希望です。


総評はこちら → 『坂道のアポロン』~アニメならではの「音」の表現
 



ご清覧ありがとうございました。

【少女漫画論】(5) 少女漫画が漫画になる時


NANA

↑主客一体となったナナと奈々。


1999年、少女漫画から"個人"へと脱却した矢沢あいは、 
『りぼん』を卒業し、他誌へと活動の場を移した。 
5月に『Paradise Kiss』を連載開始、10月に短編『NANA』を発表、 
『NANA』は翌年2000年の5月に連載化し、大ヒットとなる。 

『パラキス』と『NANA』が世に出たのと同じ99年、 
官主導で進められてきたフェミニズム政策によって
男女共同参画社会基本法が成立し、2020年までに
女性の人材を30%に引き上げる具体的な数値目標が立てられた。 
もはや社会の中で女性がどう主体性を発揮するかより、
社会の客体として女性をどう招き入れるかに主眼が置かれた、
実体の無い政策に成り下がっていた。

これ以降、フェミニズムの定義が多様化していき、
男女平等を建前を通り越して、女尊男卑の論調が生まれていく。
ティーン層の性経験率はさらに上昇し、2005年には 
男女比で女子が男子を上回る逆転現象=肉食化が起こるのである。 
男性が抱く理想の女性像は、ここに完全に崩壊した。


――― 


『NANA』では、近年のフェミニズムのキーワードである 
社会的な性の在り方=ジェンダーを作品のテーマの1つとし、 
現代の女性がどのように自分のポジション得ていくのかを描いた。 
主体的な女性を取り上げるのは、『ご近所』『パラキス』と近作続いているが、
以前と異なる点は、男性の客体として身を置く女性の目線を加えて、
主客分かれる2人の女性の生き方をクロスさせている点である。

バンドでひとやま当てる事を夢見る、主人公の1人・ナナは、 
女性として生きる事を拒否するほど確固たる意志の持ち主であり、
ゆえに男性への従属を極端なくらいに畏れ嫌っている。
男性にコンドームを使用する事を求め、それに応じない 
恋人・本城蓮に対しても不満を漏らした事もある。 

もう1人の主人公・奈々は、男性の客体である事を望み、 
男性を消費物として捉えるものの、実体を得る事が出来ず、 
それを求めて男性に依存していく女性として描かれている。 
男性に自分の理想を求め、思い通りにならなければそれを批判する。 
作中に出てくる週刊サーチのカメラマンとの口論が象徴的だ。 

2人のNANAは、お互いの意識が同化を果していた。
おそらく707号室で同居を始めた、その時から。
ナナは"女性らしさ"を、奈々は"個人"としての主体性を、
お互いに足りないものを補い合っていたかのようだ。
幸せな結婚して庭付き一戸建てに住む夢は「奈々」に託し、
目標に向かって突っ走りそれを達成する夢は「ナナ」に託す。
ナナと奈々、2人はコインの裏表であり、
ナナは既に蓮の客体として生きていく事は不可能だった。


少女漫画の鉄則は、「王子様」が必ず自分を選ぶ事である。
何かの行き違いが理由で別の人と形式的に付き合うような事はあっても、
精神は必ず主人公の女性の方を向いてなければならなかった。
ところが、奈々の彼氏・遠藤章司は、東京に出てきて間もなく、
バイト先の同僚・川村幸子との二股交際を始める。
のっけから少女漫画の精神性を全否定する強気の展開だ。

だが、これが女性読者の心をがっちり捉えた。
嘘くさい話で夢心地になれるほど現代の女性はセンチメンタルではない。
『NANA』が『ときめきトゥナイト』の発行部数記録を抜いたのは、
夢から覚めた女性の実状的な共感を得たからだろう。

ナナと奈々、2人の結びつきはここから更に強まる。
ナナが美里ちゃんとディズニーランドに行けば奈々が怒り、
奈々がタクミと交際を始めればナナがキレる。
主客一体となる事で、ようやく2人は1人の理想の女性になれた。
その2人にとって707号室は、2人が認めた住人以外は
何人たりとも侵す事の出来ない聖域だったのである。


――― 


そうしたコインの主客関係も、唐突に終わりを遂げる。
奈々がタクミによって妊娠させられたのである。

ナナにとって奈々は、自分が叶える事の出来ない、
結婚という女性としての幸せを掴む夢を託した半身であり、
その奈々が女性を支配下に置きたがるタクミの子を身篭り結婚する事は、
自分がタクミに従属するも同然の出来事だった。

「嫌だ!絶対に産まないで!」

ナナのこの台詞は、ナナの所有欲から来るものではなく、
バンドで名を馳せるのと同じくらい大事な夢を、
他人によって打ち砕かれる恐怖から出たものである。

奈々にとっても初めて、主体的な愛情をノブの中に見つけていた。
「こうして欲しい」ではなく、「こうしてあげたい」という献身的な愛。
ナナはずっと以前から、夢は自分で掴むものだと考えている。
ゆえに奈々が主体的に夢を叶えるのは、これ以上ないほどに望まれる事で、
自分を支えてくれたノブなら、奈々の夢の相手として相応であった。

しかし、その主体性を根こそぎタクミに奪われた。
奈々に自分の叶えられない夢を叶えて欲しかったナナは
これが原因で、過呼吸症候群に陥ってしまう。


さらに事態は悪化する。
蓮が不慮の交通事故で還らぬ人になってしまったのである。

奈々は当人が何と言おうと、ナナ自身に女性としての幸せを掴んで欲しかった。
だからナナが蓮と結婚したという報告を、我が事のように喜んだ。
たとえ蓮の客体としてでも、ナナの半分だけの心が埋まりさえすれば、
それは自分が叶えられなかった幸せな家庭を築く夢にも繋がる。

「意地ばっかり張ってると幸せが逃げちゃうよ。」

この台詞もまた、他意の無い本心からの言葉だろう。
奈々は失敗の教訓としてでなく、心の底からナナに幸せになって欲しいと願い、
またナナも、そうなろうと最善の努力をしようとしていた。
コインの主客関係は、何もなければ円満に解消するはずだったのだ。
お互いに欠けていた所を幸福という形で充足し、
お互いが主客両方の夢の叶える寸前まで、手中に収めていた。

結局、その夢はどちらも叶う事はなく、2人ともバラバラになった。
ナナが"個人"として不完全な弱さを持っていた事を、
そして奈々が"女性"としての強さを持っていなかった事を、
お互いが気付いてあげていたら、「今とは違う未来があった」のだろう。
悲しい事だが、2人の運命の鎖が断たれたからこそ、
『NANA』のテーマがより深く、読者に届けられるのだ。


――― 


2000年以降、多くの女性漫画家らが少女漫画から脱却し、 
優れた漫画家を失った少女漫画のコンテンツは衰退を迎えるが、 
それは少女漫画が消えてなくなった事を意味するのではなく、 
新たなステージに突入した事を表すものだった。 

ある作家は性と向き合う為にターゲットの年齢層を上げ、 
またある作家は男性漫画の長所を取り入れキャラクター化した。 
別の作家はジャンプやモーニングなど男性誌で描くようになり、 
さらに別の作家は、男性誌でも"女性らしさ"を貫き通した。 
フェミニズムの形と同様に、少女漫画も多様化していくのである。 


『月刊アフタヌーン』という男性向け漫画誌の中に、 
『おおきく振りかぶって』という野球漫画がある。 
この作品の特徴は、キャラクター論に頼らない人物描写であり、 
多くの野球漫画が長所を描く事で登場人物を差別化してきたのに対し、 
『おお振り』はコンプレックスによって差別化を図り、 
誇張表現の無い等身大の人物描写を丁寧に行う事で、 
「これまでに無い新しい野球漫画」とされ、絶賛された。 

だが、これは『キャンディキャンディ』の時代から続く、 
少女漫画の伝統芸であり、女性ならではの細微な表現方法だ。 
作者・ひぐちアサは、『おお振り』より以前は恋愛ものを描いていた。 
少女漫画の精神性が、男性誌にそのまま持ち込まれた事で、 
漫画界全体に新たな可能性を示したのである。 

少女漫画は少女である事を止め、"漫画"になったのだ。 


少女漫画を卒業した矢沢あいが『NANA』で表そうとしたのは、
主客一体となった本当の意味での"女性らしさ"である。
フェミニズムはかつて自由精神の発露を目的としていた。 
しかし、その過程で"女性らしさ"の否定へと変貌し、 
今では女性としての立場を保障される事に胡坐をかいている。
男性の客体から社会の客体として依存の矛先を変え、 
それで何かを得ようとしても、「何も得ている実感が無い」と、 
都会の生活に打ちひしがれる奈々の背中を追うだけだろう。 

矢沢あいは"女性らしさ"という客体性を掲げたまま、
主体性を持った"強い女性"を、描き続けている。 
それは少女漫画の歴史が投げかけるメッセージと同じものだ。

 "個人"としての主体性を発揮し、真の自由を勝ち取った上で、
ナナや奈々、オスカルやマリーは、"女性"として気高く咲く勇気をも、
現代を生きる読者に伝えているのである。


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ご清覧ありがとうございました。

【少女漫画論】(4) 漫画家・矢沢あい


ご近所物語

↑矢沢あいの転換点・『ご近所物語』の本誌掲載順は後ろの方だった。


日本性教育協会の青少年行動調査によると、 
少女漫画のメインターゲットだったティーン層の性経験率が、 
1987年の調査からはっきりとした上昇傾向が見られる。

 参照:青少年の性行動調査 第6回

フェミニズムは、こうした性行動への変化を齎した。
啓蒙主義が旧来の価値観である宗教性を排除したように、
美徳とされてきた道徳的な抑制まで後退してしまった事が、 
男女の主客逆転のきっかけを作っていったのである。

恋愛の入門書として愛読されてきた少女漫画は、 
90年代前半まで、まだ旧来の"女性らしさ"に縛られていた。
ところが、少女漫画に出てくる「白馬の王子様」が、
現実にはどこにも居ない事を、女性はとっくに気づいていたのだ。

87年、女子中高生の登校前の「朝シャン」が社会現象になり、
88年、私立高校の制服がブレザータイプにモデルチェンジを図る。
89年、渋谷に集まる10代のファッションが「渋カジ」と呼ばれて注目され、
同時期には、ティーン向け雑誌『セブンティーン』が
少女漫画の連載を中止し、アイドルなどの芸能情報も削って、
ファッション雑誌として方向転換を図り、部数を大幅に伸ばした。
女性は男性の首に縄を付けに自ら積極的に動いた。

90年代に入ると、男性が記号化した"清楚"で"可憐"な
「女子中高生」のイメージが、音を立てて一気に崩れ始める。
92年頃から言葉の乱れを指摘され始めたのをきっかけに、
93年にブルセラ、94年にデートクラブ、95年には援助交際が問題になり、
都心を中心にコギャルが続々と出現していったのである。
彼女達の行動背景には、ファッションが関与していた事は見逃せない。


もはや少女漫画の精神性は化石に変わってしまった。
1995年になると、ついに『りぼん』の部数低下が始まる。
急速な価値観の変化についていけず、時代錯誤の周回遅れとして、
読者との間にバックラッシュが生まれたのである。

しかし、この頃から少女漫画界にも変革が起きていく。 
トレンドに敏感な作家らが、時代のニーズに合わせた作品を生み、 
精神性から実利性へと脱却を図ったのである。 
その代表格となったのが、『ご近所物語』の作者・矢沢あい。 
当時の『りぼん』において、この作者は異質であり、 
色とりどりの花が咲き誇る誌面上で、1人だけ浮いた存在だった。 


――― 


少女漫画が男性向けの漫画と違うのは、登場人物が 
以前に解説したキャラクター論に基づいていない所である。 
一般的に漫画の登場人物は、人物全体を類推する"素材"を抜き出し、 
それを誇張して際立たせる事でポジションを置くのだが、 
少女漫画の登場人物は、誇張表現の無い、等身大の人物が描かれる。 
特に、自身へのコンプレックスに立ち向かう描写は鋭く、 
同じ悩みを抱える多くの女性の共感を得る呼び水となっている。 

『ご近所物語』は、そんなコンプレックスにまともに挑み、 
服飾を通じて自分のポジションを得ていく作品だ。 

『天使なんかじゃない』までの矢沢あいは、まだ少女漫画家だった。 
主人公の翠ちゃんが抱える悩みは恋の悩みであり、 
自分に対する否定的な感情の無い、明るく可愛い女の子だった。 
ところが、『ご近所』の主人公である幸田実果子は、 
つり眉で目つきが悪く、チビで胸なしでたらこくちびるで、 
口も悪ければ愛想も悪い、大きなコンプレックスを持った女の子だ。 

翠を太陽のようにいっぱいに花開く向日葵に例えるなら、 
実果子は女の子として実を結ばない、日陰に咲く徒花である。 
そんな花が、『りぼん』のお花畑の中に混じって、 
一生懸命に背筋を伸ばしながら立っていた。 

彼女はこの大嫌いな自分のコンプレックスを覆い隠すように、 
ファッションに身を包み、服飾デザインの道に没頭する。 
彼女にとってファッションとは、『姫ちゃんのリボン』の 
野々原姫子の魔法のリボンと同じ、変身である。 


こんな実果子に、子供の頃からずっと一緒の男の子が居たのだが、 
その幼なじみが、学校で1番スタイルが良い美人と付き合い始めた。 
これがきっかけで、髪をお人形さんのような金髪にする。 

その後も、控えめでとても女の子らしい好意的な子が現れると、 
激しいコンプレックスに晒され、実果子はは自分の事を 
少女漫画の主人公になれない「出来そこないの失敗作」と卑下する。 
だが、その幼なじみがありのままの自分を受け入れてくれた事で、 
彼女も自分の事を少しずつ肯定していくようになる。 


注目すべき点は、直接的な性描写が存在する事だ。 
1991年に連載が始まった『天ない』には無かったものが、 
1995年連載開始の『ご近所』では、10代の男女が 
お互いを受け入れる為の自然発生の行為として描かれている。 

『りぼん』で初めて直接的な性を描いたのは一条ゆかりで、 
20年以上前となる1972年からすでに存在した表現であったが、 
この頃はまだ精神の愛の終着点であり、儀礼的なものに過ぎなかった。 
『りぼん』は部数低下が始まった1995年を変化点に、 
実利としての性を描くように修正が図られたと思われる。 

そしてこの時から矢沢あいも、少女漫画にマッチ出来なくなった。 


1998年、次作となる『下弦の月』の連載が始まる。 
この作品の特異さは、少女漫画の精神性を回帰させながら、 
純文学にも勝る完成度を両立させている点である。 

実利性へと変革した『りぼん』は、96年にデビューした 
新世代の作家・種村有菜の『神風怪盗ジャンヌ』が人気であった。 
『下弦の月』より半年早く始まったこの作品は、 
前作で失敗した伝統的なまどろっこしい精神性を廃し、 
ノリとテンポで明るさを強調し、性描写もはっきりと打ち出した。 

対して『下弦の月』は、月のメトン周期を作中のテーマに落とし込み、 
肉体と肉体でなく、魂と魂が引かれ合う愛を見事に描ききった。 

矢沢あいは、少女漫画家としての"女性らしさ"を捨てずに、 
"個人"として通用する域にまで作品を昇化させたのだ。 
もはや少女漫画家ではなかった。1人の漫画家であった。 


次回は、2000年代の時代の変化を『NANA』と共に振り返りながら、
少女漫画家がどのように"個人"となっていったのかを見ていこう。
 


ご清覧ありがとうございました。

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