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青年漫画

【総評】『高校球児ザワさん』~エピファニー文学を継承したポスト萌え


高校球児ザワさん

↑「フェチすぎる野球マンガ」として紹介された本作。
 その本質はどこにあるか。



オリンピック競技から野球が除外された理由をご存知でしょうか。
人気や競技人口は、実は小さな問題に過ぎません。
野球の世界組織である国際野球連盟・IBAFは5大陸130カ国が加盟しており、
そのうち77カ国では国内リーグ戦を実施、
IOCの求める3大陸50カ国規定をクリアしているからです。

では、なぜ除外に至ったのか?
理由の1つは、「女子種目の規定が最も遅れた競技だから」です。
背景にあるのは野球競技の国際ルール導入への遅れで、
アレクサンダー・カートライトが1845年に作った塁間距離などの他は、
細かいルールのほとんどが世界共通ではない為に、
ストライクゾーンや使用する用具ですら曖昧なまま、
国際基準に合わせる為に導入された統一球を使う事にも批判が出るのが、
野球という極めて保守的なスポーツなのです。
こんなんでよく国際大会とか開けるよねっていつも疑問。

当然ながら女子種目の規定も進むはずもなく、
男子は野球、女子はソフトボールという二分化が進みました。
エレン・ウィレ女史の呼び掛けで男女同一ルールを採用したサッカーや、
その後のなでしこジャパンとの活躍と比較すれば、
IBAF女子ワールドカップで日本が3連覇を果たした女子野球なんて、
あれ? 女子ってソフトをやるんじゃないの?
という認識がまず最初に出てくる、悲しいほどの低い知名度しかありません。
女子選手も男子と同じように野球をやるべきだと、
IBAFが国際的な働きかけを始めたのは、2000年代に入ってから、
女子サッカーより実に10年以上も遅れての事です。


漫画やアニメには、水原勇気やメロディちゃんなど、
男子選手と同じ舞台に立ったプロの女子選手が居ますが、
現実では1991年の野球協約の改訂まで、女性はプロになる事を、
何とルールの上で認められていませんでした。
高校野球に至っては、女子選手のメンバー登録と公式戦出場を、
高野連の大会参加者資格規定により、いまだに認められてはいません。
それどころか、練習試合ですら相手校の事前承諾が必要です。
多くの女子選手は、中学まで野球をやっていても、
高校ではまず続けられないので、ソフトに行くしかないのです。

現在のオリンピックでは、こうした性差別を撤廃する動きがあり、
「男女同一のルールで行う」ことは特に重点となります。
男子は硬式野球を、女子はソフトをやってる実態がある野球競技は、
オリンピック種目として相応でないという判断が下されました。

今回は、野球界に横たわる暗黙のルールを踏まえながら、
高校野球における女子選手という存在の特異性をあぶり出した作品、
『高校球児ザワさん』を評してみたいと思います。


―――


何を隠そう、道場主はソフトボールの選手でした。
五輪競技から除外されていなかったら、今でも続けていたでしょう。
社会人の道を断念してスポーツ関係の新聞記者になりましたが、
やはり、ソフトも野球も大好きだからこそ、
スポーツに関われる仕事を選んだのかも知れません。

『高校球児ザワさん』の主人公・都澤理沙ちゃんも、
ただ野球が大好きだという理由で、公式戦に出られないのを知りながら、
野球エリートの兄を追って甲子園常連の強豪校・日践学院に入学し、
男子選手に混じって、日々練習を続けています。


女子選手と男子選手の運動能力を比較すると、
「女松坂」の異名をとった小林千紘投手の球速が130キロ台ですから、
女子のトップ選手が、男子中学生と同じくらいだと考えて下さい。
サッカーでも、なでしこジャパンが高校生と試合をしたら、
高校生の方がメタメタに勝ちます。それほど男子と女子は違います。

しかしそれはトップレベルを比較した場合に限ります。
そこらへんの高校に130キロ投げられる選手が入学すれば、
公式戦の登板機会なんていくらでもあります。
ゆえに、130キロ投げられない男子が規定上ではベンチ入り可能なのに、
130キロ投げる女子がその機会すら与えられないのは、
高野連め…ぐぬぬ、と思いたくなるのが女子選手の必定ですよね。

理沙ちゃんが他と違う点は、入学したのが野球の強豪校であった事です。
インタビューで「実戦では使えない」と自己評価を下した通り、
仮に理沙ちゃんが女子のプロ選手並みの力を持っていたとしても、
「130キロの投手」では、地区予選を勝ち抜くどころか、
強豪校ゆえに、実戦に登板させてもらえる事すら難しい。



『ザワさん』の特徴は、フェミニズム観点の一切を排除している点です。
理沙ちゃんは日践学院硬式野球部の一員として、
思いっきりビンタされる事もあれば、罰として坊主になる事もあります。
完全な男女同列の極めて過酷な環境の中で、男子選手から浮いて見えてしまう、
気になって気になってしょうがない女子選手の特異性を、
理沙ちゃんの周りの男子選手の視点から、毎回8ページずつ描いています。


―――


さて、第三者の視点から対象となる人や物を描くのは、
『よつばと!』の回で解説した通り、あの川端康成も用いた、
モダニズム文学の典型的な手法ですね。

探偵シャーロック・ホームズがいかに頭が切れるかは、
助手のワトソンの視点から描かれる事で、より強調されて伝えられます。
ワトソンのズボンの裾に付着していた泥の撥ねを観察して、
ワトソンがロンドンのどこを散歩していたのかを言い当てる事は、
地質学に精通するホームズにとって朝飯前なのですが、
ワトソンにとっては驚愕する他ありません。
読者である私達も、どちらかと言えばワトソンと同じ凡人ですから、
ワトソンの視点で描く方が、その驚きに共感できるという訳です。
作者のコナン・ドイルは狙ってこれを書いています。


同様に、女子である理沙ちゃんが頭を坊主に丸めるのは、
男子部員にとっては「うわぁ…」と、思わず言いよどんでしまう事件です。
女性にとって頭髪は、命に例えられます。
AKB48の峯岸みなみさんが懲罰で坊主にした時は、
AKBファンのみならず、国内・海外に大きな波紋を呼びましたよね。

理沙ちゃんは他の男子部員と同じ単なる野球バカであり、
ごく普通に野球に打ち込んでるだけなのですが、
野球という男社会の中では、女子選手の存在は異端そのもの。
まして女性が坊主にするなど、正気の沙汰ではありません。

その他、勝負事に対して貪欲であったり、
女として扱われる事に戸惑いを隠せなかったり、
チームメイト達が発見する、理沙ちゃんに対する驚きは、
「野球は男性がやるもの」と固定観念を持っている一般読者にも、
そっくりそのまま、ストレートに伝えられます。



モダニズム文学において、"発見"の楽しさを教えてくれたのは、
アイルランド出身のジェームズ・ジョイスという作家です。 

ジョイスは、故郷・ダブリンの町を散文に残す事で、
ダブリンとそこに住む人達の特徴を"発見"していきました。
そして1914年、短編集『ダブリン市民』を発表。
老若男女さまざまな点景から織り成されるストーリーによって、
ダブリンとはどういう町であるのかを、浮き上がらせるように書いています。

ジョイスはこうした"発見"の事を、エピファニー(顕示)と呼んでいます。
エピファニー文学は、小さな"発見"を積み重ねる事で、
全体の大きなイメージを類推させる文学です。
『高校球児ザワさん』はジョイスと同じ文学技術が用いられている作品で、
エピファニー文学そのものと言っても差し支えありません。


―――


「萌え」も、伝統的に第三者の視点から描写されています。
ですが、もともとこれは主人公から主体性を奪ってキャラを薄めた上で、
ヒロインとなる人物像に主体性を移し、より萌えさせるように生み出された、
モダニズム文学と関わりない、キャラクター性に誘導する為の技術です。

ここから文学に転じさせるには、各々のキャラクターに対して、
ジョイスのような鋭い洞察が加えられる必要があります。
ところがこうした作品群は、属性によってキャラを差別化する事にのみ腐心し、
心理状態が深く掘り下げられる事はめったにありませんでした。


かつては『ザワさん』も萌え作品の一部として捉えられ、実際にメディアからは、
脇の処理の甘さやアンダーシャツから浮き出た肢体を克明に描いた、
フェチすぎる野球マンガ」として紹介されました。

「萌え」を下地とした作品群からは、まったくの偶然ながら、
『ザワさん』のように、たまに文学の域にまで高じた作品が出ます。
『ザワさん』が本当に伝えたかったのは、理沙ちゃんのフェチっぷりではなく、
野球競技が置かれた性差別の問題であったと思います。
ジョイスがダブリンの町の抱える停滞問題に直接言及する事なく、
第三者の言動に反映させる形でそれを抽出させたように、
野球界の封建的な性差別を、理沙ちゃんの障害として描く事で、
読者の誰もが、問題として"発見"に至ります。

作者の三島衛里子先生が、ジョイスと同様に点景で野球を洞察していたから、
野球について深く考えさせられる作品になったのでしょう。
ポスト萌えは、こういった所から生まれるのかも知れませんね。


さて、五輪復帰を目指して男女同一ルールの採用を決めた野球競技ですが、
この度、野球のIBAFはソフトボールのISFと統合し、
今年4月に世界野球ソフトボール連盟・WBSCとして発足しました。
試合時間短縮の為、五輪ではソフトボールの方に合わせて7回制になるそうです。

これに非難ごうごうなのが、野球ファンのおじさま方。
男社会の面子として「そんなの野球じゃねぇ」とのたまっております。

そもそも、野球競技自体がでたらめなルールの下でやってたんですから、
ルールを体系化する事には前向きであってもらいたいものです。
 


ご清覧ありがとうございました。

【短評】『いいひと。』~東日本大震災からの復興

ブログネタ
3.11 東日本大震災について話そう に参加中!
いいひと。

↑被災地に笑顔が戻る日が来る。



『いいひと。』の16巻は、3月11日という忘れ得ぬ日に
再読する価値のある一冊に違いありません。
私はこれほど思いやりに溢れた本を他に知りません。

16巻のサブタイトルは「思い出にかわるまで」。
ストーリーは、主人公の北野ゆーじがいつものように異動させられ、
阪神大震災から1年半が経過した神戸に出張しに行くところから始まります。
そこでゆーじは、実際に被災した人達と、そうでない人達との間に、
心に負った傷の深さにギャップがあるのを感じ取ります。

悲しみの記憶で塗り固められた被災地・神戸を、喜びの記憶に変える為に、
ゆーじは工場建設予定地に即席の野球のグラウンドを作り、
そこで被災地の子達と野球をして、1日だけの思い出を共有します。

このグラウンドも翌日には工事が入り、壊されるのだけれど、
この時みんなで野球をした記憶は心にしまい込める。
地震で建物は壊れても、楽しかった思い出までは壊せない。

作者の高橋しんさんは、東日本大震災が起きた後、
この震災復興編をホームページ上で無償公開しました。
被災地とその周囲とのギャップを埋める為に、
被災者の心を復興をしていこうと伝えたかったのだと思います。

無償版「いいひと。」震災復興編・期間限定リリース再開です。。。しん
http://www.sinpre.com/sinpre/archives/2011/03/post_429.html



私が住んでいる長崎県では、1990年に普賢岳噴火が起きました。
私の夫は、家屋と小学校の思い出を失いました。

この噴火は島原半島全域に甚大な被害をもたらし、
地元を走っていた島原鉄道も壊滅状態になりました。
この時、島原鉄道の復興に道筋を付けたのは、文字通り、
被害状況を見る事の出来なかった、盲目の方だったそうです。
たった1人だけ、目の前に広がる絶望ではなく、
その先にある希望を言葉にし、周囲に勇気を与えたといいます。


たとえ被災地の惨状を目の当たりにしていなくても、
私達に出来る事はあるのだと、ゆーじは言っている気がします。
たとえ被災者の気持ちが100%理解する事が不可能だったとしても、
私達は希望の言葉をかけてあげる事が出来るはず。

震災から2年が経ちました。
奇しくも3日前のニュースで、福島県の子供の甲状腺検査の結果が、
青森、山梨、長崎の子供と横ばいの数値であった事が明らかになりました。
長崎でこれを調査されたのは、60年以上もの間、原爆医療に携ってこられた方。
不誠実なデータ比較を用いて詭弁を労した原発学者とは違い、
長年の苦労があってこその、この信頼置ける結果だと言えるでしょう。
これでようやく、不安と憶測が生んだ風評被害から、
被災地が開放されていく道筋が付いたのです。


最後に、東日本大震災で亡くなられた方々に、
謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り致します。



ご清覧ありがとうございました。

【短評】『キミにともだちができるまで。』~欠落したロマン主義を拾い集める物語

キミにともだちができるまで
↑非合理性と向き合ってみよう。


「Time is money(時は金なり)」という言葉があります 。
アメリカの伝説の偉人、ベンジャミン・フランクリンの言葉です。

この言葉、もともとは「Time is precious(時は大切)」が原形でした。
precious → money に言い換えたフランクリンは、
雷が電気である事をただ証明するだけではお金にならないと考え、
避雷針まで発明して財を築いちゃうほどの、アメリカ合理主義の象徴です。
お金と時間を無駄に使わないその合理精神、並大抵じゃありません。

ところが肝心のアメリカという国は、フランクリンの時代から200年、
雇用の合理化を図りすぎて経済が回らなくなり、
今度は雇用の回復に時間とお金を使うという事をやってます。
何でこんな無駄な事をやる羽目になったんでしょうか。


ひとえにこの問題は、無駄なものとして切り捨て続けてきた
非合理性の中に、実は"大切"なものがあったのではないかと言えます。
いつの時代も揺り戻しはあるもので、フランクリンより以前にも、
ヨーロッパでは啓蒙思想への反動として、ロマン主義が起こってます。
『レ・ミゼラブル』やグリム童話は、ここから生まれました。

さて今回は、アメリカ追従の日本が失った"大切"なものを教えてくれる、
保谷伸先生の2010年代ロマン主義文学漫画、
『キミにともだちができるまで。』を評してみたいと思います。


―――


いつも頭を2~3回くらい捻って考察する道場主が、
単刊について書こうと思ったのには、もちろん理由があります。

私がこの作品の事を知ったのは、ゼノンの次号予告からでした。

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モリコロス先生と保谷伸先生は、月刊コミックゼノン主催の
マンガオーディションの、第1回の受賞者のお2人。
そして作中でまさかの筆談かぶりをするという仲でいらっしゃいます。
『ガラスの仮面』と『スケバン刑事』の同時新連載くらいの衝撃。

ゼノンについては、原哲夫・北条司先生の作品が強すぎて、
「ジャンプ」的な男くさーいイメージがあるのですが、
それもそのはず、月刊ゼノンも前身の週刊コミックバンチも、
ジャンプ編集長だった堀江信彦氏が設立したコアミックスが編集し、
その会社の出資にも両先生が関わってますからね。

しかしながら、ダブル新連載で始まった新人お2人の作品は、
そんな凝り固まったイメージを覆すほどの新しさがあり、面白さがあります。
ジャンプからの支流に過ぎない、言わば北斗琉拳であったゼノンは、
生え抜きの新人先生によって、独り立ちを果たしています。

これは単行本が発売されたら両方買わなくては…


…と思っていたのですが。

我が長崎県は漫画・アニメ不毛の地。地元を題材に取り上げた
『坂道のアポロン』や『ばらかもん』は棚に置いていても、
知名度の低い普通の作品は、同県出身者ですら置かないという愛の無さ。
谷川史子先生の『清清と』を探すのにどれだけの本屋を回った事か。

ゼノンの単行本も例外ではなく、田舎の本屋さんでは、
置枠が棚1列分の端から端まで無い上に、並んでるのは原・北条作品のみ、
あれ?新刊コーナーにも無いんですけど…という状況でした。
市外にある比較的マニアックな本まで取り揃える本屋で見付け、
ようやく手にする事が出来ましたよ…ksg。


キミにともだちができるまで。

保谷先生の『キミとも。』、って略せばいいんですかね、
この作品は、無駄な時間を使う事を嫌う高校生のエリート男子が、
類稀なる好奇心を持つ女子高生に惹かれて…ではなく、
筆談で会話をする失声症の男の子の友達作りを手伝いながら、
"大切"なものを思い出していくお話です。


―――


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この作品では、スマートフォンを合理性の象徴として、
主人公の高校生・鷹司清之助に常備させています。
単行本の表紙でも手にしてますし、巻頭のカラー扉でもぶら下げてます。
モデルはdocomoの初代GALAXY Sでしょうか、
マルチタスク機能の付いたハイエンドモデルのようです。

清之助はスマホ画面に表示される時間をいつも気をかけ、
手紙でなくアドレスデータをやり取りし、ストラップを付けられるのを嫌がります。

「人生は有限だ」
「何事も限られた時間をどれだけ有意義に活用できるかで勝敗は決まる」
「だから僕は無駄がキライだ」


と、のっけからタイムスタディ節が全開です。

自分がハイエンドな人間であると自覚し、マルチな才能を発揮する為に、
メモリを無駄に割いて処理速度を落とす事を何より嫌い、
東に困ってるおばあちゃんがあれば、黙って素通りし、
西にあいさつ運動をする風紀委員があれば、面倒だと口にします。


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そんな清之助が出会ったのが、母親を亡くして失声症になってしまった、
人見知りな小学1年生の男の子・従弟の龍太郎くん。

この男の子を象徴するアイテムが、筆談帳です。
龍太郎くんは人前に立つと、極度の緊張で喉の奥が硬直し、声が出せません。
ただ言葉に発するだけでも普通の人の何倍も努力を強いられます。
作中では筆談による会話が1コマの中で成立してますが、
現実ではもちろんそんな事はありません。書き留める為の時間を使います。

予測変換が出来るスマートフォンと、1文字ずつ手書きの筆談帳。
清之助から見れば龍太郎くんは、非合理性のかたまりに見えるでしょう。
『キミとも。』はこのように、合理性と非合理性の対比が描かれており、
"大切"なのはどちらであるかを自ずと考えさせてくれます。
文学作品と同じストーリー構成というか、これ完全に文学ですよ。


中でも、キャッチボールの回の描写が秀逸でした。
平行に引かれた2本の白線の外側からお互いに投げ返すルールの下で、
龍太郎くんが投げたボールは、友達には届きません。
それを見た清之助は白線を越え、龍太郎くんの目の前まで近付き、
ボールをポロっと投げ渡し、龍太郎くんはそれをキャッチします。

「こんなに近すぎたらキャッチボールの意味が…」という合理的主張に対し、

「距離は違ってもキャッチボールはキャッチボール」
「ボールのやりとりが出来たのは変わらないだろ」
、と清之助。

キャッチボールは人と人との対話によく例えられますが、
この場合も、失声症というハンディキャップを抱えた社会的弱者と、
いかにして対話を成立させるかの暗示にもなっていて、
龍太郎くんの言葉が周囲に届いていない状況の中で、相手と真剣に向き合い、
こちらから距離を縮める事の重要性を説いています。


キャッチボールの相手が、吹き出すくらいに無愛想に描かれた子だったり、
また後にその子との友情が爽やかに築かれていったりと、
非合理性との対比の中から、決して切り捨てる事の出来ない、
人付き合いにかかる精一杯の努力を拾っていく演出が実に見事です。

嘘みたいだろ…この話を書いてるの、まだ20歳なんだぜ…?
漫画が無かった頃の時代なら、保谷先生は文学作家にもなれたはずです。


―――


現在のジャンプは、新人育成に苦労しています。

人気を支える看板作品の連載が始まったのが、『ONE PIECE』が1997年、
『HUNTER×HUNTER』が98年、『NARUTO』が99年であり、
次世代の看板作品である『トリコ』が08年に連載開始するまでに、
10年という長い歳月を要している状況です。


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↑ジャンプは新人作家の打ち切り率が高い。
(引用:倩 ジャンプの新連載打ち切り率について 完全版



原因は、経営の合理化にあると思います。
99年~08年までの空白の間に、話の書ける作家さんを切り過ぎている。

例えば『BOY』の梅澤春人先生ですね。
02年に『SWORD BREAKER』を、04年に『LIVE』を連載されてますが、
刊行数は2巻、1巻と、いずれも短期打ち切りとなっています。
が、両作品は文学的な試みが用いられた実験作であり、
梅澤先生の新しい挑戦に向けた意欲が感じられる内容なのです。

その後、梅澤先生はヤングジャンプに移籍されました。
同様の憂き目に合ったベテラン先生方も同じ道を辿られます。
新人作家は特に打ち切り率が高かったので、それを恐れて人気作を模倣し、
独自性と新しさを兼ね備えた後進も、軒並み他誌でデビューしていきました。
キャラクター作りの上手い作家さんだけが人気を得ていく、
読者アンケートを重視し過ぎたんでしょうね。

合理的な経営判断は誠に正しいとは思いますが、『キミとも。』のように
構成・演出に秀でた作品が、北斗宗家であるジャンプではなく、
支流であるゼノンから生まれるのは、切り捨てられた非合理性の中に、
お金に換えられない価値が含まれていた事を意味しています。
人気作の再構築・再生産を繰り返した結果、特定の読者層しか訴求できず、
漫画業界の市場縮小につながった事からも分かります。
日本が追従してきたアメリカ合理主義は、絶対ではないのです。


『キミとも。』の第4話には、清之助の台詞として、
フランスの文学者・ロシュフコーの『箴言集』から引用がありますが、
そのフランスでは、彼の皮肉の利いた人間観察力が、
後のロマン主義文学を開いた作家に受け継がれています。
ロマン主義は、専制政治によって抑圧されてきた人間性を呼び起こし、
"大切"なものの在り処をヨーロッパ中に示しました。

本屋にすらまともに取り揃えられないゼノンという支流には、
経営判断の中で切り捨てられてきた、"大切"なものがあると思います。
そしてそれは決して古めかしい骨董品などではなく、
これからの市場を切り開く力を持った、新しい価値観です。

『キミとも。』は、北斗劉家の血を継承しながらも、
ゼノン新人作家の中心に立ち、新しい価値の奔流となっています。
スマートな清之助と、不器用な龍太郎の親交は、
経営の合理化が進められる現代社会の縮図となっており、
その反動として、深い優しさと大きな愛情を感じる事が出来ます。
こんな作品は『いいひと。』以来でしょうか。


現代に蘇ったロマン主義文学の傑作、これを読めばきっと、
忘れかけていた心を思い出させてくれるでしょう。

うむ、良作の血は何としても守らなければなりません。
長崎の本屋さーん。そがんあっとですよー。



ご清覧ありがとうございました。

【短評】『イーグル』~ケネス・ヤマオカに学ぶアメリカ大統領超人論


アメリカ国章

↑アメリカ国章・ハクトウワシ。

引用:栃木県HP・国際交流員の「今週の言葉」より

http://www.pref.tochigi.lg.jp/f04/life/kokusai/kouryuuin/1274953244848.html


今からちょうど4年前、ある漫画が話題になりました。
アメリカ大統領選の活動実態を描いた、かわぐちかいじ先生の『イーグル』です。

なぜこの作品が話題になったのかというと、4年前の選挙で、
史上初の黒人系大統領として当選したバラク・オバマ氏より先に、
有色人種の大統領の出現を予言していたとして、
Yahoo!ニュースなどメディアに取り上げられたのです。

実際に予言していたかどうかは別にして、かわぐち先生と言えば、
『沈黙の艦隊』で核問題を取り上げ、国会審議で名前を挙げられるほど、
政治を克明に描き出した事で知られていますよね。
『イーグル』も同様に、アメリカ社会が抱える闇の部分をあぶり出し、
日系候補であるケネス・ヤマオカの打ち出した進歩的な政策を通じて、
問題解決の具体的な道筋を提示しています。


オバマ大統領の再選が果たされた今、再度この作品を振り返り、
大統領にたる人物とはいかなるものかを探ってみましょう。

…前回の予告?政治家は公約を破るのが(ry


―――


『イーグル』のストーリーをおさらいします。

母子家庭で育った本作の主人公、日本の新聞記者の城鷹志は、
母の死後すぐに、アメリカ次期大統領候補・ケネスの密着取材記者に抜擢されます。
「なぜ自分が?」と鷹志が問うと、「子供には父親を知る権利があるから」と、
ケネスは自分が実の父親である事を明かします。

名前が"鷹志"ってとこがミソですね。
タカ科の大型種であるワシは、太陽に届く翼を持つ王者の象徴であり、
「端から端まで1万マイル」の支配力とまで表された強きアメリカの国章です。
アメリカの志を引き継いだ子として、この名前が付けられたのでしょう。
ともあれ、出生の秘密は最後まで関わってきます。

鷹志は自分や母に何ひとつ尽くしてくれなかった父親に対し、
複雑な感情を抱きながらも、選挙戦を戦い抜くケネスの信念に触れ、
父としてでも、大統領候補としてでもなく、1人の人間として、
少しずつケネスを受け入れ、記事にしていきます。


ケネスの人物像はいったいどんなものか?

ベトナム戦争で戦死した兄に代わって戦地に従軍、自らも瀕死の重傷を負い、
戦争で死ぬ無意味さを思い知りながらも、生きて帰還します。
その後は実力派の弁護士として活躍し、上院議員に当選。
ついに大統領候補となり、ベトナムの死地を乗り越えて得た経験を、
平和政策に結びつけて有権者に訴えかけます。

で、その政策。


・ 銃の全面規制
・ 人種差別の撤廃
・ 専守防衛
・ 全海外駐留米軍の撤退
・ 軍縮の代わりに国連軍を増強



…後半の方はあれよね、『沈黙の艦隊』の海江田四郎と同じよね。


ケネスの考えは、対立候補であるアルバート・ノアと交わした教育論に表れています。

大統領選に立候補したケネスは、副大統領の経験を持つノア陣営を訪れ、
「牧場に狼が現れた時、羊をうまく避難させるにはどのようにすれば良いか」と、
ソルト&ペッパーの容器を駒に見立てたチェスの勝負をします。
無論、「狼」は国難を、「羊」は国民を表しています。

ノアは、羊を追いたてる牧羊犬を育てるべきだと主張します。
スーパーカー政策と名付け、エリート社会の形成を目指したものですね。
対するケネスは、羊を牧羊犬のように賢く育てるべきだと主張しました。
スーパーカーに置いていかれた有色移民を救い上げる政策です。


ケネスや海江田元首の主張の背景は、かのドイツ哲学の権威・ニーチェが
『ツァラトゥストラかく語りき』で提唱した「超人」思想にあると思います。
超人とは、大衆に流されない強い個人として行動する、
すなわち"鷲の勇気"を持った人の事で、個人主義の推奨でもあります。
(ニーチェはポーランド人であり、ドイツが大嫌いでした。)

ケネスや海江田は、個人として国家からも独立する事を求めていますよね。
つまりは、国民1人ひとりが牧羊犬になる事を望んでいると言えます。
これは個人主義的無政府主義(アナーキズム)という考え方で、
特に海江田は、思想と行動の統合が取れた超人として当てはまります。

しかしケネスは、海江田と1つだけ異なる点があります。
海江田の目的は世界政府の樹立に帰結しますが、ケネスの目的は、
パックスアメリカーナ(アメリカ主導の平和)からの独立は訴えていても、
アメリカという国を好意的に捉えており、軍産複合体を解体し、
アメリカをより正しい道へ導こうとしているのです。
これは、軍事縮小を訴えて暗殺されたジョン・F・ケネディや、
マフィア壊滅を進めて同じ顛末を辿ったロバート・ケネディと同じ考え方です。


アメリカ国防費

アメリカ国防費
↑年々ふくらむアメリカの国防費。

引用:米国はどのように衰退してゆくのか?

http://www.kane-kasi.com/blog/2012/06/001880.html


軍産複合体とは、軍需産業とほぼイコールの意味です。
日本での公共事業と同じく、国家予算を圧迫し続ける主要因として、
ずーーっと予算削減の槍玉に挙げられています。
つーか当然よね、ベトナム戦争の頃の10倍になってるんだから。

世界を1つにしたい海江田、アメリカを1つにしたいケネスと、
お互いの利害主張に違いはあれど、結論は同じ、
国家それぞれではなく、国連軍を中心とした安全保障です。

余談ですが、本宮ひろ志先生の漫画『サラリーマン金太郎』で、
鷹司誠士なる人物が「世界政府の時代は間も無くやってくる」的な事を言ってたのは、
かわぐち先生の影響ではなかろうかと思ってたりします。
他にそんな事を言ってる人は、かわぐち先生の漫画くらいしか居ないので。
別の漫画にも伝播するほど、影響力の大きさが伺えますね。


―――


さて、現実の大統領は超人たりえたでしょうか。

上図の2009年~2011年の連邦予算に注目してみると、
オバマ政権下でもバランスシートにおけるチェンジが起きてない事が分かります。

オバマ氏はケインズ主義政策を実施しています。
正確には、経済ブレーンとしてケインズ主義者を起用した、となります。
公共投資による有効需要の創出が狙いです。
しかし、注ぎ込んだ予算に対する見返りが充分で無かったとして、
民から官へ」の移行に失敗したオバマ氏には批判が集まっていました。
元は弁護士なので、経済に関しては唯一の泣き所だったのです。


今回の大統領選でも、対立候補のロムニー氏が支持を集めたのは、
ビジネスコンサルタントをやっていた正真正銘の経済専門家であるロムニー氏が、
新自由主義の観点から、オバマ政策の穴を突いたからですね。

新自由主義とは、日本で言えば竹中平蔵氏の構造改革路線に当たります。
小泉元首相がよく言ってた、「官から民へ」ってやつです。
公共事業に割く予算を削減し、緊縮財政のもとで経済を立て直すのが狙いです。


アメリカでは、共和党は右寄り、民主党は左寄りだと言われています。

ですが、ここだいじ。

オバマ氏はあくまで自分好みなケインズ寄りの経済学者を起用しただけであり、
当の政権下では自由主義の象徴であるTPPを推進するなど、全く逆の事もやってます。
ロムニー氏もあくまで自由経済論によって現政権を否定したに過ぎず、
反ケインズ主義のレーガン政権を別の経済論で批判した事もあります。

民主党でもクリントンのように新自由主義政策を採った政権もありますし、
共和党でもケインズ主義の経済学者をブレーンとした政権も多々あります。

政治は二者択一ではないという事です。


『イーグル』が伝える政治家の資質とは、超人である事だと言っていいでしょう。
かわぐち先生が一貫して描き続けてきた人物像でもあります。
ゆえに、政治家をシロかクロかの結論で決め付けるのは、
「萌えアニメを見てるから性犯罪を起こす」というのと同じくらいの暴論だと思います。
「ケインズ主義を採用したからオバマ政権は失敗したのだ」という意見には、
道場主は積極的に与する事は出来ません。

ケネスが駐留米軍撤退を訴えた時は、作中では多くの批判が出ています。
例えば現実の世界でオバマ氏が「沖縄基地から米軍を引き上げます」と言ったら、
そりゃもう漫画で描かれてるほどでは済まないくらいの批判が出るでしょう。

ですが、ケネスにはそう言わざるを得ない個人の問題があり、
有権者の前で嘘を吐く事は、ケネス個人としても統合性の取れない行動なのです。
ケネスの平和政策は、ベトナム戦争と兄の死が背景となっていて、
彼を密着取材していた鷹志は、それを知っていく事となるのです。

オバマ氏もチェンジと言った背景には、生い立ちに関わるそれなりの理由があります。
結果として4年間ではアメリカをチェンジする事は出来ませんでしたが、
エネルギー革命によって輸入国から輸出国に転じるなど、
極めて重要な政策を一貫して支援し、実現へと導いた人物でもあります。
「官主導」と言いつつ、大事なことは民間任せのどこぞの政権とは違うのです。
政治家にとって個人を継続する事こそが最大の資質であるのなら、
オバマ氏は充分に超人であると言えるでしょう。


―――


さて、日本で目下の注目を浴びる政治家と言えば、数々の問題発言でお馴染み、
国政復帰を目指す前東京都知事の石原慎太郎氏ですね。
石原氏と言えば、「天罰」発言で被災地から猛バッシングを浴びましたが、
これもやはり、石原氏個人と深い関わりがある事をご存知でしょうか。

石原氏は日蓮宗(法華宗)の宗徒であり、弥勒山の顔役も務めています。
そして、日蓮宗と関連の深い三島由紀夫とは友達でした。
三島は自衛隊にクーデターを呼びかける演説をした後、割腹自殺しています。

日蓮宗では、「我欲」というキーワードが出てきますが、
この言葉は石原氏が天罰発言の前にしきりに口にしていた事であり、
石原氏は、自殺した三島の強靭な遺志を受け継ぎ、
我欲にまみれたとされる日本の未来を本気で憂いているように思えるのです。
ブレないという意味では、石原氏の一貫した主張は超人論だと言えます。

道場主も、失策続きの石原氏を賞賛する気はありませんが、
石原氏の背景は痛いほどに理解しています。


私たち有権者は、鷹志がケネスに密着取材した時のように、
政治家個人をもっと深く知るべきではないでしょうか。
この人はクロだからダメ、あの人はシロだからイイ、という二元論は、
敵対候補やマスコミが作り出したイメージに過ぎないはずで、
それが本当に個人を知る事であるとは言えない気もします。

私だって「仮面ライダーは子供の観るべき番組」とか言われたら、
400字詰め原稿用紙100枚分くらいの抗議文を送りつけて反論しますぜ。

かわぐち先生は、読者1人ひとりも個人を確立し、
牧羊犬のように賢くならなければならないと訴えかけているのでしょう。
 


ご清覧ありがとうございました。

【短評】『20世紀少年』 ~オトナ帝国の逆襲との共通点と「ともだち」の真の目的


しんのすけ

↑「未来」へと駆け昇るしんのすけ。


先日テレビ放送された『20世紀少年』についての考察です。
今作については、既に漫画論の上級編で取り上げていますが、
この時はシンボル哲学の教材として用いていたので、
作品の背景を「全て理解している」事を前提にした上での解説でした。

なので、今回は作品の背景について詳細に触れるのと同時に、
「ともだち」が目指した世界征服の目的に深く迫りたいと思います。


―――


まず明らかにしておきたいのは、原作・長崎尚志氏が1956年生まれ、
作者・浦沢直樹先生が1960年生まれで、共に学生闘争を経験していない、
しらけ世代」と言われたポスト団塊の世代である事です。
主人公・遠藤ケンヂらも、1959年に生まれた世代とされており、
ここが『20世紀少年』を読解する上で極めて重要な点です。

『20世紀少年』には、色んな昭和文化が登場しています。
ボーリングブーム、大阪万博、ウルトラマンなどなど。
この時代を知っている人なら誰もが懐かしむ、古き良き時代の郷愁です。

ところが、いよいよ事件が動き出す1997年の時点で、
昭和時代から地元に根付いてきた地域文化である商店街は、
ケンヂの酒屋はコンビニに、マルオの文房具屋はファンシーショップになり、
会社員のヨシツネも、社内で疎まれ窓際に追いやられてます。
38歳になったケンヂ達は、親世代から受け継いだ昭和文化を甘受し、
その後に積み上げてきたものが、バブル崩壊によって全てを手放す事になった、
敗者の世代である事がことさら強調されているのです。


今作に出てくる昭和文化は、ケンヂ達が小学生の頃に経験したものがほとんどで、
中学生になった1972年より以降の文化は、思い出としては登場しません。
そんな中でも、この年代の思い出がたった1つだけ描かれており、
それこそがT.レックスの『20th Century Boy』に代表される、第一次バンドブームです。
昭和にとってのロックとは、グループサウンズに代わる新しい文化の創造でした。
しらけ世代は、時代を突き動かす熱意を失っていると言われていますが、
ロックだけは熱の入り方が違っていたそうで、数多くのロックバンドが結成され、
80年代の音楽ブームの基礎を築いていく事となります。

ケンヂが夢見たのは、ウルトラマンのようなヒーローになる事でした。
そしてロックこそ、時代を創出するヒーローになれる自己表現の方法であり、
ギターとピックはさながら、ヒーローになる為の変身アイテムでした。
けれど、ケンヂが時代を変える事は出来ませんでした。
ちょうどこの頃は、学園ドラマの表題から"青春"の2文字が消え去った時期。
熱しやすく冷めやすいのが最近の若者ってやつです。
頭の中では理想の自分になりたいと願っても、夢に向かってひた走るなんてせず、
厳しい現実を見据えて、自分の夢に折り合いを付けていくのが、
この世代が管理社会から学んだ処世術なのだそう。

21世紀に入り、これからケンヂ達の世代が新しい文化を創出していくはずでしたが、
ケンヂは大人になってからも、現実に頭を下げる選択を余儀なくされています。
バブル崩壊後の冬の時代に取り残された人達が思い出すのは、
日本中がこの世の春を謳歌していた古き良き昭和時代の郷愁であり、
その人類の進歩と調和の象徴である太陽の塔は、
しらけ世代に強烈なモラトリアムを残す事になったという訳です。


―――


時代の背景をおさらいした所で、続いて作中でヒーローとなった、
謎の覆面男・「ともだち」の目的を明らかにしていきましょう。
これはもうズバリ、「ともだち」は20世紀を21世紀にしたくなかったのだと思います。
だから20世紀の最後となる2000年12月31日に世界を終わらせた。

道場主は昭和生まれの平成育ちですが、私から見るとごく普通の光景に見える、
大小のオフィスビルが乱立する現在の日本の街並みは、
昭和育ちの人達から見ると、とても奇異に映っているそうです。
「ともだち」の作った2015年が、現代人にはとても奇異に見えるのと同じでしょうか。
若者の街として知られる渋谷のセンター街も、昔は閑静な住宅街であったらしく、
渋谷商店会がこの場所を「バスケット通り」に名前を変えたのも、
悪いイメージを変えるというより、回帰の意味合いが強いのでしょう。

『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズが3作続けて大ヒットするなど、
時代の郷愁を誘う昭和ノスタルジーは確実に支持されていて、
この時代に特別な想いを抱く人がいかに多いかをよく表しています。
「ともだち」の狙いも、時代を進めて新たな文化価値を生み出すのではなく、
昭和に巻き戻す事によって、モラトリアムを永遠に継続させる事にありました。
ポスト団塊世代にとって、まさしくヒーローであったのです。


実はこれと同じ事をやった人が、「ともだち」より前に居るんですよ。
劇場版クレヨンしんちゃんの第9作目『オトナ帝国の逆襲』に登場した組織、
イエスタデイ・ワンスモアのリーダー、ケンとチャコです。
もちろんこの組織の名前は、1973年のカーペンターズの名曲が基になってます。


イエスタデイ・ワンスモア

↑オトナ帝国化計画を企むケンとチャコ。左の人どう見てもジョン・レノンよね。


ケンとチャコは、21世紀になった2001年に「20世紀博」を開催し、
そのシンボルタワーから昭和ノスタルジーを感じさせる匂いを発生させる事で、
古き良き時代に懐古心を抱く大人達を少年期の頃に退行させ、
未来へ進む可能性を閉じさせる、「オトナ帝国」化計画を実行します。

イエスタデイ・ワンスモアと「ともだち」にはいくつかの共通点があり、

 ・ 行動を起こしたのが21世紀になる節目の2000~2001年。
 ・ 昭和の町並みを21世紀の現代に再現した。
 ・ 再現しようとした年代が1970年の大阪万博より以前の頃である。
 ・ 自らを昭和風にオマージュしている。

などなど、行動原理が非常に似通ってますね。


しかし、ケンはしんちゃんのこの言葉に胸を打たれます。


> ケン
 だめだ。


> チャコ
 え?


> ケン
 見ろ、匂いのレベルが…。


> チャコ
 はっ…!


> ケン
 町の住人達も、あいつらを見て21世紀を生きたくなったらしい。


> チャコ
 嘘よ、嘘でしょ!? 私たちの町が、私たちを裏切ったって事!?


> ケン
 そういうことだ…。みんな今までご苦労だった。
 各自好きなようにしてくれ、外に行っても元気でな。



> チャコ
 どうして…ねぇどうして!?
 現実の未来なんて醜いだけなのに…!


> しんのすけ
 オラ、父ちゃんと母ちゃんやひまわりやシロと、もっと一緒にいたいから…。
 喧嘩したり、頭に来たりしても一緒がいいから…。

 あと、オラ、大人になりたいから…。 大人になって、
 お姉さんみたいな綺麗なお姉さんといっぱいお付き合いしたいから!



> チャコ
 …おしまいね。


> ケン
 …ああ、20世紀は終わった。

> チャコ
 私…外にはいかないわよ。


> ケン
 …わかった。

 …坊主、お前の未来…返すぞ。



……。

思い出すだけで涙がちょちょぎれますなぁ…。
20世紀博のシンボルタワーの階段をぼろぼろになりながら駆け上がり、
家族と未来を取り戻す為に、心の叫びを訴えるしんちゃんの姿。

ともあれ、ケンはこの言葉を受けた後、チャコと一緒に飛び降り自殺を図ろうとします。
しかし、その足元にたまたま鳩が巣を作っていた事と、
チャコが「死にたくない」と本心をつぶやいた事から、飛び降りを断念。
20世紀の終わりを見届けるかのように、どこかへ去っていきます。


―――


さて、ケンヂによって計画を崩壊させられた「ともだち」はどうだったでしょうか?

「ともだち」は1960年代の昭和文化を21世紀に再現しています。
それに対し、ケンヂが持ち込んだロックミュージックは1972年以降の文化です。
ケンヂはこれをラジオを使って全国に流し、支持を集めました。

つまりケンヂは、新しい文化価値の創出によって時代が前へ進んでいる事を、
西暦が終わった時代で、もう1度再現させたのです。
しんちゃんが必死で訴えた未来の可能性のように、ケンヂもまた、
20世紀の郷愁のまま止まっていたモラトリアムの時代を、
しらけ世代と呼ばれた自分達の手で、21世紀へと進める事が出来たという事です。
最終巻では表題も、『20世紀少年』から『21世紀少年』に変わってます。


伏線が回収されていないといくつも検証されている今作ですが、
作中では既に未来への暗示がなされています。

例えば「超能力」。ストーリーの中ではよく分からない設定になっていますよね。
これもやはり浦沢先生によって仕掛けがなされており、
20世紀の文化の1つとして、"象徴"化されていると思われるのです。

浦沢先生や同世代の子供達、そしてケンヂとその仲間らは、
1974年に来日したユリ・ゲラーの超能力ブームを中学生の頃に経験しています。
「ともだち」は、その後に全国で発見される事となった、
清田益章氏に代表される超能力少年の1人であった事も明かされていて、
さらに、後に側近となる万丈目胤舟のプロデュースでテレビに取り上げられ、
他の子と同様に超能力のトリックを見破られる挫折を経て、大人になってます。

これって、要するに音楽で挫折したケンヂと同じなんですよね。
「ともだち」が小学生の1960年代に起きたミステリーブームの後釜として、
1974年の超能力ブームは新たな時代を築いていくはずでした。
ところが、いんちきがバレると状況は一変し、ブームも下火になります。
超能力は、21世紀にまで残りうる文化にはなりませんでした。
前述の清田氏に至っては、21世紀になってから脱・超能力者宣言までした挙句、
その3年後には大麻譲渡の疑いで逮捕される始末です。


しかし、遠藤カンナと神永球太郎の力は「ともだち」とは違います。
この2人が使っているのは、どう見ても本物の超能力です。
カンナは「運命の子」、神永は「神様」とまで呼ばれ、神格化されています。

では、なぜカンナが「運命の子」であるのでしょうか。
それは、「ともだち」が信じていた超能力が引き起こす超常現象を、
21世紀の時代に持ち込む事が出来る存在だからでしょう。
超能力は70年代文化の象徴であり、60年代をオマージュした「ともだち」にとって、
それは唯一と言っていい自己表現の方法です。
ロックがケンヂにとっての新しい文化価値の創出であるなら、
超能力は「ともだち」にとって、新しい時代を切り開く為の力でした。
本物の超能力者であるカンナは、その存在証明であったのです。

神永球太郎の「ボウリング」も同様です。
ボウリングブームでおなじみの中山律子さんのCMは、1972年の放送です。
ケンヂ達が小学生の頃に経験した昭和文化ではありません。
つまり、ボウリングブームは神様にとっての新時代の幕開けであり、
中山律子さんの再来である小泉響子は、やはりその存在証明であるのです。

ブームの年代を押える事が出来れば、きちんと読み解けるんですな。


以下は、原作を基にした考察ですので、映画版には関係ありません。

「ともだち」=フクベエの目的は、単に昭和のモラトリアムを継続させるだけでなく、
本当はカンナを使って自分の過去を他人に認めさせる事にあったのでしょう。
60年代の町並みの再現も、その布石にすぎなかったはずなのです。

ところが、夢を手中に収める直前でヤマネに暗殺され、その後の未来を、
超能力が使えないカツマタくんに"ともだち暦"として曲解されたのが、
「ともだち」事件の背後に隠された真相ではないでしょうか。

フクベエとカツマタくんの理想が完全には反り合っていないのは、
万丈目がともだち暦以降の「ともだち」が偽者だと気付いた事からも分かります。
万丈目はフクベエが超能力少年だった過去をよく知っているのです。

もしもフクベエが生きていたら、ともだち暦は共産的な社会ではなく、
お互いの価値を認め合える理想の世界になっていたかも知れませんね。
 


ご清覧ありがとうございました。

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    ・2012年4月
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    ・2012年11月
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    ・2013年1月
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    ・2013年8月
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