漫画道場

漫画道場 漫画やアニメを学術的観点から考察・レビューします。



引っ越しました。
新ブログ「記号論研究所」を宜しくお願い致します。
URL→ http://semiotics.blog.jp/

【少女漫画論】

【少女漫画論】(5) 少女漫画が漫画になる時


NANA

↑主客一体となったナナと奈々。


1999年、少女漫画から"個人"へと脱却した矢沢あいは、 
『りぼん』を卒業し、他誌へと活動の場を移した。 
5月に『Paradise Kiss』を連載開始、10月に短編『NANA』を発表、 
『NANA』は翌年2000年の5月に連載化し、大ヒットとなる。 

『パラキス』と『NANA』が世に出たのと同じ99年、 
官主導で進められてきたフェミニズム政策によって
男女共同参画社会基本法が成立し、2020年までに
女性の人材を30%に引き上げる具体的な数値目標が立てられた。 
もはや社会の中で女性がどう主体性を発揮するかより、
社会の客体として女性をどう招き入れるかに主眼が置かれた、
実体の無い政策に成り下がっていた。

これ以降、フェミニズムの定義が多様化していき、
男女平等を建前を通り越して、女尊男卑の論調が生まれていく。
ティーン層の性経験率はさらに上昇し、2005年には 
男女比で女子が男子を上回る逆転現象=肉食化が起こるのである。 
男性が抱く理想の女性像は、ここに完全に崩壊した。


――― 


『NANA』では、近年のフェミニズムのキーワードである 
社会的な性の在り方=ジェンダーを作品のテーマの1つとし、 
現代の女性がどのように自分のポジション得ていくのかを描いた。 
主体的な女性を取り上げるのは、『ご近所』『パラキス』と近作続いているが、
以前と異なる点は、男性の客体として身を置く女性の目線を加えて、
主客分かれる2人の女性の生き方をクロスさせている点である。

バンドでひとやま当てる事を夢見る、主人公の1人・ナナは、 
女性として生きる事を拒否するほど確固たる意志の持ち主であり、
ゆえに男性への従属を極端なくらいに畏れ嫌っている。
男性にコンドームを使用する事を求め、それに応じない 
恋人・本城蓮に対しても不満を漏らした事もある。 

もう1人の主人公・奈々は、男性の客体である事を望み、 
男性を消費物として捉えるものの、実体を得る事が出来ず、 
それを求めて男性に依存していく女性として描かれている。 
男性に自分の理想を求め、思い通りにならなければそれを批判する。 
作中に出てくる週刊サーチのカメラマンとの口論が象徴的だ。 

2人のNANAは、お互いの意識が同化を果していた。
おそらく707号室で同居を始めた、その時から。
ナナは"女性らしさ"を、奈々は"個人"としての主体性を、
お互いに足りないものを補い合っていたかのようだ。
幸せな結婚して庭付き一戸建てに住む夢は「奈々」に託し、
目標に向かって突っ走りそれを達成する夢は「ナナ」に託す。
ナナと奈々、2人はコインの裏表であり、
ナナは既に蓮の客体として生きていく事は不可能だった。


少女漫画の鉄則は、「王子様」が必ず自分を選ぶ事である。
何かの行き違いが理由で別の人と形式的に付き合うような事はあっても、
精神は必ず主人公の女性の方を向いてなければならなかった。
ところが、奈々の彼氏・遠藤章司は、東京に出てきて間もなく、
バイト先の同僚・川村幸子との二股交際を始める。
のっけから少女漫画の精神性を全否定する強気の展開だ。

だが、これが女性読者の心をがっちり捉えた。
嘘くさい話で夢心地になれるほど現代の女性はセンチメンタルではない。
『NANA』が『ときめきトゥナイト』の発行部数記録を抜いたのは、
夢から覚めた女性の実状的な共感を得たからだろう。

ナナと奈々、2人の結びつきはここから更に強まる。
ナナが美里ちゃんとディズニーランドに行けば奈々が怒り、
奈々がタクミと交際を始めればナナがキレる。
主客一体となる事で、ようやく2人は1人の理想の女性になれた。
その2人にとって707号室は、2人が認めた住人以外は
何人たりとも侵す事の出来ない聖域だったのである。


――― 


そうしたコインの主客関係も、唐突に終わりを遂げる。
奈々がタクミによって妊娠させられたのである。

ナナにとって奈々は、自分が叶える事の出来ない、
結婚という女性としての幸せを掴む夢を託した半身であり、
その奈々が女性を支配下に置きたがるタクミの子を身篭り結婚する事は、
自分がタクミに従属するも同然の出来事だった。

「嫌だ!絶対に産まないで!」

ナナのこの台詞は、ナナの所有欲から来るものではなく、
バンドで名を馳せるのと同じくらい大事な夢を、
他人によって打ち砕かれる恐怖から出たものである。

奈々にとっても初めて、主体的な愛情をノブの中に見つけていた。
「こうして欲しい」ではなく、「こうしてあげたい」という献身的な愛。
ナナはずっと以前から、夢は自分で掴むものだと考えている。
ゆえに奈々が主体的に夢を叶えるのは、これ以上ないほどに望まれる事で、
自分を支えてくれたノブなら、奈々の夢の相手として相応であった。

しかし、その主体性を根こそぎタクミに奪われた。
奈々に自分の叶えられない夢を叶えて欲しかったナナは
これが原因で、過呼吸症候群に陥ってしまう。


さらに事態は悪化する。
蓮が不慮の交通事故で還らぬ人になってしまったのである。

奈々は当人が何と言おうと、ナナ自身に女性としての幸せを掴んで欲しかった。
だからナナが蓮と結婚したという報告を、我が事のように喜んだ。
たとえ蓮の客体としてでも、ナナの半分だけの心が埋まりさえすれば、
それは自分が叶えられなかった幸せな家庭を築く夢にも繋がる。

「意地ばっかり張ってると幸せが逃げちゃうよ。」

この台詞もまた、他意の無い本心からの言葉だろう。
奈々は失敗の教訓としてでなく、心の底からナナに幸せになって欲しいと願い、
またナナも、そうなろうと最善の努力をしようとしていた。
コインの主客関係は、何もなければ円満に解消するはずだったのだ。
お互いに欠けていた所を幸福という形で充足し、
お互いが主客両方の夢の叶える寸前まで、手中に収めていた。

結局、その夢はどちらも叶う事はなく、2人ともバラバラになった。
ナナが"個人"として不完全な弱さを持っていた事を、
そして奈々が"女性"としての強さを持っていなかった事を、
お互いが気付いてあげていたら、「今とは違う未来があった」のだろう。
悲しい事だが、2人の運命の鎖が断たれたからこそ、
『NANA』のテーマがより深く、読者に届けられるのだ。


――― 


2000年以降、多くの女性漫画家らが少女漫画から脱却し、 
優れた漫画家を失った少女漫画のコンテンツは衰退を迎えるが、 
それは少女漫画が消えてなくなった事を意味するのではなく、 
新たなステージに突入した事を表すものだった。 

ある作家は性と向き合う為にターゲットの年齢層を上げ、 
またある作家は男性漫画の長所を取り入れキャラクター化した。 
別の作家はジャンプやモーニングなど男性誌で描くようになり、 
さらに別の作家は、男性誌でも"女性らしさ"を貫き通した。 
フェミニズムの形と同様に、少女漫画も多様化していくのである。 


『月刊アフタヌーン』という男性向け漫画誌の中に、 
『おおきく振りかぶって』という野球漫画がある。 
この作品の特徴は、キャラクター論に頼らない人物描写であり、 
多くの野球漫画が長所を描く事で登場人物を差別化してきたのに対し、 
『おお振り』はコンプレックスによって差別化を図り、 
誇張表現の無い等身大の人物描写を丁寧に行う事で、 
「これまでに無い新しい野球漫画」とされ、絶賛された。 

だが、これは『キャンディキャンディ』の時代から続く、 
少女漫画の伝統芸であり、女性ならではの細微な表現方法だ。 
作者・ひぐちアサは、『おお振り』より以前は恋愛ものを描いていた。 
少女漫画の精神性が、男性誌にそのまま持ち込まれた事で、 
漫画界全体に新たな可能性を示したのである。 

少女漫画は少女である事を止め、"漫画"になったのだ。 


少女漫画を卒業した矢沢あいが『NANA』で表そうとしたのは、
主客一体となった本当の意味での"女性らしさ"である。
フェミニズムはかつて自由精神の発露を目的としていた。 
しかし、その過程で"女性らしさ"の否定へと変貌し、 
今では女性としての立場を保障される事に胡坐をかいている。
男性の客体から社会の客体として依存の矛先を変え、 
それで何かを得ようとしても、「何も得ている実感が無い」と、 
都会の生活に打ちひしがれる奈々の背中を追うだけだろう。 

矢沢あいは"女性らしさ"という客体性を掲げたまま、
主体性を持った"強い女性"を、描き続けている。 
それは少女漫画の歴史が投げかけるメッセージと同じものだ。

 "個人"としての主体性を発揮し、真の自由を勝ち取った上で、
ナナや奈々、オスカルやマリーは、"女性"として気高く咲く勇気をも、
現代を生きる読者に伝えているのである。


にほんブログ村・記事トーナメントで本記事が優勝しました!
 


ご清覧ありがとうございました。

【少女漫画論】(4) 漫画家・矢沢あい


ご近所物語

↑矢沢あいの転換点・『ご近所物語』の本誌掲載順は後ろの方だった。


日本性教育協会の青少年行動調査によると、 
少女漫画のメインターゲットだったティーン層の性経験率が、 
1987年の調査からはっきりとした上昇傾向が見られる。

 参照:青少年の性行動調査 第6回

フェミニズムは、こうした性行動への変化を齎した。
啓蒙主義が旧来の価値観である宗教性を排除したように、
美徳とされてきた道徳的な抑制まで後退してしまった事が、 
男女の主客逆転のきっかけを作っていったのである。

恋愛の入門書として愛読されてきた少女漫画は、 
90年代前半まで、まだ旧来の"女性らしさ"に縛られていた。
ところが、少女漫画に出てくる「白馬の王子様」が、
現実にはどこにも居ない事を、女性はとっくに気づいていたのだ。

87年、女子中高生の登校前の「朝シャン」が社会現象になり、
88年、私立高校の制服がブレザータイプにモデルチェンジを図る。
89年、渋谷に集まる10代のファッションが「渋カジ」と呼ばれて注目され、
同時期には、ティーン向け雑誌『セブンティーン』が
少女漫画の連載を中止し、アイドルなどの芸能情報も削って、
ファッション雑誌として方向転換を図り、部数を大幅に伸ばした。
女性は男性の首に縄を付けに自ら積極的に動いた。

90年代に入ると、男性が記号化した"清楚"で"可憐"な
「女子中高生」のイメージが、音を立てて一気に崩れ始める。
92年頃から言葉の乱れを指摘され始めたのをきっかけに、
93年にブルセラ、94年にデートクラブ、95年には援助交際が問題になり、
都心を中心にコギャルが続々と出現していったのである。
彼女達の行動背景には、ファッションが関与していた事は見逃せない。


もはや少女漫画の精神性は化石に変わってしまった。
1995年になると、ついに『りぼん』の部数低下が始まる。
急速な価値観の変化についていけず、時代錯誤の周回遅れとして、
読者との間にバックラッシュが生まれたのである。

しかし、この頃から少女漫画界にも変革が起きていく。 
トレンドに敏感な作家らが、時代のニーズに合わせた作品を生み、 
精神性から実利性へと脱却を図ったのである。 
その代表格となったのが、『ご近所物語』の作者・矢沢あい。 
当時の『りぼん』において、この作者は異質であり、 
色とりどりの花が咲き誇る誌面上で、1人だけ浮いた存在だった。 


――― 


少女漫画が男性向けの漫画と違うのは、登場人物が 
以前に解説したキャラクター論に基づいていない所である。 
一般的に漫画の登場人物は、人物全体を類推する"素材"を抜き出し、 
それを誇張して際立たせる事でポジションを置くのだが、 
少女漫画の登場人物は、誇張表現の無い、等身大の人物が描かれる。 
特に、自身へのコンプレックスに立ち向かう描写は鋭く、 
同じ悩みを抱える多くの女性の共感を得る呼び水となっている。 

『ご近所物語』は、そんなコンプレックスにまともに挑み、 
服飾を通じて自分のポジションを得ていく作品だ。 

『天使なんかじゃない』までの矢沢あいは、まだ少女漫画家だった。 
主人公の翠ちゃんが抱える悩みは恋の悩みであり、 
自分に対する否定的な感情の無い、明るく可愛い女の子だった。 
ところが、『ご近所』の主人公である幸田実果子は、 
つり眉で目つきが悪く、チビで胸なしでたらこくちびるで、 
口も悪ければ愛想も悪い、大きなコンプレックスを持った女の子だ。 

翠を太陽のようにいっぱいに花開く向日葵に例えるなら、 
実果子は女の子として実を結ばない、日陰に咲く徒花である。 
そんな花が、『りぼん』のお花畑の中に混じって、 
一生懸命に背筋を伸ばしながら立っていた。 

彼女はこの大嫌いな自分のコンプレックスを覆い隠すように、 
ファッションに身を包み、服飾デザインの道に没頭する。 
彼女にとってファッションとは、『姫ちゃんのリボン』の 
野々原姫子の魔法のリボンと同じ、変身である。 


こんな実果子に、子供の頃からずっと一緒の男の子が居たのだが、 
その幼なじみが、学校で1番スタイルが良い美人と付き合い始めた。 
これがきっかけで、髪をお人形さんのような金髪にする。 

その後も、控えめでとても女の子らしい好意的な子が現れると、 
激しいコンプレックスに晒され、実果子はは自分の事を 
少女漫画の主人公になれない「出来そこないの失敗作」と卑下する。 
だが、その幼なじみがありのままの自分を受け入れてくれた事で、 
彼女も自分の事を少しずつ肯定していくようになる。 


注目すべき点は、直接的な性描写が存在する事だ。 
1991年に連載が始まった『天ない』には無かったものが、 
1995年連載開始の『ご近所』では、10代の男女が 
お互いを受け入れる為の自然発生の行為として描かれている。 

『りぼん』で初めて直接的な性を描いたのは一条ゆかりで、 
20年以上前となる1972年からすでに存在した表現であったが、 
この頃はまだ精神の愛の終着点であり、儀礼的なものに過ぎなかった。 
『りぼん』は部数低下が始まった1995年を変化点に、 
実利としての性を描くように修正が図られたと思われる。 

そしてこの時から矢沢あいも、少女漫画にマッチ出来なくなった。 


1998年、次作となる『下弦の月』の連載が始まる。 
この作品の特異さは、少女漫画の精神性を回帰させながら、 
純文学にも勝る完成度を両立させている点である。 

実利性へと変革した『りぼん』は、96年にデビューした 
新世代の作家・種村有菜の『神風怪盗ジャンヌ』が人気であった。 
『下弦の月』より半年早く始まったこの作品は、 
前作で失敗した伝統的なまどろっこしい精神性を廃し、 
ノリとテンポで明るさを強調し、性描写もはっきりと打ち出した。 

対して『下弦の月』は、月のメトン周期を作中のテーマに落とし込み、 
肉体と肉体でなく、魂と魂が引かれ合う愛を見事に描ききった。 

矢沢あいは、少女漫画家としての"女性らしさ"を捨てずに、 
"個人"として通用する域にまで作品を昇化させたのだ。 
もはや少女漫画家ではなかった。1人の漫画家であった。 


次回は、2000年代の時代の変化を『NANA』と共に振り返りながら、
少女漫画家がどのように"個人"となっていったのかを見ていこう。
 


ご清覧ありがとうございました。

【少女漫画論】(3) 個人の解放


ベルサイユのばら

↑オスカルは女性の身である本然を受け入れている。


"女性らしさ"とは何であるか。 
これを明らかにする為に、まず少女漫画界における不朽の名作、 
『ベルサイユのばら』を見る事にしよう。 


『ベルばら』の主人公であるオスカル・フランソワは、 
伯爵家の令嬢でありながら男性として育てられ、 
フランス王家に仕える軍人でありながら、革命軍に就いた。 

ちょうどこの頃、女性の在り方を問う出来事が起こる。 

オスカルが銃弾に斃れるバスティーユ監獄襲撃から6週間後、 
法の下の平等を掲げたフランス人権宣言が採択されるのだが、 
人権宣言によって保障された権利は「男性」だけが有するものだった。 
この事が、多くの女性有識者からの反発を招き、 
200年にも及ぶフェミニスト運動の引き金となったのである。 

フェミニズム運動の先駆者であるメアリ・ウルストンクラフトは、 
こうした人権宣言にはらむ性差の矛盾を指摘し、 
特に、この宣言の論理的基盤となった『社会契約論』のルソーが、 
プライベートでは愛人テレーズに5人の子を産ませながら 
いずれも認知しなかった事について、男性が女性に要求する 
従属的な愛からの独立を訴え、痛烈に批判した。
 
彼女は女性教育を推進し、この思想は盟友トマス・ペインによって
後にウーマンリブの先陣を切ったアメリカに持ち込まれる。


オスカルが、従者であり恋人であるアンドレと共に歩んだ道は、 
ウルストンクラフトが望んだ理想であったに違いない。 
アンドレと一夜だけの愛の誓いを果たした後、 
彼女は腐敗した王室から市民を救う為に、戦場へと身を投じた。 

オスカルはずっと女の身である事に苦しめられてきた。 
近衛連隊時代の部下からのプロポーズも破談させ、 
フェルゼン侯爵への報われぬ恋慕も断ち切っている。 
父親から与えられた男性としての立場に雁字搦めにされてきたのだ。 
しかし、彼女は"女性らしさ"を捨てなかった。 
アンドレを受け入れ、女の身である本然を受け入れた上で、 
王室軍人という束縛から、"個人"へと解放される事を望んだ。 

ここに、フェミニズムの本質を見る事が出来る。 

オスカルの名言を振り返ろう。

 神の愛に報いる術も持たないほど小さな存在ではあるけれど… 
 自己の真実のみにしたがい、一瞬たりとも悔いなく与えられた生を生きてきた。
 人間としてそれ以上のよろこびがあるだろうか。

 自由であるべきは心のみにあらず!
 人間はその指先一本、髪の毛一本にいたるまで、
 すべて神の下に平等であり、自由であるべきなのだ。

バスティーユ監獄に上がる白旗を見届けた時、 
オスカルの自由と平等と友愛は達成されたのである。 


――― 


フェミニズムは、啓蒙思想から生まれた自由主義に根ざしており、 
"女性らしさ"からの開放を訴えてきたものではない。 
ウルストンクラフトがルソーへの反論として女性教育の重要性を説いたのは、
"個人"の発露を目的とし、社会通念上の問題を解決する事に意義があった。

戦前、日本では女子教育の基本方針として良妻賢母主義が掲げられ、 
幼くしては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従え、という、 
「三従の教え」により、女性は男性の客体である事を求められていた。 
この教えに反発したのが、かの有名な平塚雷鳥である。 
彼女は1911年に創刊された婦人文芸誌『青鞜』で、こう述べた。 

「元始、女性は太陽であった」と。 

雷鳥の主張は、家父長制の否定が目的ではない事が、 
この続きの文面を見れば分かるだろう。 

 然らば私の希う真の自由とは解放とは何だろう。 
 潜める天才を、偉大なる潜在能力を十二分に発揮させる事に外ならぬ。 

日本のフェミニズムの歴史は、この言葉から始まっている。 
この頃はまだ女性の社会進出への偏見が根強く、 
政治的・社会的要求のほとんどは退けられ、認められなかったが、 
戦後、ウルストンクラフトの思想がGHQによって日本に流入し、
女性の高度教育が推進された事で、"個人"は高まりを見せていき、
1972年の勤労婦人福祉法、85年の男女雇用機会均等法の成立へとつながる。

女性は男性の客体で無くなり、女性としての主体を勝ち取ったのだ。


――― 


しかしこの後、女性による社会活動は"個人"には目的が向かなかった。
"個人"を取り巻く社会通念の打破こそが目的となり、
社会の中でいかにして潜在能力を発揮し、自分のポジションを得ていくか、
その点が置き去りにされたまま、フェミニズムは官制事業となった。


『ベルばら』にはもう1人、"個人"を発揮した女性が登場する。
ルイ16世の王妃でありながら、フェルゼン侯爵との禁断の愛を受け入れた、
マリー・アントワネット、その人である。

フェルゼンはマリーに自分が婚約した事を伝える。
マリーはフランスの王妃、フェルゼンはスウェーデンの貴族。
絶対に結ばれる事などないのだが、マリーは国王がオペラを開催した夜に
茂みで偶然に出会したフェルゼンへの愛をこう語っている。

 わすれてくださいいまは!
 わたくしが王妃であることを!!
 愛していますフェルゼン!もうどうすることもできないほど!

作者である池田理代子が表現しようとしたのは、
しがらみの中で生きる女性の「自己の真実」であったと思う。
マリーもまた、主体性を持って自分の進みたい道へと進み、
たとえそれが誤った道であったとしても、
誇りを捨てずに、毅然とした姿で断頭台へと向かう。

漫画を描くという事は、それ自体が"個人"の表現であり、
少年漫画だろうが少女漫画だろうが、同じである。
少女漫画の精神性が失われていったのは、"個人"の高まりによって、
「男性からのアプローチをずっと待ち続ける」といった、
旧来の価値観が値打ちのないものになったからで、
"女性らしさ"を否定せんが為ではなかったと述べておきたい。

官主導で進められたフェミニズムが行き場を失っているのは、
こうした主体性が既に失われているからだとは言えないだろうか。


少女漫画における主体性とは何か、より時代を進めて、
今度は矢沢あいの『ご近所物語』からそれを見てみよう。
 


ご清覧ありがとうございました。

【少女漫画論】(2) 少女漫画の衰退


りぼん

↑『りぼん』の部数低下の推移。有望な新人は多く居たはずだった。
 引用:Love Dream Smile様より


少女漫画は元来、思春期の少女が持つ精神の愛を謳ってきた。

ところが、 実際の恋愛市場において精神性が二の次に置かれた事で、
若年層の間で性経験率の上昇傾向が見られるようになり、
女性は早いうちからファッション雑誌を手に取るようになった。

女性による主導権の掌握は、男性の理想のヒロイン像を打ち砕いたばかりか、
旧来の価値観に縛られたコンテンツも古くさいものに変えてしまい、
少女漫画の精神性は女性のニーズを満たさなくなったのである。
2000年代に入ると、作風も実利優先へとシフトしていき、 
いよいよ精神の愛が一気に廃れていく事となった。 


少女漫画界の絶対王者は、集英社発行の『りぼん』であった。 
ところが2002年、発行部数で小学館の『ちゃお』に抜かれてしまう。 
そして2006年には講談社の『なかよし』にも抜かれ、 
2011年に2位に返り咲くまで、業界最下位の辛酸を舐め続けた。 

『りぼん』は70年代~80年代後半にヒットした 
"おとめちっく"と呼ばれる作風を90年代後半まで引きずり、 
水戸黄門のような偉大なるマンネリ状態にあった。 
70~80年代と言えば、第二波フェミニズム運動の真っ直中である。 
『ときめきトゥナイト』『ポニーテール白書』『星の瞳のシルエット』と、 
かつて隆盛を誇った時代の伝統的なコンテクストを、 
『グッドモーニング・コール』『ベイビィ★LOVE』など、 
現代風の絵柄が描ける作家がそのまま継承したが、 
もはやそれは星飛雄馬が流す涙と同じ、古めかしいものだった。 
その点、『ちゃお』は何もかもが新しかった。 

一部の少年誌でも部数低下の傾向は顕著に見られるが、
例えば『少年サンデー』の場合だと、新人育成に失敗して
連載作品の新陳代謝が図れなかった事が大きな原因となっている。
ところが少女漫画の場合、有望な新人は発掘できていても、
その新人らに旧来と同じものを描かせ、独自性を出さなかった事が、
時代の変化に対応できなかった原因として挙げられよう。
これが少女漫画の世界に起きた、バックラッシュの顛末である。


――― 


『りぼん』の現在の発行部数は、250万乙女に支えられた 
黄金期の10分の1以下となる21万部まで落ち込み、
これは同社がティーン向けに発行しているファッション雑誌、 
『SEVENTEEN』の発行部数である35万部をも下回っている。 
児童から中高生まで幅広い守備範囲を誇っていた少女漫画が、 
ティーン層の支持を失った事実を如実に表している。

しかし、コミックの発行部数では少し事情が違う。 
王道の中の王道作品『ときめきトゥナイト』を抜いたのは、 
ティーン向け漫画雑誌『マーガレット』と『Cookie』から出た、 
『花より男子』と『NANA』の2大巨頭だ。 
両作品に共通しているのは、芯がまっすぐで容易に折れず、 
いざとなったら男性にも食ってかかる"強い女性"を描いており、 
現代の女性のニーズに合致している点である。 

こういった作風の変化は、2000年代に入ってから顕在化してきた。
流行を取り入れ、必要あれば精神性をもかなぐり捨てた。
特に矢沢あいはファッションにも精通していた事から、 
少女漫画から離れていった読者からも絶大な支持を得る事となった。 


次回は、少女漫画がいかにして精神性から実利性へと移ったのか、 
ベルサイユのばら』を見ながら、その変遷を追ってみよう。
 


ご清覧ありがとうございました。

【少女漫画論】(1) 恋愛資本主義


丘の上の王子様

↑丘の上の王子様。キャンディは彼の幻影を追う。


少女漫画というのは、世相というやつを実によく反映していて、 
名作と呼ばれる作品を年代を遡ってずっと読んでいけば、 
男女関係の変遷が見て取れて、非常に面白い。 


現代における恋愛市場は、女性優位だと言われている。 
これをはっきりと示したのが『花とみつばち』で、 
男性を"花"、女性を花から花へ移りわたる"蜜蜂"に例えている。 
女性は華麗に着飾り、しっかりとメイクをして、 
痩身と美肌に注力し、その為にお金をかけることも厭わない。 
男性が女性の気を引こうと思ったら、同じように自己投資し、 
今の女性と同じ市場に登壇しなければならない。 

これに異を唱えたのが、『電波男』の著者・オタク評論家の本田透である。 
彼は自己投資を拒み、二次元コンテンツにお金をかける事を奨め、 
「恋愛資本主義」を完全に否定、キモメンの矜持を掲げた。 

「恋愛資本主義」とは、本田透の言葉ではなく、 
ドイツ歴史学者の筆頭であるヴェルナー・ゾンバルトが、 
1913年の著書『恋愛と贅沢と資本主義』で提示したテーマだ。 
マルクス主義の流れを受け、中世の恋愛観を解説した。 

中世では、宗教観において倹約や貞操が守られてきたが、 
啓蒙主義によって宗教性が排除され、人間の自由が解放された。 
恋愛市場はこの時から奢侈へと傾き、宮廷の女性達は 
吟遊詩人が歌う精神の愛より、自らの手で勝ち取る実利の愛を選んだ。 
これが後のフェミニズム運動につながっていく。 

現代の恋愛市場でも、これと似たような現象が起きている。 
積極的に男性を消費していく女性達を"肉食女子"と呼び、 
強い女性の象徴としたが、中世の頃と1つだけ異なる点があり、 
それが、男性達が恋愛市場から次々と降壇していき、 
蔑みの意味を込めて"草食男子"と呼ばれている事である。 


では、なぜ世の男性は女性優位の市場から去っていくのか。
そこには明確な理由があるはずだ。


――― 


女性には、理想の男性像というものがある。
これがいわゆる「白馬の王子様」と呼ばれるイメージで、
昔の少女漫画を読めば必ず出てきた鉄板のキャラである。

しかし、『はいからさんが通る』の「伊集院忍」にしろ、
『キャンディ・キャンディ』の「アルバートさん」にしろ、
ヒロインを陰から支えるナイト役に徹しているケースがほとんどで、
主体性を発揮していたのはどちらかと言えば主人公の女性の方だった。

両作品が連載されていた70年代当時は、アメリカのウーマンリブを発端とする
フェミニズム運動が最盛期を迎えていた頃である。
日本でも、最初は手塚治虫や赤塚不二夫らが支えていた少女漫画が、
60年代から70年代にかけての女性作家の台頭によって、
多くの優れた作品が生み落とされ、名実ともに女性のものになっている。


少女漫画はこうした社会的な背景を持っている為、
実はそのほとんどが、「王子様」からのアプローチをただ待つ事なく、
自分から理想の男性を捕まえに積極的に動いている。
『シンデレラ』や『眠れる森の美女』のイメージが強い「王子様」だが、
少女漫画の中では、男性はずっと以前から草食だったのだ。

「王子様」に要求されていたのは、イケメンである事と、
自分のモーションに対してだけアプローチを返してくれる事。
「王子様」が自分とは違う女性を選ぶ選択肢はあり得なかった。
こういった都合の良い理想を、現実の男性とすり合わせ、
嘆息をついていたのは、今に始まった事ではない。


――― 


しかし、やはり男性側にも理想の女性像というものは存在する。
永遠の恋人『タッチ』の浅倉南をはじめ、『めぞん一刻』の音無響子、
『銀河鉄道999』のメーテルなど、女性の理想と同様、
自分を陰から支えてくれる献身的なヒロインこそが望まれた。
主体性を発揮するのは主人公の男性であり、女性は自分からのアプローチを
ただ待っていてくれさえすれば、それで良かった。
やはり、女性が自分と違う男性を選ぶ選択権は無かったのだ。
こちらもまた、何とも都合の良い理想である。

現代の女性は、この要求を満たすどころか、 
ファッション資本に包摂されてモードスタイルに傾倒し、
獲物を狩る為なら自分の貞操すら擲ち、実利を得ようとする。
 
こういった女性は、古典的なヒロイン像を思い描く男性の理想には反するだろう。 
二次元コンテンツが一定のニーズを満たしているのは、 
オタクと呼ばれる男性達の逃避場所となっているのではなく、 
実利に走る女性が精神的な満足を与えられないからに違いない。 


つまり、男性の草食化は、男性側だけに問題があるのではなく、 
男女ともに理想を求めて現実を省みなかった結果、
恋愛市場において需要と供給の不一致が生まれた為だと考えられる。 

どちらかが手綱を取れば上手くリード出来るはずなのだが、
どちらも手綱を引っ張って、結局は落馬してしまいそうな状況に陥ってるのだ。
「白馬の王子様」も、キャンディが愛したアンソニーのように、
どこかで落馬して死んでしまっているのかも知れない。


――― 


恋愛の自由化によって確かに女性は強さを確立し、 
主体性において男性より優位に立つほどまでに強くなった。 
しかし男性は、女性に必ずしも強さを求めてはいない。 
そして女性も、男性に草食化を求めている訳ではない。 
男女ともに、男性らしさ・女性らしさを求めているという事だろう。 

このように異性に対し、"らしさ"を求める事を、 
フェミニズムの反対、いわゆるバックラッシュという。 

バックラッシュの本来の意味は、がっちりと噛み合った歯車の 
間に生じる差を表し、機械的な摩擦によって増大するが、 
この場合、男女の歯車が噛み合っていない事を指している。 
お互いの理想と現実の間にズレが生じているのが現状だ。 


では、いつ頃から女性は実利を求めるようになっていったのか。 
その答えを、少女漫画の歴史の中に見る事にしよう。 
バックラッシュ現象は少女漫画の世界でも起きている。
 


ご清覧ありがとうございました。

共有(シェア)ボタン
各種RSSはこちら↓

Twitter
アクセス数 (UU/Week)

    QRコード
    QRコード


    • ライブドアブログ