漫画道場

漫画道場 漫画やアニメを学術的観点から考察・レビューします。



引っ越しました。
新ブログ「記号論研究所」を宜しくお願い致します。
URL→ http://semiotics.blog.jp/

作品短評・総評

【短評】『いいひと。』~東日本大震災からの復興

ブログネタ
3.11 東日本大震災について話そう に参加中!
いいひと。

↑被災地に笑顔が戻る日が来る。



『いいひと。』の16巻は、3月11日という忘れ得ぬ日に
再読する価値のある一冊に違いありません。
私はこれほど思いやりに溢れた本を他に知りません。

16巻のサブタイトルは「思い出にかわるまで」。
ストーリーは、主人公の北野ゆーじがいつものように異動させられ、
阪神大震災から1年半が経過した神戸に出張しに行くところから始まります。
そこでゆーじは、実際に被災した人達と、そうでない人達との間に、
心に負った傷の深さにギャップがあるのを感じ取ります。

悲しみの記憶で塗り固められた被災地・神戸を、喜びの記憶に変える為に、
ゆーじは工場建設予定地に即席の野球のグラウンドを作り、
そこで被災地の子達と野球をして、1日だけの思い出を共有します。

このグラウンドも翌日には工事が入り、壊されるのだけれど、
この時みんなで野球をした記憶は心にしまい込める。
地震で建物は壊れても、楽しかった思い出までは壊せない。

作者の高橋しんさんは、東日本大震災が起きた後、
この震災復興編をホームページ上で無償公開しました。
被災地とその周囲とのギャップを埋める為に、
被災者の心を復興をしていこうと伝えたかったのだと思います。

無償版「いいひと。」震災復興編・期間限定リリース再開です。。。しん
http://www.sinpre.com/sinpre/archives/2011/03/post_429.html



私が住んでいる長崎県では、1990年に普賢岳噴火が起きました。
私の夫は、家屋と小学校の思い出を失いました。

この噴火は島原半島全域に甚大な被害をもたらし、
地元を走っていた島原鉄道も壊滅状態になりました。
この時、島原鉄道の復興に道筋を付けたのは、文字通り、
被害状況を見る事の出来なかった、盲目の方だったそうです。
たった1人だけ、目の前に広がる絶望ではなく、
その先にある希望を言葉にし、周囲に勇気を与えたといいます。


たとえ被災地の惨状を目の当たりにしていなくても、
私達に出来る事はあるのだと、ゆーじは言っている気がします。
たとえ被災者の気持ちが100%理解する事が不可能だったとしても、
私達は希望の言葉をかけてあげる事が出来るはず。

震災から2年が経ちました。
奇しくも3日前のニュースで、福島県の子供の甲状腺検査の結果が、
青森、山梨、長崎の子供と横ばいの数値であった事が明らかになりました。
長崎でこれを調査されたのは、60年以上もの間、原爆医療に携ってこられた方。
不誠実なデータ比較を用いて詭弁を労した原発学者とは違い、
長年の苦労があってこその、この信頼置ける結果だと言えるでしょう。
これでようやく、不安と憶測が生んだ風評被害から、
被災地が開放されていく道筋が付いたのです。


最後に、東日本大震災で亡くなられた方々に、
謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り致します。



ご清覧ありがとうございました。

【短評】『キミにともだちができるまで。』~欠落したロマン主義を拾い集める物語

キミにともだちができるまで
↑非合理性と向き合ってみよう。


「Time is money(時は金なり)」という言葉があります 。
アメリカの伝説の偉人、ベンジャミン・フランクリンの言葉です。

この言葉、もともとは「Time is precious(時は大切)」が原形でした。
precious → money に言い換えたフランクリンは、
雷が電気である事をただ証明するだけではお金にならないと考え、
避雷針まで発明して財を築いちゃうほどの、アメリカ合理主義の象徴です。
お金と時間を無駄に使わないその合理精神、並大抵じゃありません。

ところが肝心のアメリカという国は、フランクリンの時代から200年、
雇用の合理化を図りすぎて経済が回らなくなり、
今度は雇用の回復に時間とお金を使うという事をやってます。
何でこんな無駄な事をやる羽目になったんでしょうか。


ひとえにこの問題は、無駄なものとして切り捨て続けてきた
非合理性の中に、実は"大切"なものがあったのではないかと言えます。
いつの時代も揺り戻しはあるもので、フランクリンより以前にも、
ヨーロッパでは啓蒙思想への反動として、ロマン主義が起こってます。
『レ・ミゼラブル』やグリム童話は、ここから生まれました。

さて今回は、アメリカ追従の日本が失った"大切"なものを教えてくれる、
保谷伸先生の2010年代ロマン主義文学漫画、
『キミにともだちができるまで。』を評してみたいと思います。


―――


いつも頭を2~3回くらい捻って考察する道場主が、
単刊について書こうと思ったのには、もちろん理由があります。

私がこの作品の事を知ったのは、ゼノンの次号予告からでした。

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モリコロス先生と保谷伸先生は、月刊コミックゼノン主催の
マンガオーディションの、第1回の受賞者のお2人。
そして作中でまさかの筆談かぶりをするという仲でいらっしゃいます。
『ガラスの仮面』と『スケバン刑事』の同時新連載くらいの衝撃。

ゼノンについては、原哲夫・北条司先生の作品が強すぎて、
「ジャンプ」的な男くさーいイメージがあるのですが、
それもそのはず、月刊ゼノンも前身の週刊コミックバンチも、
ジャンプ編集長だった堀江信彦氏が設立したコアミックスが編集し、
その会社の出資にも両先生が関わってますからね。

しかしながら、ダブル新連載で始まった新人お2人の作品は、
そんな凝り固まったイメージを覆すほどの新しさがあり、面白さがあります。
ジャンプからの支流に過ぎない、言わば北斗琉拳であったゼノンは、
生え抜きの新人先生によって、独り立ちを果たしています。

これは単行本が発売されたら両方買わなくては…


…と思っていたのですが。

我が長崎県は漫画・アニメ不毛の地。地元を題材に取り上げた
『坂道のアポロン』や『ばらかもん』は棚に置いていても、
知名度の低い普通の作品は、同県出身者ですら置かないという愛の無さ。
谷川史子先生の『清清と』を探すのにどれだけの本屋を回った事か。

ゼノンの単行本も例外ではなく、田舎の本屋さんでは、
置枠が棚1列分の端から端まで無い上に、並んでるのは原・北条作品のみ、
あれ?新刊コーナーにも無いんですけど…という状況でした。
市外にある比較的マニアックな本まで取り揃える本屋で見付け、
ようやく手にする事が出来ましたよ…ksg。


キミにともだちができるまで。

保谷先生の『キミとも。』、って略せばいいんですかね、
この作品は、無駄な時間を使う事を嫌う高校生のエリート男子が、
類稀なる好奇心を持つ女子高生に惹かれて…ではなく、
筆談で会話をする失声症の男の子の友達作りを手伝いながら、
"大切"なものを思い出していくお話です。


―――


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この作品では、スマートフォンを合理性の象徴として、
主人公の高校生・鷹司清之助に常備させています。
単行本の表紙でも手にしてますし、巻頭のカラー扉でもぶら下げてます。
モデルはdocomoの初代GALAXY Sでしょうか、
マルチタスク機能の付いたハイエンドモデルのようです。

清之助はスマホ画面に表示される時間をいつも気をかけ、
手紙でなくアドレスデータをやり取りし、ストラップを付けられるのを嫌がります。

「人生は有限だ」
「何事も限られた時間をどれだけ有意義に活用できるかで勝敗は決まる」
「だから僕は無駄がキライだ」


と、のっけからタイムスタディ節が全開です。

自分がハイエンドな人間であると自覚し、マルチな才能を発揮する為に、
メモリを無駄に割いて処理速度を落とす事を何より嫌い、
東に困ってるおばあちゃんがあれば、黙って素通りし、
西にあいさつ運動をする風紀委員があれば、面倒だと口にします。


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そんな清之助が出会ったのが、母親を亡くして失声症になってしまった、
人見知りな小学1年生の男の子・従弟の龍太郎くん。

この男の子を象徴するアイテムが、筆談帳です。
龍太郎くんは人前に立つと、極度の緊張で喉の奥が硬直し、声が出せません。
ただ言葉に発するだけでも普通の人の何倍も努力を強いられます。
作中では筆談による会話が1コマの中で成立してますが、
現実ではもちろんそんな事はありません。書き留める為の時間を使います。

予測変換が出来るスマートフォンと、1文字ずつ手書きの筆談帳。
清之助から見れば龍太郎くんは、非合理性のかたまりに見えるでしょう。
『キミとも。』はこのように、合理性と非合理性の対比が描かれており、
"大切"なのはどちらであるかを自ずと考えさせてくれます。
文学作品と同じストーリー構成というか、これ完全に文学ですよ。


中でも、キャッチボールの回の描写が秀逸でした。
平行に引かれた2本の白線の外側からお互いに投げ返すルールの下で、
龍太郎くんが投げたボールは、友達には届きません。
それを見た清之助は白線を越え、龍太郎くんの目の前まで近付き、
ボールをポロっと投げ渡し、龍太郎くんはそれをキャッチします。

「こんなに近すぎたらキャッチボールの意味が…」という合理的主張に対し、

「距離は違ってもキャッチボールはキャッチボール」
「ボールのやりとりが出来たのは変わらないだろ」
、と清之助。

キャッチボールは人と人との対話によく例えられますが、
この場合も、失声症というハンディキャップを抱えた社会的弱者と、
いかにして対話を成立させるかの暗示にもなっていて、
龍太郎くんの言葉が周囲に届いていない状況の中で、相手と真剣に向き合い、
こちらから距離を縮める事の重要性を説いています。


キャッチボールの相手が、吹き出すくらいに無愛想に描かれた子だったり、
また後にその子との友情が爽やかに築かれていったりと、
非合理性との対比の中から、決して切り捨てる事の出来ない、
人付き合いにかかる精一杯の努力を拾っていく演出が実に見事です。

嘘みたいだろ…この話を書いてるの、まだ20歳なんだぜ…?
漫画が無かった頃の時代なら、保谷先生は文学作家にもなれたはずです。


―――


現在のジャンプは、新人育成に苦労しています。

人気を支える看板作品の連載が始まったのが、『ONE PIECE』が1997年、
『HUNTER×HUNTER』が98年、『NARUTO』が99年であり、
次世代の看板作品である『トリコ』が08年に連載開始するまでに、
10年という長い歳月を要している状況です。


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↑ジャンプは新人作家の打ち切り率が高い。
(引用:倩 ジャンプの新連載打ち切り率について 完全版



原因は、経営の合理化にあると思います。
99年~08年までの空白の間に、話の書ける作家さんを切り過ぎている。

例えば『BOY』の梅澤春人先生ですね。
02年に『SWORD BREAKER』を、04年に『LIVE』を連載されてますが、
刊行数は2巻、1巻と、いずれも短期打ち切りとなっています。
が、両作品は文学的な試みが用いられた実験作であり、
梅澤先生の新しい挑戦に向けた意欲が感じられる内容なのです。

その後、梅澤先生はヤングジャンプに移籍されました。
同様の憂き目に合ったベテラン先生方も同じ道を辿られます。
新人作家は特に打ち切り率が高かったので、それを恐れて人気作を模倣し、
独自性と新しさを兼ね備えた後進も、軒並み他誌でデビューしていきました。
キャラクター作りの上手い作家さんだけが人気を得ていく、
読者アンケートを重視し過ぎたんでしょうね。

合理的な経営判断は誠に正しいとは思いますが、『キミとも。』のように
構成・演出に秀でた作品が、北斗宗家であるジャンプではなく、
支流であるゼノンから生まれるのは、切り捨てられた非合理性の中に、
お金に換えられない価値が含まれていた事を意味しています。
人気作の再構築・再生産を繰り返した結果、特定の読者層しか訴求できず、
漫画業界の市場縮小につながった事からも分かります。
日本が追従してきたアメリカ合理主義は、絶対ではないのです。


『キミとも。』の第4話には、清之助の台詞として、
フランスの文学者・ロシュフコーの『箴言集』から引用がありますが、
そのフランスでは、彼の皮肉の利いた人間観察力が、
後のロマン主義文学を開いた作家に受け継がれています。
ロマン主義は、専制政治によって抑圧されてきた人間性を呼び起こし、
"大切"なものの在り処をヨーロッパ中に示しました。

本屋にすらまともに取り揃えられないゼノンという支流には、
経営判断の中で切り捨てられてきた、"大切"なものがあると思います。
そしてそれは決して古めかしい骨董品などではなく、
これからの市場を切り開く力を持った、新しい価値観です。

『キミとも。』は、北斗劉家の血を継承しながらも、
ゼノン新人作家の中心に立ち、新しい価値の奔流となっています。
スマートな清之助と、不器用な龍太郎の親交は、
経営の合理化が進められる現代社会の縮図となっており、
その反動として、深い優しさと大きな愛情を感じる事が出来ます。
こんな作品は『いいひと。』以来でしょうか。


現代に蘇ったロマン主義文学の傑作、これを読めばきっと、
忘れかけていた心を思い出させてくれるでしょう。

うむ、良作の血は何としても守らなければなりません。
長崎の本屋さーん。そがんあっとですよー。



ご清覧ありがとうございました。

【短評】『たまこまーけっと』~奇術師たまこが形象する"夢の商店街"


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↑オープニング曲でのたまこは、なぜマジシャンの格好なのか?


『たまこまーけっと』というアニメが人気らしい。

らしい、というのは、これまで観た事が無かったからです。
ウチの地区じゃアニメの深夜放送が無い為、
ちょっと観てみようかなという習慣が生活に組み込まれてません…。

アニ友さん達が上げる視聴感想は覗かせてもらってるので、
最近のトレンドがどういった作品にあるのかは知りえてるんですが、
それにしても、『たまこま』 の感想から得られる情報には、
言いようの無い違和感があるのを、第1話から感じていました。

こう、何て言うか、『エヴァ』や最近の宮崎アニメを観た後のような違和感。
釈然としないのに話だけがどんどん進んでる感覚が、
映像を観てもいない私でも、アンテナにびんびん伝わってくるのです。

この違和感は、第2話の感想でより強くなりました。
ヲタブロ : たまこまーけっと 第2話「恋の花咲くバレンタイン」レビュー・感想


『たまこま』には、何かある。

そう確信して、何とか視聴する方法を探してみたところ、
おお…ネット配信されてるじゃないですか。しかも公式で (*´∀`人)
これはもう観るしかないな…神が私にそう告げている。


という訳で、当道場では初となる深夜アニメの考察を、
『たまこま』の違和感の謎を解き明かすべくやってみたいと思います。
第2話までに分かった事を踏まえて掘り進めますが、
この謎の答えが導かれた時、果たしてどんな視点が生まれるのでしょうか。


―――


まずは、違和感のいきさつについて纏めてみます。

『たまこま』の舞台となるのは、「うさぎ山商店街」なるアーケードですね。
昔ながらのお店が軒を連ねていて、古き良き伝統が守られてます。
が、昔ながらのお店に居るはずの店主に、なぜかレトロ臭が一切しないのです。
町内の人はアーケードで買い物を済ませ、外れにある銭湯に通うなど、
時代錯誤な描写が至る所で散見されるにも関わらず、です。

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↑ありえないその(1) 神田川…です。

資本の統廃合が進められる中で、保守的な働きかけを全くせずに、
アーケードの姿を存続させている事は"ありえない"ですし、
それとは逆に、耳にピアス穴を空け、折り畳み携帯を駆使する兄ちゃん達が、
積極的に町内会に参加してるのも"ありえない"です。
『ちびまる子ちゃん』の時代ですら、町内会という枠組みが嫌だったと、
まる子が盆踊りに参加する回で語られてますし。

しゃべる鳥はそんな"ありえない"の代表選手に過ぎません。
唯一、たまやの人達だけが、隣のライスケーキ屋なる店にツッコミを入れ、
「あんこ」と付けられた安直な名前を嫌がってます。
ピアスの兄ちゃんも「もち蔵」とかいう名前に疑問を持つべきだよね。

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↑ありえないその(2) お前の事だよ。

で、この"ありえない"の中心に居るのが、主人公の北白川たまこです。
高校のバトン部の友達と仲良く楽しくやってる普通の女の子が、
隣のピアス兄ちゃんと携帯ではなく糸電話で会話し、
商店街のPR活動には友達も巻き込み、率先してこなすのです。
誕生日になれば町中の人が「今年こそは」とお祝いに駆けつけます。

町の人達と仲良しな所を強調するのは、それはつまり、
桜高軽音部のような纏まりを町内の人に持たせてるという事です。
京都アニメーション制作の従来のアニメ作品では、
ごく親しい身内同士の親交だけが強調されてきましたが、
コミュニティ規模が町全体に広がったのは初めてだと思います。

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↑ありえないその(3) 町の人達との距離が近すぎる。


『たまこま』はこのように、"ありえない"描写を積み重ねているようで、
背景に何らかの意図が働いていると思えるのです。
町内会の枠組みがいかにもわざとらしく作られすぎている。
『gu-guガンモ』のような鳥との心温まる交流の話でもなさそうですし、
かと言って商店街の傾陽をどうにか救う話でもありません。
そして単なる日常風景を模した話でもない。
うさぎ町商店街という空間を、実際に図面を引いたかのごとく、
全て計算尽くで作られてるような気がするんですよね。

これまで背景構造を明確に意図した作品は無かったと思いますから、
そこには必ず、何か別の目的があるはずなんです。
私はその何かに違和感を覚え、考察に至ったという訳です。


―――


現実にありそうで"ありえない"うさぎ山商店街ですが、
ではなぜ、"ありえない"ほど仲良しな様子が描かれているのでしょうか。

ドイツの思想家、ヴァルター・ベンヤミンという人は、
パサージュ論』の中で、19世紀のパリに実在したアーケード街を、
「街路を遊歩する事で、室内に彩られた歴史を幻視できる空間」と定義し、
街路と室内が分離したデパートと比較しています。
歴史性というのがポイントで、アーケードを遊歩する人達は、
時代を形象してきた店々によって、過去に連なる夢を見ているというのです。


町の伝統を象徴する餅屋・たまやの異端児であるたまこは、
昔ながらの商店街に自然と溶け込んでいます。
たまこのゆるーい空気に町中が染め上げられているかのようですが、
町の人達からレトロ臭がしないのは、これを視聴するユーザーが、
たまこの視点から商店街を見ているからだと思われます。

ユーザーから見たたまこは、学校に通い、友達と部活に励むなど、
日常を描写した従来の作品の延長線上にありますが、
うさぎ山商店街は、たまこにとっては日常の一部と言えども、
外から見たユーザーにとっては"ありえない"くらいの異空間です。
町の人達があれほど仲良しに描かれるのは、
そこが古き良きの時代を形象している空間である事を、
見ている人に伝える為ではないでしょうか。

つまり、ユーザーはうさぎ山商店街に紛れ込んできた遊歩者であり、
私達は夢の中に映し出された街路をぶらぶら散策しながら、
たまこの視点を通じて、形象化された商店街のかつての姿を見てるのでしょう。


『たまこま』はこの構造を作為的に生み出しているようで、
しかもそれはベンヤミンの理論が基になっていると思われます。

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↑楽しい空間に引き連れられる町の人達。

例えばオープニングでは、たまこがマジシャンの格好をして、
シルクハットから鳥を出し、町の人達を引き連れてマーチ行進してます。
しゃべる鳥はたまこが生み出したマジック=奇術であり、
夢の商店街も全てマジックで形象したものだと言わんばかりです。
ユーザーも行進の後に付いて夢の世界へ連行されてるに違いありません。
もう鳥を頭に乗せて歩くなんか、普通に見えてしまいます。

ベンヤミンはアーケード街に映し出される夢の空間を、
ファンタスマゴリー(映像機で映し出された幻)と名付けてますが、
興味深い事にあの鳥は時々、目から光を投射して、
元の飼い主?である王子と故郷の映像を出力してますよね。
色んな所でベンヤミンと符号するのが私、気になります。


―――


さて、ここまで書いておきながらぶっちゃけますが、
文中で解き明かした謎は全て仮定によるこじつけに過ぎません。
定期的にやってる平成仮面ライダーの学術的考察も、
10年以上続けてきたからこそ、私自身も納得しています。

なのでこれからは毎回、京アニ作品をガチで考察していきましょうかね。
もしかしたら先行した『氷菓』や『中二病でも恋がしたい!』でも、
既にこういった学術的背景が用いられてるかも知れません。


私は深夜アニメについて考えた事はありませんが、
今後はDVDでも借りて、深夜デビューしていこうと思います。



ご清覧ありがとうございました。

【短評】『ハウルの動く城』~ソフィーにかけられた2つの魔法


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↑飾らない美しさが、心にはある。


ジブリ映画考察の第4回は、2004年公開の『ハウルの動く城』です。

【ジブリ考察シリーズ】
 第1回 『千と千尋の神隠し』
 第2回 『火垂るの墓』
 第3回 『崖の上のポニョ』


宮崎駿作品は、『もののけ姫』以降で変革が起きました。
どこらへんが変わったのかを読み解くには、これより以前の作品、
つまり『紅の豚』を掘り下げて考える必要があります。
監督はこの作品を「作るべきではなかった」と反省の弁を述べられ、
「次作で決着を付ける」と決意を新たにされています。

宮崎作品は豚を醜く汚いものの象徴にしてますが、
『紅の豚』では、豚になる魔法を自身にかけた飛行機乗り・ポルコを、
ニヒルな賞金稼ぎとしてかっこよく描いてます。
ポルコが豚になったのは、人間としての暮らしが嫌になった為で、
豚になった苦悩も無ければ、周囲への偏執も無く、
最後にはフィオのキスで元の人間の姿に戻っています。

『もののけ姫』や『千と千尋』は、『紅の豚』では触れなかった
生きる苦悩や偏執を描こうとしたに違いありません。
ゆえに、アシタカや千尋にかけられた呪術に"意味"を持たせています。
タタリガミの呪いは、死の運命に向き合いながら
生きる道を選んでいくアシタカの生と死の二面性を描き出しており、
そして湯婆婆の呪いは、生きる事に背を向けた千尋の心に、
もう1度前を向いて歩みを進める機会を与えています。


『ハウル』も、変革のあった後期作品に位置します。

 '84 風の谷のナウシカ
 '86 天空の城ラピュタ
 '88 となりのトトロ
 '89 魔女の宅急便
 '92 紅の豚

 '97 もののけ姫
 '01 千と千尋の神隠し
 '04 ハウルの動く城  ← ココ
 '08 崖の上のポニョ

この作品にもやはり、魔法をかけられ姿を変えた主人公として、
90歳のおばあちゃんになったソフィーが登場しますが、
豚になったポルコとは、その経緯も、その意味も、明らかに異なりますよね。

では、ソフィーにかけられた魔法の意味とはいったい何なのか。
今回はこれを詳細に追ってみたいと思います。


―――


まず、ストーリーを整理してみましょう。『ハウル』には、
ソフィー以外にも姿を変えている人や物がたくさん出てきます。

ハウルの動く城


空を飛んだり透明になったりする魔法もいくつか見られはするんですが、
作中で描かれている魔法は、基本的に姿を変えるものが多く、
ハウルも敵を倒すのに、妖力を使ったり、光線を出したりしません。
黒い鳥に化けて、肉弾戦のみで戦ってます。

ここから魔法の定義を考察すると、ポルコが豚の姿になったように、
自分の心の姿を写し取る為に用いられると考えられます。
ハウルの金髪姿や、マルクルの大人ぶった姿、荒野の魔女のマダム然とした姿も、
元来の姿を否定し、心の中の願望の姿を肯定した結果であると言えます。


さてこの姿を変える魔法、使っているのは主にハウルと荒野の魔女です。 
ハウルは悪魔・カルシファーと契約によって力を得ています。
カルシファーが「ソフィーの目をくれるかい?」と何気に怖い台詞を言ってる事から、
どうやらハウルの魔法は等価交換が求められる西洋黒魔術のようです。
より強大な力を求めてハウルの心臓を狙う荒野の魔女も、
サリマン先生によると「悪魔と取引をして身も心も食い尽くされた」との事。
そう言えば魔女って悪魔と姦通するんですっけ…((((;゚Д゚))))ブルブル

となると、この2人が変身魔法を使うには何かしらの代償が必要になりますよね。
ハウルの場合はズバリ、若い女性の心臓が。
町の噂によれば「南町のマーサって子」が犠牲者らしいのですが、
これ、カルシファーが具体的な供物を要求してるとなると、
物の例えでなく本当に心臓を食べられてるという可能性もありますけど、
おそらく心臓=心を意味していると考えるのが妥当であると思います。

では、荒野の魔女はいったい何を代償にしたのでしょうか。
これは仮定に過ぎませんが、元々の姿がよぼよぼのお婆ちゃんであった事や、
若くて良い男に執着を見せている事から察すれば、男にモテる為に、
ソフィーの「若さ」を吸い取って、自分のものにしているのだと思われます。


ではでは、なぜ荒野の魔女の呪いの魔法を受けたはずのソフィーが、
自意識に応じて若返ったり老いたりを繰り返しているのか。
ポルコやアシタカや千尋にかけられた呪いは、勝手に解けたりはしませんし、
自力で何とか出来るような容易なものでもありません。

ここから得られる答えは、ただ1つ―

ソフィーは荒野の魔女からお婆ちゃんの姿に変えられるより前に、
ハウルによって強大な魔法をかけられてしまっているからです。
ハートズッキュン、心を奪う、恋の魔法を。


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↑奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です(キリッ


ソフィーはハウルと空中遊泳をした時に、魔法にかけられたと思われます。
「どうせ私なんて」と自分を否定する暗示の鍵が外れ、
心だけが恋しちゃってもいいじゃないモードに変身しているのです。

荒地の魔女がかけた呪いの力で肉体が老いても、心は18歳のままである為、
ソフィーが心のままを表した時はハウルの力に天秤が傾いて若返り、
逆にソフィーが心を否定した時は、荒地の魔女の力に傾き、
心身ともに老人の姿に近付くという、実にややこしい事になっています。

この複雑に揺れ動く天秤模様は、ソフィーの心理状態をよく描き出しており、
外見にとらわれない心の美しさを90歳のお婆ちゃんに投影し、
死の呪いをかけられたアシタカや、 名前を奪われた千尋と同じように、
今作のテーマに直結する"意味"を持たせています。


―――


ここからはストーリー考察です。

物語が佳境に入ると、ハウルは「守らなければならないものが出来た」と告げ、
悪魔の力とさらに同化し、国王軍との戦争に加担します。

ハウルは金髪から黒髪に戻ってしまった自分の姿に、
「美しくなかったら生きていたって仕方がない」と絶望してますが、
ソフィーに励まされてからは、黒髪の自分を肯定しています。
心の向くままに生きるのに、もう変身なんてしなくてよかったはずなんです。

ですがハウルは再び変身しちゃいました。ハウルが花畑の中で誓った、
「ソフィー達が安心して暮らせる」夢のような生活を続けるには、
本物の悪魔へと身をやつし、外敵を排除しなければならなかったからですね。
前述の通り、変身魔法は心の願望を肯定した姿です。
ハウルはソフィーを守る為に、デビルマンに変身したのです!


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↑悪魔になります。


ソフィーはハウルの身を案じ、「あの人は弱虫が良いの」と言って、
カルシファーとの契約の秘密を突きとめ、ハウルの心臓を元に戻します。
悪魔となってしまったハウルに、人間の心を戻したという意味でしょう。


で、これと同時にもう1人、変身魔法が解けた人が居ますよね。
かかしのカブ頭にされていた、隣国の王子です。
いったい誰がこの王子をカブ頭にしてたのか、疑問が残りますが、
おそらく王国側の都合で隣国との戦争を誘発する為、
サリマン先生が王子をかかしに変えていたと思われます。

宮崎監督は、『ナウシカ』の頃から"非戦"を訴え続けています。
監督のメッセージは、2人の変身が解けた事で成就されているのです。
これで話はめでたしめでたし…


と思いきや、最後の疑問がまだ解消されていません。
ソフィーの魔法ってどうなったの?

ソフィーの姿は、ハウルが悪魔と同化し戦地に飛び立って以降、
髪は銀髪のままですが、1度も老化していません。
要するに心の天秤がハウルの方に傾きっぱなしになっているという事ですが、
ソフィーにかかっていた2つの魔法は、解けていないんです。

これは、ハウルがソフィーの銀髪を肯定してくれたからに他なりません。
ハウルの黒髪をソフィーが肯定してくれた時のように、
お互いがお互いの本当の姿を、心から認め合っている。
まさに、サリマン先生の言った「ハッピーエンド」という訳ですね。


―――


原作には、ソフィーも命を吹き込む魔法を使える、という設定があるようです。
どうかカルシファーが千年も生き、ハウルが心を取り戻しますように
というソフィーの台詞が、実は魔法の呪文だったというのです。

宮崎監督が原作の設定に必ずしも忠実では無いので、
道場主としてはこういった考えを否定していますが、
心臓=心を失ったハウルに、ソフィーが新しい命を与えるという、
また違った解釈の仕方も出来るので、面白いですね。

引用:ハウルの動く城の謎の分析と解釈


そして、原作の設定に準拠していると仮定した場合、
ハウルがソフィーに惹かれた本当の理由も明らかになります。

ソフィーがカルシファーとの契約内容を知るべく、ハウルの過去を覗いた時、
私はソフィー、待ってて、私、きっと行くから、未来で待ってて!
と、子供の頃のハウルに必死で叫んでいますよね。

もしもこれが魔法の呪文であったとしたら?
そう、幼いハウルも、ソフィーに魔法をかけられているんです。
心を奪う、恋の魔法。ハウルとソフィーは最初から相思相愛だったんです。
だからこそ、何も無かった草原を花畑でいっぱいにして、
何年もずっとソフィーを待っていた、という事になるんでしょうね。

ハウルの心情は1番最初の台詞に現れてます。
「やぁごめんごめん、探したよ」、とっても深い意味になります。


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↑ハウルはずっと待っていた。


今年2013年は、宮崎監督の待望の新作、『風立ちぬ』が公開されます。
堀辰雄の同名の作品のプロットを下地にした、
ゼロ戦の設計者である実在の航空技師・堀越二郎のお話だそうで、
つまりこれもまた戦火の愛を描いた作品になるっぽいです。

『ハウル』では暈されてきた戦争描写が克明になるはずで、
ファンタジーを主体とした作品を残されてきた監督が、
実際に起きた太平洋戦争という題材を、どのように変身させるのか。
『ハウル』が大好きな道場主は、とっても期待しています。

未来で待ってます。
 


ご清覧ありがとうございました。

【短評】『仮面ライダー555』考察~心の影(シャドウ)とライダーという仮面性(ペルソナ)

平成仮面ライダーシリーズ考察の第2回目は、
『仮面ライダー555』(2003年1月26日~2004年1月18日放送)です。
555ロゴ
【平成仮面ライダーシリーズの考察記事】
 総論 龍騎 フォーゼ 
ウィザード


『クウガ』と『アギト』で新たな視聴者層を獲得した同シリーズは、
龍騎』から実験として学術的な理論を背景にする事が試みられたようで、
ストーリーの謎が深まり、さらなる進化を遂げました。
ですが、背景が難解すぎた事、主人公が空気だった事が、
全てを白紙化したラストシーンにつながり、賛否を呼びました。

『555』では、前作で得られた成功と反省点を土台としたと見られ、
天才哲学者のカール・G・ユングによって一般化されたペルソナ理論を、 
夢を持たない主人公の行路として設定した事で、
ストーリー背景を文字通り主人公のバックボーンとして機能させ、
揺れ動く心理状態を経て、「夢」というテーマに繋げています。


―――


本作は、道場主が初めて平成ライダーの奥深さを知った作品なんですよね。
きっかけは第4話「おれの名前」で、とあるシーンが引っかかった事でした。
世界中の人の心を真っ白にしたい夢を持つ菊池啓太郎がファイズに変身出来ず、
啓太郎からベルトを取り上げたサボテンの怪人が変身しちゃった。

第1話「旅の始まり」でも、美容師の夢を持っている園田真理が変身出来ず、
何の夢もない主人公の乾巧が変身するという疑問が提示されており、
この対比はいったい何を表しているのかと考えたのですが、
たまたま偶然、私はこの答えを開く鍵を、既に持っていたのです。

私は放送前年の2002年、紫綬褒章を授章された坂部恵氏の影響で、
アトラスの名作RPG『女神異聞録ペルソナ』を、この時まさにプレイ中でした。
このゲームは言うまでもなく、ユングのペルソナ理論を基にしてます。
おかげで、難解な学論が物語解釈に適用可能な事をあらかじめ知りえていた為、
『555』との間に、"夢"と"仮面"という2つの共通点を見つける事が出来ました。

ライダー=仮面(ペルソナと定義した場合、啓太郎や真理は、
夢という仮面を最初から付けているから、仮面ライダーに変身出来ないのでは?
という推測が、巧との対比によって生まれます。
名作ゲームから着想を得た事で、私はこれ以降、平成仮面ライダーシリーズを
1つの文学として捉え、文学的な解釈を持ち込む事にしました。


『女神転生』というゲームについて補足解説しておくと、
同シリーズは伝統的に哲学の考え方が世界観に組み込まれているようで、
例えば、これまた名作と名高い『真・女神転生3』では、
デカルトの渦動説を基にしたと思われるボルテクス界が登場します。
ゲーム内容もいかにも「我思う、ゆえに我あり」っぽいですね。

ペルソナシリーズはより分かりやすく、夢や願望という仮面を
もう1人の人格(パーソナリティ)に見立て、
主人公とその仲間の成長を見事に描ききっています。

そんなゲームにどハマりしてる中で始まった『555』の放送でしたが、
第13話「敵か味方か」にて、2号ライダーである草加雅人が登場した事で、
ただの符号の一致に過ぎなかった推測が、いよいよ確信へと変わっていきました。


―――


『555』では、人間の深層意識の表層化という形で、
オルフェノク=影人間(シャドウに見立てていると思われます。
この時、もともと表層意識にあった人間の姿の方が影になっちゃってます。


ホースオルフェノク

↑表層化したホースオルフェノクと、深層化した木場勇治。


ユング心理学においては、人間の無意識の中にある「こうありたい」という願望が、
理想の自分を演じる為の仮面(ペルソナ)となるとされています。
真理と啓太郎は、理想の自分を持っています。

逆に、「こうありたくない」と拒絶した自分は、影(シャドウ)となって
無意識の中に残り、他者への嫌悪感として投影されるそうです。
木場勇治や長田結花が他人に向ける憎悪がこれに当たるんでしょうね。

つまりオルフェノク化とは、深層意識の中に閉じ込めている
拒絶すべき自分の弱い心が剥き出しになってる状態を表している
と見られ、
普通の人が演じるかっこいい自分=ペルソナを取り外しているから、
ライダーという仮面を付ける事が出来るのだと推察されます。

オルフェノクは動物の力を備え、人間より五感に優れるという設定になってます。
これが上手い伏線にもなっていて、木場がやたら目が良くなったように、
巧の猫舌は、オルフェノクである事の暗示になってるんですよね。
井上敏樹脚本はこういう伏線の張り方が実に面白いです。
ただ『カブト』の料理設定は…うん、まぁ、別の機会に回しましょう。


では、人間なのに仮面ライダーに変身出来る草加雅人はどう解釈すべきか?


草加雅人

↑これも乾巧って奴の仕業なんだ…悪い顔してます。


草加の場合、優等生の仮面を付けて本当の自分を隠しています。
しかし、自分のドス黒い感情も抑圧しきれずにいる。
オルフェノクと同様に、やっぱりシャドウが表層化している状態です。
即ち、優等生とライダーという2つの仮面の付け換えが出来る、
自分を演じ分けられる賢い人間である、と解釈出来ます。

こやつ…なかなか出来おる!


草加は真理の事を、「母親になってくれるかも知れない存在」だと言ってます。
この心理状態をユングの深層心理学の観点から分析すると、
草加の心の中では無意識のうちに理想の女性像(アニマ)が働いていて、
これが理想の母親像(グランドマザー)と一致している。

草加の深層意識に棲んでいるのは、善悪のせめぎ合いです。
心理学用語の「社会的ジレンマ」に陥ってると言えます。
他人に良く思われたい感情と、他人を支配したい負の感情が渦巻いていて、
それは過去に受けていたいじめ体験に結びついています。
いじめから庇ってくれた真理は、シャドウから逃れる為の救いの手であり、
実は草加は、自分の弱い心を追い出したかったんじゃないかと思います。


ちょうどこれ、ジブリ映画の『ゲド戦記』とよく似ていて、
こちらは主人公・アレンが理想の父親像(オールドワイズマン)である父親を殺し、
もう1人の自分であるシャドウを生んでしまった、というお話でしたね。
この映画を作った宮崎吾朗監督が、父親である宮崎駿氏に抱いていた
エディプス・コンプレックスを克服するお話でもあります。


―――


ペルソナ理論を背景に据えた時、『555』の謎もすんなり飲み込めます。
まず、オルフェノクの王とは何ぞや?という疑問。

オルフェノクの王は、滅び行く運命にあるオルフェノクに永遠の命を授け、
完璧な生命体へと進化させる力を持つとされていますね。
果たしてこれはどういう事か、再びユング心理学を当てはめてみると、
オルフェノク=シャドウであるとした場合、心の影が永遠になるというのは、
自分を包み隠さず、本能のあるがまま利己的に生きられる事を意味しています。
個人として非常に合理性のある、理想の生き方に違いありません。

敵の幹部であるラッキークローバーの1人・影山冴子は、
覚醒したオルフェノクの王の前に、永遠の命を乞い出ます。
ここで注目すべきは、ロブスターオルフェノクの肉体が王が放つ光に包まれた後、
人間として残されていた影山さんの影の部分が消失している
事です。


ロブスターオルフェノク

↑影山さん(人間の部分)の影が消えていく。


オルフェノクの王は、人間の心の影に対する光であり、
「こうありたくない」と抑圧している弱い部分を消し去ってくれていると考えられます。
つまり残されるのは「こうありたい」と願う理想の自分のみで、
確かに何ひとつ悩まなくていい、個人として完璧な生命体になっているのです。


そしてもう1つ、「夢」の終着点について。
オルフェノクの王の圧倒的な力に対し、巧たち人間の選んだ道は、
心の弱さを抱えたまま、人間らしく生きる事でした。

「弱さに負けない夢を持ってほしい」
「卵を抱くようにして暖めれば必ず夢は叶うのさ」

という、モノローグ的な台詞が意味するのは、
社会という集合体の中で自分の個性を見出せずに苦しみながらも、
しっかりと弱さと向き合い、打ち勝つ強さを得ようというメッセージにも聞こえます。
 

ところで、永遠の命を得た影山さんはどうしたかというと、
人間に倒された王の亡骸を何かの培養液みたいなのに漬けて、
 
「あなたは死なない、きっと蘇る、きっと」

なんと、完璧な生命体になったはずのオルフェノクが、
まるで人間のような「夢」を持ったんですよね!


ラストシーンは、ずっと夢を持てなかった巧が、

「俺にも、ようやく夢が出来た」
「世界中の洗濯物が真っ白になるみたいに、皆が幸せになれますように、ってな」

 
と、〆てエンド。


この最終回が表す意味はとても平易で、すんなりと腑に落ちます。
しかし裏では、草加の苦悩の原因だった社会的ジレンマの克服、すなわち、
個人の合理性と社会の合理性の合一が果たされた事が、
オルフェノクだった海堂直也、琢磨逸郎らの行動で暗示されており、
こうした不言のロジックが背景でずーっと積み上げられてきたからこそ、
たった1つのメッセージだけで伝わるようになってるんですな。

ううむ…非の打ち所の無いストーリー構成です。


―――


物理学をベースにしたと思われる前作、『龍騎』と比較すると、
心理学がベースになっている『555』のストーリーは、
心理描写と非常によくマッチしていて、大変に分かりやすかっただろうと思います。
どちらが優れているのかを決めるものではありませんが、
『555』の場合、既に哲学の域にまで落とし込まれている理論を採用した事が、
傑作と言われる大きな要因となっている
と道場主は結論付けます。

たまたまこじつけが当てはまっている、とも取れますが、
こういった解釈が12年も継続して可能である事を考えれば、
偶然ではなく、狙って作られていると思ってます。

おそらく、脚本家の方が自力で捻りだしているのではなく、
配給会社の東映か、制作に携わるテレビ朝日のどちらかが、
企画会議で毎年フォーマットをこしらえて、脚本を依頼してるのでしょう。
藤林聖子さんの歌詞がお話と妙に符号するのも、たぶんこれが理由。


さて、次回は『仮面ライダー剣』の短評になります。
『555』で成功を収めた平成シリーズが、なぜスベってしまったのか、
これまた学術的解釈で解説していきましょう。
 


ご清覧ありがとうございました。

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    ・2012年4月
     LivedoorBlog開設
    ・2012年11月
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    ・2013年1月
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    ・2013年8月
     火垂るの墓の考察記事が検索1位に

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