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【オタク論】

【オタク論】(3) 自己自身である事


エヴァンゲリオン

↑シンジの心象風景。他人に引かれた"レールの上"を走る。


『エヴァ』はなぜヒットしたのか? 
これまでさんざん語られてきた事だ。 

ある大手新聞社は、オウム事件や阪神大震災によって 
人と人との繋がりを求める人が増えたからだと理由を後付けしたが、 
当然ながらそんな表面的な理由であるはずが無い。 

『エヴァ』は、監督・庵野秀明という人物そのままが表されていて、 
アニオタがそれを100%理解したというのが、ここで挙げる理由である。 


―――


3月のライオン』の回で説明したように、『エヴァ』はとても分かりにくい。 
解釈項の中に、心理学や実存哲学などの難解なステップが混じっていて、 
しかもそれが作品の中にきちんと落とし込まれずに、 
難解な状態のままテーマとして放り出されているからだ。 

この傾向が見られるようになったのが、予算の問題で 
スタッフが大幅に入れ替えられた第16話「死に至る病、そして」から。 
主人公の「碇シンジ」くんが使徒の虚数空間に取り込まれ、 
精神世界の中でもう1人の自分と自問自答する回である。 
これを境に、物語は心象的なものへと展開していく事となる。 

制作会社のガイナックスは、この頃はまだ小さな会社で、 
『ふしぎの海のナディア』の頃から予算に苦しめられていた。 
『ナディア』は湾岸戦争勃発で放送が中断、NHKから追加予算が出るなど、 
制作時間とお金に余裕が生まれた事で何とかクオリティを維持できたが、 
『エヴァ』の時にはそんな偶然は起きなかった。 
第16話以降、制作現場は破綻し、クオリティは著しく後退した。 
例の最終2話のプロットもこの時期に完成している。 

庵野監督は『エヴァ』を自分の心象風景を描いた作品であると述べ、 
宮崎駿の『紅の豚』を「パンツを脱いでいない」として批判しているが、 
庵野監督にとってのパンツを脱いだ状態=オナニー・ショウが、 
つまりは第16話以降の「シンジ」くんであると言えよう。 
予算が底を突いた事で表現方法が変化し、少ないセル枚数ながらも 
核心を避けて思わせぶりなキーワードを散りばめ、 
その他の説明を一切せずに視聴者の想像に委ねるようになった。 
これによって、深淵さが演出され、世界観が強調された。 

※ キャラクターデザインを担当した貞本義行の漫画版『エヴァ』では、 
  こうした表現は用いられず、第16話の部分もオールカットされている。 


『エヴァ』は理解の有意水準を越えた難解なものであったが、 
『宇宙戦艦ヤマト』から『機動戦士ガンダム』まで、 
ありとあらゆるアニメを享受してきたアニオタにとって、 
『エヴァ』を理解不能と結論付けるのは矜持に反するものだった。 
第6話までの高いクオリティと、時折はさまれるセクシャリズム、 
そして16話以降に演出された深遠な世界観は、 
彼らの心を掴んでおり、TVの前から離さなかったのである。 

その支持の大きさが、最終2話で決着する心象描写も好意的に捉えられ、 
難解なキーワードがアニオタのα係数を充分に刺激した事で、 
放送終了後に強い反響を呼び、関連商品がオリコンチャートを総なめした。 
商業的露出が増えたのがきっかけで、『エヴァ』の人気は 
アニオタの枠を飛び越え、一般層にまで波及していったのだが、 
この時、心理学や実存哲学の専門家ではないオタクの彼らが、 
専門家にも劣らない高い出力によって一般の人に面白さを伝えていった。 


『エヴァ』は、アニオタという存在が無かったら、 
庵野監督の自己満足で終わっていた作品であったに違いない。 
だが、庵野監督は伝えるべき事は伝え、最善の努力を尽くした。 
そうした努力を、有意水準の高いアニオタが100%拾い上げてくれた事で、 
『エヴァ』という難解な深層世界が補完されたのだった。 

また、スポンサーである角川書店がガイナックスに潤沢な予算を与え、 
分かりやすいロボットアニメとして作らせていたなら、 
庵野監督の色が薄まり、ここまでのヒットもしなかったはずだ。 
スポンサーの意向に邪魔されず、監督の意向が強く反映された事が、 
知的深度を深め、逆にアニメの潜在需要の高さを市場に示した。 
ちょうど同時期には『ガンダムW』が放送されているのだが、 
『W』の人気がガンオタどまりだったのは、登場人物の内面性が複雑でなく、 
注目を集めるほどの演出ではなかったからだと思われる。 


庵野監督が自分の心象風景を、難解な解釈項を用いて複雑にし、 
深淵に見せるように巧みな演出をして、確固たる世界観を形成した事。 
また、それをアニオタが好意的解釈とセールスでバックアップし、 
一般的に広く知られるほどに知名度を押し上げた事。 

この2点が、『エヴァ』が大ヒットした理由だろう。 
「碇シンジ」くんが自己肯定していくストーリーが評価されたのは、 
『エヴァ』がアニオタによって補完された後の話である。 
それまではおおよそ共感と呼べるほどの理解はされていなかった。 


この後、宮崎監督もパンツを脱いで『もののけ姫』を作り、 
アニメに限らず、特撮・漫画・ゲームなどその他の分野でも、 
難解なテーマを作中に落とし込んだ優れた作品がいくつも生まれ、 
サブカルチャー全体で知的深度が一気に増した。 
そしてこの時にもまた、様々な分野の「オタク」の人達が、 
一般の人への理解の橋渡し役となっている。 

「オタク」にとってやっている事は、『ヤマト』や『ガンダム』によって 
その存在を認知された20年前と何ら変わらないのだが、 
一般の人が『エヴァ』以降、オタク文化に積極的に興味を持ち、 
「オタク」に対する有意水準が引き上げられたのである。 
『エヴァ』は、社会現象を起こして市場を活性化しただけでなく、 
少数として区別されてきた「オタク」の地位を向上させた。 
『エヴァ』はオタクにとって、"希望"となったのだ。 


―――


シンジくんの葛藤は、性善説がより強く打ち出された 
劇場版第25話「Air」、26話「 まごころを、君に」で幕を閉じる。 

シンジくんは他者との交わりに"絶望"し、"ATフィールド"を張って 
リビドー(生)という名の自己自身を保持しようとする。 
"AT"とは、"Absolute Terror"の略で、絶対恐怖と訳される。 
他者と同化して自己自身を喪失する"絶望"=デストルドー(死)は、 
"アンチATフィールド"を展開して世界中の人を液体にしてしまう。 
他者との完全な同化こそが、人類補完計画の正体だった。 

しかし彼は、"絶望"して他の人と同じ液体になるよりも、 
他者と区別された自己自身である事を望み、元の居場所へと戻った。 
それは、光明思想家のジョセフ・マーフィーが示した"希望"に他ならない。 
キルケゴールが提唱した"絶望"は"死に至る病"であり、 
他者との交わりが自己自身を喪失させると説明したが、 
マーフィーは、"希望"はどんな重病でも治す特効薬であるとし、 
他者の中で自己自身を発揮する為の、"潜在意識の法則"を提唱した。 

シンジくんの選択は、「斑目」が「オタク」に見えない服を買いに行き、 
自己自身としての矜持を口にしたのと同様である。 
他者と同化する為にクソ高い服で身を包めば、トレードオフで 
エロゲーや同人誌を購入する資金を失い、自己自身である事が出来ない。 
「斑目」は結局、他者と同化する事を選択し、服を買う。 
「春日部さん」は、「いーじゃん似合ってんじゃない?」と言うものの、 
本当に必要なのは「高坂」のように自己自身である事だったはずだ。 


劇場版第26話の最後に描かれたのは、『変身』と同じ不条理である。 
元の居場所に戻ってきたシンジくんを待っていたのは、 
崩壊した世界と、恐怖の対象であるアスカだった。 
彼は再び他者との交わりを恐れてアスカの首を絞めるも、 
アスカはシンジの恐怖を理解し、頬をなでて受け入れた。 
彼女もまた、量産型エヴァに陵辱され、"絶望"を知ったからだ。 

シンジは他者との交わりに"希望"を見つけて、涙を流す。 
しかしアスカにとっては、シンジの恐怖は理解できても、 
シンジ自身は、まだ有意水準を越えた、理解しがたいものだった。 
自分の上で泣きじゃくる情けない男に向かって、 
「気持ち悪い」と一言つぶやき、そこで終劇となる。 

シンジくんが自己自身であろうと精一杯に願い、努力し、 
数々の苦難を乗り越えて元の居場所に戻ってきたのだとしても、 
他者であるアスカには、それが分からない。 
こんな不条理な世界がこそが、現実であるという事だ。 


ガイナックスの創始者・オタキング岡田斗司夫は、 
著書『オタクはすでに死んでいる』の中で、現代の「オタク」は 
他者との交わりの中で自己自身を喪失し、既に死んでいると述べた。 
「斑目」のような"絶望"の状態にあるというのだ。 

全ての「オタク」が「高坂」のように胸を張って生きるには、 
正規分布から否応なく外された不条理を受け入れるしかないのだが、 
"希望"の落とし所は、案外近くにあるのではないかと思える。 

きちんとメッセージを伝えれば、相手は理解してくれる。 
そして、理解してくれる人は必ず居る。 
庵野秀明という難解な存在がそうであったように、 
他者からの理解は"心の壁"を越えた先にあるものなのだろう。 
 


ご清覧ありがとうございました。

【オタク論】(2) 死に至る病


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↑アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』第16話のサブタイトル。



漫画やアニメなどのサブカルチャーに対する理解は、
それを支持する「オタク」と共に、有意水準の壁の向こうに追いやられている。

「オタク」の不幸は、ここまではまだ入口の段階だ。
存在を否定された「オタク」は、嗜好を理解をされないばかりか、
嫌悪の対象として一般的に認識されるようになった。
趣味に投資してきた分、ファッションに投資してきた人に比べて、
トレードオフで"見た目"の有意水準をクリア出来なくなっていたからだ。

カフカの『変身』に出てくる主人公のグレーゴルは、
ある日の朝、起床した自分の姿が巨大な害虫に変わっていた。
薄気味悪い姿に、妹のグレーテをはじめ、家族一同も嫌悪感を示す。
グレーゴルには家族に対する変わらぬ愛情が残っていたのだが、
家族は彼を次第に見放していき、彼は"絶望"して死に至る。
"見た目"は、人格ないし存在まで否定される理由にさえ成り得るのである。


こうなるともはや出力の有意差など関係ない。
オタクのステレオタイプが浸透するようになった頃から、
おおよそ"ボサボサの黒髪"で、"ダサいメガネ"をかけ、
"無粋な格好"をしている人なら、異常な値を出すに違いないと、
"見た目"でレッテルを貼られるようになった。
逆に、共通理解をされている"おしゃれな格好"の人などは、
正常な値であると見なされる事も多かった。


恋愛市場には、標準偏差というものが確かに存在する。
少女漫画論の回で述べたように、自分の理想をベースに
ルックスやファッションなど多岐にわたって有意水準が設けられ、
その水準内に正規に分布されているものだけが、恋愛対象となる。

これらの傾向は、『げんしけん』によく表されており、
イケメンの「高坂真琴」と、そうでない「斑目晴信」は、
同じアニオタでも一般人の「春日部さん」からの扱われ方が全然違う。
かたや「春日部さん」と交際し、自分の趣味を披露しても甘受される。
かたや日陰者で、「春日部さん」の鼻毛を指摘すればグーで殴られる。
変身したグレーゴルと同様に、"見た目"の有意水準に従って
「生理的に無理」という判定がなされているのだ。

いつしか「オタク」はこうした不条理な有意差に対し、
「ただしイケメンに限る」という言葉を使うようになった。
この言葉は、イケメンを否定しているのではない。
正規分布から外れた孤独な自分に"絶望"する、自己否定の言葉である。


―――


カフカはニーチェの実証主義の影響を受けており、
自分にとって、また他者にとっても誠実でありたいカフカは、
実証の過程を飛ばして決め付けを図る現実世界から乖離した存在だった。
文学を揶揄する偏見に満ちた父親への反目は、
かえって自分の中の文学意欲を高め、そして孤独にした。

カフカの文学は、彼が死ぬまで一般的には注目されなかった。
それは、彼はユダヤ人だった事も関係していると思われる。
しかしその死後、少ない理解者達によって彼の名前は世界中に広められた。
今では20世紀最高の文学に数えられるほどの人物が、
このような孤独な人生を歩んでいようとは、何という不条理だろうか。


実存哲学の祖として知られるデンマークの哲学者・キルケゴールは、 
こうした不条理を、著書『死に至る病』の中で以下のように説明している。
一般の人は、自己自身であろうという大それた事をせずに、
群衆の中に混じって他の人と同じようにしてる方が安全であると考えるが、
自己自身であろうとする人にとってそれは"絶望"である、と。

「斑目」はオタクファッションを「春日部さん」に笑われ、
「オタク」に見えないような服を買いに街に出るが、値札を見て愕然とし、
「買い物は自分の判断で決める。なぜならそれが自分そのものである。」
と、自己自身としての精一杯の矜持を口にしている。
(しかし、彼は結局それなりの値段の服を買い、妥協をするのだが。)

漫画オタやアニオタは、カフカと同じ苦悩を抱えている。
「オタク」にとって自己自身であろうとする行為は、
一般の人から見る有意水準から外れたものであっても、
彼らにとってはそうしなければ生きる価値が見出せないものだろう。
それを止めてしまえば、自分が死んだのと同じである。
だからこそ、「オタク」は奇異の目で見られ、たとえ嫌悪されても、
自己否定という死に至る病="絶望"と戦いながら、
自己自身を確認する為に、「オタク」としての矜持に生きるのだ。


『死に至る病』は、『新世紀エヴァンゲリオン』にて、
アニメ版の第16話のサブタイトルとして使用されている。

この作品がなぜ、オタクから絶大な支持を集めたのか、
次回は、主人公・碇シンジくんの心の葛藤を探ってみよう。

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ご清覧ありがとうございました。

【オタク論】(1) 統計学で「オタク」を定義する


正規分布

↑信頼率(1-α)の高い一般的な意見を採択した時の、
 オタクの認識への過誤を犯す確率(α)の図。たぶんあってる。

 引用:ようこそ、化学標準物質の不確かさへのいざない様
 (http://staff.aist.go.jp/t.ihara/confidence.html)より


「オタク」という言葉を聞くと、すぐに思い浮かべるのが、 
いわゆる秋葉系の、アニメや漫画などにどハマりしている男性でなかろうか。 

実際の所、それは一般人から見たステレオタイプなイメージに過ぎず、 
『仮面ライダー555』の半田健人は中川翔子と比肩するほどのネ申オタであるし、 
アスリートとして名高い柏原竜二や成田童夢もガチオタとしても有名だが、 
一般認識として、肯定的な捉え方をされる事は少ない。 
とかく、「オタク」はイメージがすこぶる悪い。 


「オタク」の定義には色々な解釈があり、例えば評論家の東浩紀は、 
キャラクターなどの愛玩的対象を構成する無数の記号を、 
自分の中に予め集積してあるデータベースと照合し、 
自分好みのものに選好して消費する人物を指すとしている。 

ただし、これは狭義的な観点から見たオタク像であり、 
先に挙げた半田健人の例には当てはまらない。 
自らをオタキングと名乗る岡田斗司夫は、SFオタクを自称する為に 
古今東西のSF作品を嗜好の有無に関わらず1000作品を観賞し、 
SFの知識を深めた事でオタクの王の地位を得たそうだ。 
広義の「オタク」は、選好などせず手に取ったものを片っ端から消費し続け、 
幅広く知識を取り入れた人物を指していると見るべきだろう。 


最も「オタク」を端的に表したのが、『バカの壁』の養老孟司が示した数式だ。 

 αx=y 

一般の人は、脳内入力 x にかかる脳内出力 y の値はイコールだが、 
「オタク」は、入力 x に係数 α が乗算される為、出力 y が膨大になる。 


―――


「専門家(マニア)」と「オタク」の違いはどこにあるか。

例えば小説や映画などのハイカルチャー評論を行うマニアと、
漫画やアニメなどのサブカルチャー評論を行うオタクは、どう違うか。
どちらも係数と出力の偏りの度合で言えば同じ意味となるだろう。


異なる2つのサンプル群のどちらが有益な情報かが未知である場合、
多くの人は自分の経験則、即ち主観によって情報を検定する。

 仮説(1) 「ハイカルチャー」は「サブカルチャー」より有益である。
 仮説(2) 「ハイカルチャー」は「サブカルチャー」より有益でない。

この時、"有益である"との仮定に基づく説を"対立仮説"といい、
"有益でない"との仮定に基づく説を"帰無仮説"という。
帰無仮説は、初めから棄却されて無に帰する事を前提としている。
このような仮定が現実に満たされるかは実証の問題で、
幾度もの反証テストを経て、信頼性の強度を勝ち得た仮説が、
晴れて一般論として広く認識されるのだ。

「マニア」は、こうした反証に支えられたハイカルチャーを論じる点で、
「オタク」が出力する情報とは違うと判断する事が可能である。
文学や映画は、優れた文化であるとして既に一般化している。
半田健人も昭和歌謡の知識において大作曲家の阿久悠にも認められたほどだが、
それもやはり時代を知る世代に歌謡曲が共有されてきた裏付けがあるからだ。


しかし、「オタク」を定義する上においても、
そのような反証が実際に行われたかどうかは疑わしい所だろう。

例えば漫画の場合、手塚治虫の時代から記号論が用いられている事が知られ、
現在では文芸小説にも劣らない高い文学的な技術や、
難解なテーマを作中に見事に落とし込んだ作品が数多く見られる。
アニメの場合でも、宮崎駿とジブリ作品を初めとして、
映画にも引けを取らないほどの印象的な映像表現を駆使し、
世界的に認められた作品の例はいくらでもある。
これは、別の仮説からの反証によって対立仮説を覆せる事の証明である。

だが、サブカルチャーに対しての反証が共有されてきた例は、
手塚や宮崎作品などを除いてほとんど存在しない。
サブカルチャーはハイカルチャーの付録だと思われているからだ。
情報を精査する上で有益な情報が選ばれるのであれば、
小説や映画より、漫画やアニメが劣っているものと主観的に判断し、
帰無仮説として棄却する事は、充分に理屈に反している。

このように、1つの仮説に対して補助仮説を立てて反証する考え方を、
デュエム-クワイン・テーゼ(決定不全性の命題)と呼ぶ。
物事には、色んな見方が必要だ。 


―――


一般的な認識と「オタク」の認識の違いの表し方は、偏見による所が大きい。
両者を区別するのは、出力された情報の大きさや深度ではない。
出力を受け取る側の情報許容量="有意水準"によって区別されるのである。 

一般化された情報の場合、情報を受け取る側の有意水準が高く、 
有意差も"正常なバラツキの範囲内"として見られるだろうが、 
「オタク」が出す情報だと、受け取る側の有意水準がおおむね低くなる為、 
有意差を"異常な値"として認識される場合が多い。 

共通理解の多い情報に対して100を出力できる人は褒められても、 
共通理解できない情報に100を出力されると気持ち悪がられる、という事になる。 
特に、東浩紀が著書の中で「動物化している」と表現した、 
美少女コンテンツを対象とする入力にセクシャリティの係数がかかる場合は、 
出力される値が正常だと一般的に認識される事はまず無いだろう。 

「オタク」はこのようにして、一般認識という有意水準から外れた 
はみだし者として扱われ、存在を否定されるのである。 


次回は、カフカの『変身』とキルケゴールの実存哲学から、
「オタク」の定義における補助仮説を挙げていこう。
 


ご清覧ありがとうございました。

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