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青年漫画

【クールジャパン論】(4) 古田織部の生き様を見よ


へうげもの

↑見よ、このドヤ顔!


日本のコンテンツ産業が、今後どうあるべきか。
漫画やアニメ、ゲームといったサブカルチャーに対する議論も、
現在では政府の主導によってなされているが、
はたして、官民一体となった対策の立案には至っていない。

そうしたギャップが生まれる要因がどこにあるのか、
『へうげもの』の古田織部正重然と時の権力者との交わりから、
詳細に見ていきたいと思う。


―――


日本が歩んできた文化史を紐解けば、いつの時代も「もの」を通じて、
歴史やそこに関わった人物のひととなりを見る事が出来る。

茶人・神谷宗湛は『宗湛日記』にて、慶長4年(1599年)2月28日、
古田織部の茶会で初披露された織部黒の沓型茶碗を、
「ウス茶ノ時ハ、セト茶碗ヒツミ候也、ヘウケモノ也」と評している。
つまり、「歪んだ瀬戸物茶碗が面白おかしい」と。


古田織部という人は、武野紹鴎を師に持つ父・重定の影響を受けている。
紹鴎の師は、侘び茶の開祖と言われる村田珠光であり、
紹鴎の弟子は、茶聖と称せられたかの千利休であるのだが、
作中でもその数奇(変人)ぶりは「父親譲り」とされ、
織部自身も38歳の時に利休に弟子入りしている事からも、
元々のルーツは侘び茶にあったのが分かる。

しかし、織部の作った「もの」は、室町の潮流として栄えた東山文化とも、
そして絢爛な華をあしらえた織豊・桃山文化とも異なる意匠が凝らしてある。
当時の時代の背景として「かぶきもの」=数奇に傾倒した者が居たのは、
『花の慶次』などのヒット漫画作品でも知られているが、
織部もまた、伝統と格式を重んじた茶の湯に対する「へうげもの」=数奇者として、
独自のフォーマットを築こうとしていた人物だったという事が、
織部焼と称される歪んだ茶碗から見て取れるだろう。


古田織部や千利休らは、時の権力者である羽柴秀吉らに重用されている。
文化人の支持を取り入る為に政治利用されていた茶の湯であったが、
その背景となる"数奇"は充分に理解をされていた。

『へうげもの』では、秀吉はセンスが壊滅的に乏しい人物として描かれている。


古田織部

> むさい…なんともモリッと冴えない茶碗だぞこりゃあ…。
 ザリッとした無釉の骨気が魅力の備前焼なのだがな…。
 目かけてくれた羽柴さまには悪いが…これは俺の蒐物集には加えられんの…。



このように織部にがっかり茶碗を与えて嘆息を吐かせているものの、
数奇に対する理解として数奇者が喜びそうな「もの」を
天下を治める為に活かしていた事が、よく表されているだろう。
『へうげもの』の「もの」とは、器物を評価する時に使われた言葉であるが、
作中ではひょうけた人物、つまり数奇者を指す言葉として使われており、
「もの」に込められた人物背景まで丁寧になぞらえてある。

古田織部が織部焼を完成させる事が出来たのは、
数奇というフォーマットへの理解が下地にあり、
それらが生み出す「もの」への理解があったからに他ならない。


―――


ジャパンフォーマットを活かす道として、漫画やアニメを政治利用し、
海外に向けて積極的に輸出していく方策は正しい。
現政権を羽柴秀吉としてとらえれば、秀吉がいかにセンスが無くとも、
文化保護と育成の対象にサブカルチャーが選んだのには、
これまで受けてきた偏見に鑑みると、大きな進歩を遂げたと言えよう。

しかしながら、政策を打ち出して既に2年。
これまで何の進捗も伺えないのには、偏見と理解とのギャップが
未だに埋められない事実を如実に物語っているだろう。
有態に言えば、どう扱っていいのかさえ分かっていないと見られるのだ。


ジャパンフォーマットは、信頼の上に成り立っている。
製造業界では「チャイナリスク」なる言葉がまことしやかに囁かれているが、
他国と日本の決定的な違いが、この信頼性(リライアビリティ)である。

折りしも世間では中韓の政治的アピールが立て続けに発生し、
韓流ドラマの放送が見合わされるなどの措置が取られているが、
現在の韓流文化の広まりは、2003年から始まった以前のブームの延長線上には無く、
08年の世界不況以降の円高・ウォン安を背景にした、
韓国の外貨獲得の政策としての文化輸出が奏功したものだ。
この国にもやはり、「コリアリスク」とも言うべきリライアビリティの問題が存在し、
国際舞台の上で信頼を損なう行いを簡単にやってしまう。

かつてはリスクの上において中韓の製品は回避されていたが、
他国が不況に喘ぐ間に、中韓は日本やアメリカでリストラされた技術者を受け入れ、
たった5年で世界を席巻する技術力を付け、安さと両立させた。
技術立国と言われた日本は信頼の上に胡坐をかき、開発を怠ってしまった。
今や世界の下請けを担うのは、中韓である。

コンテンツ産業でも全く同じ構図が生まれている。
高額な人件費に苦しむテレビ業界を中心に、安価な韓流文化は持て囃され、
素材面でビジネスリスクの低いK-POPなど輸入してきたのだが、
その裏で、自国のコンテンツをここ5年間まるで育ててこなかった為に、
アジア事業展開において大きな差を付けられてしまった。

クールジャパン政策は、「空白の5年間」を取り戻す為の、
生き残りを賭けた戦いでもあるのだ。


―――


韓流文化が多額の宣伝費をかける理由は、ただ1つ。
そうしなければ、世界の注目を自分達に向ける事が出来なかったからである。

日経新聞によると、韓国のコンテンツ関連の予算は200億を越えていて、
日本の予算規模のおよそ8倍なのだそうだが、逆に言えばこれは、
日本は8分の1の予算で、世界と戦える訴求力を生み出せているという事だ。
いかにジャパンフォーマットが他国に信頼されているか分かるだろう。

コリアフォーマットと比較すれば、リライアビリティの差がより明らかとなる。
中韓ではコピー品が濫造されてきた背景があるが、
K-POPもやはり、J-POPの「モノマネ」であるという認識が欧米ではなされている。
剽窃作品として有名な『テコンV』も、日本のアニメが元なのは言うまでもない。
つまり、韓国はオリジナルフォーマットを生み出す力が欠けているのだ。


日本では古来から、他国の文化を輸入し、それをアレンジして、
自国の文化を新たに生み出す力を持っていた。

再度、『へうげもの』を見てみよう。

古田織部は、唐物(中国産の陶磁器)の良さを理解しながらも、
「欲しいものは自分で作るしかない」とし、
師匠である千利休の侘び数奇の良さも取り入れながら、
オリジナルフォーマットである織部焼を生み出した。


織部焼


織部焼を実際に目にするとよく分かるだろうが、これを見て、
絢爛な唐物や静謐な侘び数奇の「モノマネ」だと言う人がいるだろうか。
器の歪みと革新的な図柄が幾何学的なバランスのもとで成立した、
破調の美を基調とした名品である。

古田織部は、織部正(染織物の官)という官職を秀吉から与えられ、
侘び数奇に代わる新しいフォーマットの創出を命じられると、
織物関係のデザイナーとのコネクションを通じて、
「織部十作」なる宗匠らを、いわゆるプロデューサー的な立場で支援し、
江戸時代に続く陶芸文化の育成に多大な功績を残した。

江戸時代では陶芸は藩のお抱えとなり、大量生産を目的に分業化されたが、
例えば皿物しか作っていなかった九州の陶工の中から、
「西の仁清(京焼)」と呼ばれる現川焼がいきなり出てきたり、
オリジナルフォーマットを作る意識が後の時代まで極めて高かった事が分かる。
これもやはり、各々の藩が陶芸文化を推奨していたからだろう。
利休や織部の文化育成の貢献が、こんな所にも現れている。


日本は他国の著作権を侵害する事なく、オリジナルの文化を作り出してきた。
世界から信頼されるのは、こういった理由だろう。


―――


現在のクールジャパンは、どのように文化育成をしていくか、
実はまだ内容を精査している段階である。
そして政府の平成24年のアクションプランの中には、
具体的な政策として漫画やアニメ文化の育成計画が含まれていない。
それどころか、輸出の計画すらままなっていない。

重点政策として挙げながら、なぜこのような遅滞が生まれるのか。
これは単純に、四方に資金を回せるだけの潤沢な予算を確保していないからだ。
クールジャパンは、成長戦略が取りたくても取れない状況にある。

ジャパンフォーマットは確かに世界に信頼されているだろう。
韓国の予算の8分の1しかなくても、世界中のバイヤーが日本に買い付けに来る。
しかし、信頼の上に胡坐をかいて研鑽を怠っていたらどうなるか、
製造業で痛い目を見た今なら分かるはずである。


口では文化事業の重要性を説きながら、お金は出さない姿勢を崩さない。
政府高官も内心では、漫画やアニメを低く見ていると見ていい。
その証拠に、議員事務室に漫画が置いてあるだけで国会で答弁するほどだ。
豊臣秀吉は桃山時代の文化育成に糸目を付けなかったが、
現代の権力者は、コンテンツ産業が自動車に代わる
輸出産業の枢軸になるとは、誰も本気で考えていないのだろう。

そうこうしている間にも、コンテンツ産業全体が縮小化してきている。
今必要なのは、輸出の拡大を図って外貨を獲得する事でなく、
コンテンツ産業に関わる人材を予算を組んで支援し、育成していく事である。


さて、『へうげもの』には作品権利に関する逸話がある。
NHKがアニメ化する際、第11話から作者と出版社のクレジット表記を外したのだ。
国営放送局までがサブカルチャーに対するリスペクトを欠いているのが、
悲しいかな、日本という国の現状である。

私の願いは、頭で数奇を理解しようと努めた『へうげもの』の権力者のように、
クールジャパンがサブカルチャーと真に向き合ってくれる事だ。
古田織部が秀吉に忠誠を尽くしたのは、秀吉が織部の「友」であったからで、
それぞれの違う価値観をお互いに認め合ってきたからだ。
政府は信頼に背を向けたままである。これでは誰からも信頼は得られないだろう。
 



ご清覧ありがとうございました。

【短評】『YAWARA!』~今だから学びたい嘉納治五郎の「一本」の精神


猪熊滋悟郎

↑滋悟郎おじいちゃんの口癖。


今回からしばらくロンドンオリンピック特集です。
第1回目は「柔道」をテーマに扱います。
第2回「体操」はこちら。


しかし今回の柔道競技、判定で荒れていますね…。
海老沼匡選手の準々決勝で起きた、あの前代未聞の判定覆り。
あの3人の審判は謹慎処分になったそうですが、
対戦相手だった韓国の曺準好選手にも申し訳ない事をしたと思います。

ジュリー(審判委員)によるビデオ判定が導入され、判定が何度も覆った事で、
これまでいかに誤審が多かったかが、改めて証明されてしまいました。


漫画で柔道と言えば、手塚イズムの後継者・浦沢直樹先生の名作である
『YAWARA!』の名前が真っ先に挙がるでしょうが、
この作品では、実は誤審が描かれた事は1度もありません。
これは、漫画の世界で描かれる"柔道"と、現実世界で行われている"柔道"が、
全く別の競技である事を意味しています。

いったい何が違うのか?なぜ漫画には誤審が無いのか?
柔道の親と呼ばれる故・嘉納治五郎氏の教えを紐解きながら、
これを明らかにしていきたいと思います。


―――


柔道って何でしょうかというそもそも論から始めると、
講道館柔道を興した嘉納治五郎氏の精神を学ぶ事だそうです。
即ち、「一本を取る柔道」によって「精力善用」と「自他共栄」を図る事。
相手の背中を先に畳に付ける競技を行う事じゃないんですって。

『YAWARA!』には、嘉納氏の教えを体現したキャラが居ますよね。
その名も猪熊滋悟郎(じごろう)。どう見ても嘉納氏をモデルにしています。
で、その滋悟郎おじいちゃんですが、口癖のように突いて出る言葉が、
「一本取らずして何が柔道ぢゃ」ですね。

滋悟郎おじいちゃんは、何も自分の美学を押し付けているのではありません。
「一本を取る柔道」こそが正しい柔の道に通じているから、
孫である柔や、入門してきた弟子に対してそう言ってるだけでしょう。


では、なぜ「一本を取る柔道」が正しいのか。
当然ながらこれが根底にあるがゆえに、おじいちゃんの言葉がある訳です。

道を志した事も無い私が人に道を説くというのもおかしな話ですので、
猪熊柔のモデルとなった山口香さんの言葉を借りる事にしましょう。


引用:山口 香の「柔道を考える」より

技を練る時間
http://blog.goo.ne.jp/judojapan09/e/547ef2b4ed46614478dd5012f33b7132


 技術があって試合で勝つことができたとしても、さらに技を練り、
 高める時間がなければ技は錆び付いてしまい光を失っていく。
 相手に研究され、技を見切られるために試合自体も魅力のないものになっていく。
 お互いが手の内を知れば知るほど試合は緊張感を欠き、
 平凡なものとなる傾向にある。

 国際柔道連盟は効果ポイントをなくしたり、足取りを禁止したりと、
 柔道本来の持つ魅力を取り戻そうとの努力が見られる。
 しかし、一方でこんなに大会を増やし、ポイントで選手を縛ったことは、
 柔道で最も大事な技を練る時間を選手から奪い、
 本質であるべき切れる技をみる醍醐味を無くしてしまう危険がある。


山口さんは、柔道の本質が技の研鑽を積む事にあると書かれています。
そして別の記事では、こうもおっしゃっています。


自他共栄
http://blog.goo.ne.jp/judojapan09/e/855216dbd2784c401bbdf43bbf665857


 柔道のルールが柔道の魅力を失わせたという議論もあるが、私はそうは思わない。
 もちろん、要因の一部ではあるかもしれないが、
 取り組む人間の柔道に対する根本的な考え方を変えなければ
 どんなにルールを変えても変わらないと思う。


嘉納氏や滋悟郎おじいちゃんの言う「一本を取る柔道」とは、
即ち、技の研鑽を積み、誰の目にも明らかな完璧な一本を取るという事であり、
相手からポイントを奪う為に修得した中途半端な技をかけるのでは、
自分の為にも、自分に礼を尽くしてくれる相手の為にもならないという事でしょう。


―――


浦沢先生が『YAWARA!』で描いたテーマは、まさに
嘉納氏の教えにある「精力善用」と「自他共栄」にあります。

主人公の猪熊柔は、天賦の才を持ちながら、柔道にあまり熱心ではありません。
つまり、「精力善用」ではない状態にあるという事です。
ところが、決着がつかなかったジュディとの国際大会での再戦の約束や、
柔道を辞めたいと言う柔を支えた伊東富士子の助力があって、
柔は柔道に真剣に取り組むようになります。つまり、「自他共栄」です。

『YAWARA!』の世界では、誰1人としてポイントを取りに行く柔道をしません。
あのプライドの高い本阿弥さやかですら、柔からポイントリードをしている場面で、
逃げずに柔の組み手を真っ向から受けています。
(現実の柔道の場面なら、組み手を切ります。そういう指示が出ます。)


「一本を取る柔道」を目指さなければならないのは、
それが嘉納氏が掲げた理念を実践する為の唯一無二の答えだからで、
山口さんの言葉を借りれば、柔道の本質だからなのだと思います。

この作品では、なぜ誤審が描かれなかったか?
考えてみれば簡単で、誤審をしてしまうような微妙な技の決まり方が、
作中ではまるっきり無かったからなんですよね。
柔の出した技は全て綺麗に決まっており、疑いようの無い一本だったからです。

仮に山口さんの危惧が当たっているのだとしたら、
ポイントを奪い合う現在の柔道は、道の精神から外れていってるのかも知れません。


―――


海老沼選手は準決勝で敗れたものの、続く3位決定戦では、
誰の目にも明らかな美しい一本勝ちを収めました。

ご本人は「金メダルを獲れなかった事が悔しい」とおっしゃっていましたが、
あの時に繰り出された技は、メダルよりも価値のある、
本物の柔道精神の賜物であったと思います。
滋悟郎おじいちゃんもきっと、お褒めになるでしょうね。
 


ご清覧ありがとうございました。

【キャラクター論】(2) 一刻館の人々


四谷さん

↑五代いるところに四谷あり。"変態"にして"紳士"である。


高橋留美子と言えば、数百にのぼるキャラクター達を 
安定して生産し続けてきた屈指のヒットメーカーの1人で、 
ストーリーにも定評があり、コメディから恋愛物、冒険劇に至るまで、 
幅広いジャンルの作品を残してきた事で知られている。 


高橋の作るキャラクターは、とても個性的だ。 

漫画では一般的に、人物の表情に差を付けてキャラを立てる。 
例えば、『HUNTER×HUNTER』の冨樫のキャラは、 
複雑に入り交じった人間性を、人物の表情で形而的に描き分ける。 
評論家の斉藤環は、これを「顔の固有性論」と呼んでいる。 

高橋の場合、表情で分類されるのはボケとツッコミの立場のみ。 
ボケの方が真顔で冷静、ツッコミの方が感情的、など。 
その代わり、人物を構成する"素材"に大きな落差を持たせ、 
強烈な印象を残すキャラに仕立てている。 


高橋のキャラは基本的に、2つの"素材"で構成されている。 
現実 ⇔ 非現実、常識 ⇔ 非常識、日常 ⇔ 非日常と、 
相反する"素材"を同じ人物の中に同棲させているのが特徴である。 

"冷血な雪女"かつ"お金に汚い"おユキさん。 
"ボクサー"なのに"食い意地の張った"畑中耕作。 
"恐ろしい半妖"だけど"主人に従順な"犬夜叉、他。 

理屈は野茂英雄や佐々木主浩のフォークボールと同じ。 
ストレートボールに威力があるほど落差が活きてくるように、 
彼らが真面目な顔で真剣に"素の素材"を演じれば演じるほど、 
"もう1つの素材"とのギャップが生まれ、面白くなる。 

このように、2つの"素材"を渾然一体に描く事で、 
カオティックでハチャメチャな人物が出来上がるのである。 
昨年12月にドラマ化された『らんま1/2』では、 
この2つの"素材"を分割し、別人格として成立させた。 
これも、高橋のキャラ作りに礎があるがゆえに可能だった訳だ。 


――― 


『らんま1/2』から10年前、小学館発行の少年サンデーにて、 
初の連載作品である『うる星やつら』を連載していた高橋は、 
同社の青年向け漫画誌・ビッグコミックスピリッツにて、 
1980年より『めぞん一刻』の連載をスタートさせた。 

『めぞん一刻』は、一般的にはラブコメディに分類され、 
恋愛物としてスポットが当てられる事が多いが、 
この作品の真価は、主人公・五代が暮らす一刻館の特異性と、 
五代を取り巻く人物の"素材"をストーリーに綿密に絡ませる、 
高橋の計算された構成がなされた点にある。 

一刻館には、実に個性的な面々集まっている。 
浪人生の部屋に集まってどんちゃん騒ぎを始めるような、 
五代をして「生きた非常識」と言わしめた人物ばかりだ。 
『めぞん一刻』の舞台となった時計坂には、 
スナック、テニスクラブ、学校と、様々な場所が登場するが、 
そこに息づく人々は常識を持ったキャラとして描かれるのに対し、 
一刻館の住人だけは、るーみっくわーるどのDNAを継いだ 
明らかに異質なキャラとして描き分けれている。 


その中でも、2つの"素材"の落差が群を抜いて激しく、 
一刻館の特異性を象徴する住人が、「四谷さん」である。 

「四谷さん」は、身なりや口調は"紳士"でありながら、 
思考や行動は"変人"そのもので、趣味はのぞき、特技はたかり。 
隣のに引っ越してきた五代の部屋に穴を開け、 
事あるごとに五代のプライベートに干渉していき、 
五代とヒロイン・響子との関係性をややこしくしている。 

一見するとこの人物、五代の邪魔をしているように見える。 
しかし、ストーリーを注意深く追っていくと、 
実はただの1度も、五代と響子の縮まらない関係を 
本気で害した事がない事に気づくだろう。 


この変態紳士が、どのように五代達と関わったかを振り返ってみる。 

まずは五代の最初のガールフレンド「七尾」。 
五代が部屋の穴を塞ぎ、密室で2人っきりの状況を作り上げた後、 
いいムードになって、いざ迫ろうとした所で、 
再び壁を壊し、穴の奥から「お・ま・た・せ」と出てくる。 

続いて五代の教育実習先の女子生徒「八神」。 
腰の引ける五代の部屋に強引に押し掛けてきた時に、 
「八神」を自分の部屋に引きつけ、管理人室に逃げ込んだ五代に 
遠回しに弥明後日までの夕飯をたかっている。 

「四谷さん」は、五代の本命ではない女性には邪魔をするが、 
五代の意中の相手である響子へは間接的なアシストをしており、 
甲斐性の無い五代と、踏ん切りの付かない響子を 
何かと気にかけ、2人の間を取り持とうとしている事が分かる。 
その証拠に、五代が響子と結ばれた事を告白するシーンでは、 
「よかったじゃないですか」と、純粋な笑顔で祝福した。 

このように、自分のキャラを確実にストーリーに絡め、 
読者の印象に残るような登場の仕方をしているのである。 


――― 


『めぞん一刻』では、たとえ脇役であっても 
ストーリーを動かす着実な布石として用いられており、 
囲碁の名人の一手がごとく、キャラを無駄に使わない。 

例えば、 五代と響子の関係が壊れかねないラブホテル事件が起きた時、 
事件の原因はいかにも"扇情的"な「朱美さん」が作り、
「七尾」のいつもの"かん違い"が大きな誤解を生んで、
「二階堂」の"鈍感さ"が誤解を解くきっかけになっていたりする。 

話のダレがちな終盤になっても、それぞれのキャラがきっちり顔を出し、 
納得の行くストーリー展開を生んでいるのである。
後発キャラの「二階堂」まで無駄に使用しない辺りは流石としか言いようがない。


近年における漫画では、キャラは消費するものになっており、 
"素材"がその人物の全体像を表さなくなってきている。 
ファストフードのように適当な味付けでも、お腹を満たせれば
読者はそれで満足だろうが、"素材"の味を知る事もまた必要であり、
それを教えるのは優れた作家にしか出来ない事なのだ。
高橋はそれが出来る、漫画界の三ツ星シェフである。

人間性を描く事は、作品を残す上での根幹だと言える。 
それが表面的であるほど、読後には軽い印象しか残らない。 
漫画においてキャラクターが最も重要だと言われる所以はここにある。 

『めぞん一刻』に触れれば、漫画の何たるかが分かるだろう。

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ご清覧ありがとうございました。

【上級】『20世紀少年』の郷愁

20世紀少年

↑"ヒーロー"を表す、地球防衛軍のシンボルマーク。



19世紀が「理性の時代」と呼ばれるのに対し、 
20世紀は「感性の時代」だと言われている。 

感性の時代は、1900年に行われた5度目のパリ万博で幕を開ける。 
19世紀最後となったこの年、フランス美術100年展が催され、 
新古典主義から印象主義への変遷を振り返りながら、 
後期印象派が生んだ象徴主義に彩られる20世紀を展望した。 

これと同じ年、象徴主義を代表する画家、パブロ・ピカソが、 
世界中の芸術家が集うパリの地を初めて訪れた。 
翌年1901年には、パリで自身初の個展を開催するに到り、 
以降、幾度も作風を変化させながら表現を追求していった。 

表現の極地へ登り詰めたピカソは、1937年の第7回パリ万博にて、 
象徴画の最高傑作の1つ、『ゲルニカ』を出展する。 
そしてその絵に感銘を受け、伝統芸能を重んじていた日本に 
前衛芸術を持ち帰った人物こそ、太陽の塔の制作者、 
象徴画の巨匠・岡本太郎、その人である。 


1970年にお目見えした太陽の塔は、戦後復興を遂げ、 
高度経済成長を終えた日本に、強烈なモラトリアムを残した。 
40年経ってもなお現存し、人類の進歩と調和の"象徴"として、 
日本人の古き良き時代を照らし続けている。 


――― 


岡本太郎が提唱した理念の中に、対極主義というものがある。 
写実主義=レアリスムの流れを組む定型的な象徴主義と、 
深層心理を描く不定型なシュールレアリスムの融合を意味し、 
前回に解説した"象徴"の両極性を捉えた理念を指す。 

『20世紀少年』は、そんな象徴主義の思想を背景に持つ。 
管理される社会に背を向け、自己表現に浸る新人類世代が、 
理想と現実の間にある"ヒーロー"になっていく話だ。 


新人類世代が子供の頃に夢見ていた"ヒーロー"は、 
なりたいと願いながらも、なれないと諦めている"象徴"だ。 
科学特捜隊の「イデ隊員」は、ウルトラマンが居れば 
われわれ科学特捜隊は必要ないような気がする、と、 
ウルトラマンに依存しきった無力感を吐露していた。 

『20世紀少年』に登場する人達も、理想の中にのみ存在する、 
"ヒーロー"の到来をひたすら待ち望みながらも、 
現実世界で自分達がその理想に到達する事は無いと、 
モラトリアム世代の心境を無力感で表現した。 

そんな鬱屈した対極主義の構造を打ち砕いたのが、 
世界を細菌テロの危機から救った、ともだちだ。 
ともだちは、理想を具体化する、まさに"ヒーロー"だった。 


主人公のケンヂも、幼少時代のモラトリアムを引き摺りながら、 
コンビニの店長として働く自分を嫌厭していた。 
小学生の頃は、友人と秘密基地で地球防衛軍ごっこをして遊び、 
"ヒーロー"が地球を救う「よげんの書」を書いた。 
ケンヂの理想は、世界をこの手で変える事だったのだろう。 

中学生になって、自分の力で世界を変えようと、 
放送室を乗っ取り、T.REXの『20th Century Boy』を流すのだが、 
変革は起きず、やっぱり"ヒーロー"にはなれなかった。 
現実は、ケンヂの理想を受け入れなかったのだ。 
いつしか自分が思い描く理想を、郷愁の中に閉じ込めて、 
ケンヂは現実に頭を下げて生きるようになった。 


――― 


けれど、そんな小さな郷愁まで奪われようとしていた。 
ともだちは、ケンヂとその友人の"象徴"であった 
地球防衛軍のシンボルマークを自分のものにして、 
ケンヂ達が書いた「よげんの書」を実行していった。 

ケンヂ達の理想は、大阪万博と太陽の塔に"象徴"された 
人類の進歩と調和を、自分達の世代が引き継ぐ事である。 
それを実行するのは、他人であってはならない。 

だが、立ちはだかる現実に打ちのめされている間に、 
ともだちが自分達の理想を具体化してしまった。 
"ヒーロー"になるのは自分達であるはずだったのに、 
ウルトラマンの「イデ隊員」ように、大人になってからも、 
他人が世界を救うのを見届ける役割になろうとしていた。 

ケンヂ達は、ともだちから"象徴"を取り戻す為に、 
今度こそ自分達の手で理想を掴む事を決意する。 
誰もが憧れる正義の"ヒーロー"にはなれないけれど、 
理想と現実の間に確かに存在する、郷愁の中に佇む 
自分達の矜持を守る、小さな"ヒーロー"になる為に。 


――― 


モラトリアム世代が抱いた個人至上の思想は、 
ケンヂ達と同じく、現実を越えたシュールレアリスムだろう。 
松本人志の『しんぼる』が国内で酷評を受けたように、 
そのまま描くだけでは、他人から理解される事は無い。 
岡本太郎が定義付けたように、現実であるレアリスムと融合し、 
両極性を包括する事で、ようやく共通認識が生まれる。 

『20世紀少年』は、岡本太郎の対極主義をそのまま形にした、 
象徴性の極めて高い作品だと言えよう。 
"ヒーロー"という郷愁の中のシュールレアリスムを、 
作品の"象徴"として現実に落とし込んだ、まさに傑作である。 

2011年で、岡本太郎の生誕から100周年目を迎えた。 
岡本太郎の残した20世紀は、確かに21世紀に引き継がれている。 


次回は、徹底したレアリスムを追求する事で 
理想を具体化した『ワンピース』の世界に触れてみよう。
 


ご清覧ありがとうございました。

【中級】『3月のライオン』の心象描写

3月のライオン

↑まるで文芸小説に挿絵が付いたかのような表現力。


『3月のライオン』の作者である羽海野チカは、 
文芸小説に用いられる叙述的な心象描写を、 
そのまま絵に表す事の出来る、表現力の高い漫画家だ。 

一手一手、まるで素手で殴ってるような感触がした、とか、 
香子はひびの入ったグラスみたいな女の子だった、とか、 
いかにも小説的な比喩表現を使っている文章に、 
硬く握り締めた拳の絵や、半ばまで脚が水に浸かった絵など、 
描画技術によって的確に心象状態が表されている為、 
登場人物の気持ちがとてもよく伝わってくる。 

こういった描写に優れた作家は女性の漫画家に多いが、 
その多くが恋愛の話に依存して共感を得ているのに対し、 
羽海野はプロットまでもが小説の組み立て方と同じで、 
テーマ性に主眼が置かれているのが特徴である。 


――― 


『3月のライオン』は夏目漱石の『こころ』に似ている。 

「家も無いし」 
「家族も無い」 
「学校にも行って無い」 
「友達も居無い」 

アナタの居場所なんて、この世の何処にも無いんじゃない? 

という義理の姉・香子の台詞で始まる本作。 
主人公の桐山零くんは、そんな言葉を思い出しながら、 
引っ越しの荷物も未開封のまま、窓にはカーテンも付いてない、 
カーペットもない床板に直に敷いた布団の上で目覚める。 

桐山くんは幼くして家族を交通事故で亡くした事で、 
父の親友だった将棋一家の養子になり、そこで 
あまりの将棋の強さゆえに義理の姉弟から嫉まれる。 

桐山くんの心を支配しているのは"自己否定"だ。 
そしてそれは夏目漱石の生涯のテーマでもあった。 


漱石の作品は"自己肯定"か"自己否定"のどちらかがテーマで、 
『坊ちゃん』が"自己肯定"の代表格であるとするなら、
『こころ』は"自己否定"の精神が最もよく表された作品だ。 

「K」は"自己否定"をしながら道を求め続け、 
それが叶わずに最期は自分の存在を自分で絶った。 
「先生」は「K」の自殺を自分のエゴイズムのせいだと考えるも、 
苦悩の末に、やがて「K」と同じ"自己否定"に行き当たる。 

桐山くんも同じだ。義理の家族の家を出てから、 
1人暮らしを始め、高校にも通うようになるのだが、 
結局そこでもずっと孤独に、自分をひたすら消して生きた。 
自分はカッコウと同じだと"自己否定"する事で、 
自分のせいで将棋を諦めた義理の姉の面目を保とうとしていた。 


――― 


「K」は自殺する日の晩、隣の部屋で寝ている 
「先生」との間に仕切られた襖を少しだけ開けている。 
誰も寄せ付けず、ずっと心を閉ざしたままだった「K」は、 
「先生」にだけは心の襖を開いていたという事だ。 

「先生」もまた自殺する前に、妻にも開いていなかった心を、 
"遺書"という形で書生の「私」に残している。 
「K」と同じ孤独を抱えながら、「K」を理解しなかったのが、 
「K」の自殺を通じてようやく孤独の意味を理解したのだ。 


桐山くんも何も無い部屋の中で、孤独に喘いでいた。 
必死に泳いで空虚な生活から逃げてきたのに、 
泳ぎ着いた先もやっぱり何も無い無人島だった。 
将棋だけが自分が生きている存在意義だったのだが、 
自分の存在を消して"自己否定"をしていた桐山くんは、 
将棋においても自分を大切にしなくなった。 


だけど、桐山くんには二階堂くんが居た。 
桐山くんの心の中にぐいぐい上がり込んでいって、 
何も無い部屋にソファーベッドと羽毛布団を置いて帰る。 
「K」が「先生」の部屋の襖を開けていたように、 
この心の距離感が2人の関係性を表現している。 

二階堂くんも桐山くんと出会う前は、難病で友達が作れず、 
盤上で強くなる事だけが拠り所のひねくれてた子だったのだが、 
自我のカタマリに成り果て、孤独だった二階堂くんの 
アタマをかち割り、救ってくれたのが桐山くんだった。 

桐山くんの将棋がおかしい事に気付いた二階堂くんは、 
自分の将棋を大切にしてくれ、と桐山くんに訴えかける。 
それに対して桐山くんは、自分の事で一杯いっぱいで、 
二階堂くんの言葉の意味を理解しなかった。 

「先生」が「K」を理解する唯一のチャンスの時に 
自分のエゴイズムを優先させてお嬢さんに求婚したように、 
桐山くんも二階堂くんの言う自我のカタマリになっていて、 
二階堂くんと同じ孤独を背負い込んでいたのに、 
そこからずっと目を背け、逃げ続けていたのだ。 


――― 


そんな時、二階堂くんが新人戦の準決勝で倒れ、入院した。 
「K」は死を選ぶ事で"自己否定"を完結させたが、 
二階堂くんは倒れるまで自分の生きる証である将棋を指し続けた。 
桐山くんは死の影が忍び寄る二階堂くんの残した棋譜を見て、 

戦ってるんだ 
みんな たったひとつの 
小さな自分の居場所を 
勝ちとるために 

と、自分への決意を固める。 

そして決勝戦での対局中、また自暴自棄になって 
自分を見失うような強引な一手を打とうとした 
桐山くんのアタマを、自分を大事にしてくれ、と言った、 
二階堂くんの言葉がかち割ったのだ。 

桐山くんは「先生」のようにはならなかった。 
孤独の中で思い出したのは独りぼっちの苦悩ではなく、 
孤独と戦いながら生きてきた人達の事だった。 
彼はついに"自己肯定"に至り、自分を守る術を知る事で、 
自分の心を取り戻したのである。 


――― 


『3月のライオン』は、夏目作品とも比較できるくらい、 
心象描写に優れ、メッセージが読者の心に深く刻まれる。 
同じ"自己否定"から"自己肯定"に至った作品なら、 
最近では『新世紀エヴァンゲリオン』が有名だが、 
『3月のライオン』がこれだけ分かりやすいのと比べたら、 
『エヴァ』はとても分かり難い作品だと言える。 

なぜか? 

解釈項の中に、余計なステップが混じってるからである。 

『エヴァ』と読者が共通認識で結ばれる為には、 
フロイトの心理学やキルケゴールの実存哲学などを 
読者が予め知っている必要がある。 


つまりこう↓ 


【3月のライオンの解釈項】 
"象徴" → 記号化 → "象徴"の理解 

【エヴァの解釈項】 
"象徴"→ 学論 → 記号化 → 学論への理解 → "象徴"の理解 


"象徴"をそのまま叙述や映像で記号化しているものは、 
絵や文章を見るだけでそれが伝わり、理解が出来る。 
『3月のライオン』はそういう作品だから分かりやすい。 

しかし、"象徴"が薄まったりブレたりした時や、 
叙述や映像が"象徴"ではない別の何かを表している時など、 
それを読み解くのが困難になる場合がある。


次回は、『HUNTER×HUNTER』がなぜ分かり難くなったのかを、 
『ジョジョの奇妙な冒険』と対比させながら解説してみる。 


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