↑五代いるところに四谷あり。"変態"にして"紳士"である。
高橋留美子と言えば、数百にのぼるキャラクター達を
安定して生産し続けてきた屈指のヒットメーカーの1人で、
ストーリーにも定評があり、コメディから恋愛物、冒険劇に至るまで、
幅広いジャンルの作品を残してきた事で知られている。
高橋の作るキャラクターは、とても個性的だ。
漫画では一般的に、人物の表情に差を付けてキャラを立てる。
例えば、『HUNTER×HUNTER』の冨樫のキャラは、
複雑に入り交じった人間性を、人物の表情で形而的に描き分ける。
評論家の斉藤環は、これを「顔の固有性論」と呼んでいる。
高橋の場合、表情で分類されるのはボケとツッコミの立場のみ。
ボケの方が真顔で冷静、ツッコミの方が感情的、など。
その代わり、人物を構成する"素材"に大きな落差を持たせ、
強烈な印象を残すキャラに仕立てている。
高橋のキャラは基本的に、2つの"素材"で構成されている。
現実 ⇔ 非現実、常識 ⇔ 非常識、日常 ⇔ 非日常と、
相反する"素材"を同じ人物の中に同棲させているのが特徴である。
"冷血な雪女"かつ"お金に汚い"おユキさん。
"ボクサー"なのに"食い意地の張った"畑中耕作。
"恐ろしい半妖"だけど"主人に従順な"犬夜叉、他。
理屈は野茂英雄や佐々木主浩のフォークボールと同じ。
ストレートボールに威力があるほど落差が活きてくるように、
彼らが真面目な顔で真剣に"素の素材"を演じれば演じるほど、
"もう1つの素材"とのギャップが生まれ、面白くなる。
このように、2つの"素材"を渾然一体に描く事で、
カオティックでハチャメチャな人物が出来上がるのである。
昨年12月にドラマ化された『らんま1/2』では、
この2つの"素材"を分割し、別人格として成立させた。
これも、高橋のキャラ作りに礎があるがゆえに可能だった訳だ。
―――
『らんま1/2』から10年前、小学館発行の少年サンデーにて、
初の連載作品である『うる星やつら』を連載していた高橋は、
同社の青年向け漫画誌・ビッグコミックスピリッツにて、
1980年より『めぞん一刻』の連載をスタートさせた。
『めぞん一刻』は、一般的にはラブコメディに分類され、
恋愛物としてスポットが当てられる事が多いが、
この作品の真価は、主人公・五代が暮らす一刻館の特異性と、
五代を取り巻く人物の"素材"をストーリーに綿密に絡ませる、
高橋の計算された構成がなされた点にある。
一刻館には、実に個性的な面々集まっている。
浪人生の部屋に集まってどんちゃん騒ぎを始めるような、
五代をして「生きた非常識」と言わしめた人物ばかりだ。
『めぞん一刻』の舞台となった時計坂には、
スナック、テニスクラブ、学校と、様々な場所が登場するが、
そこに息づく人々は常識を持ったキャラとして描かれるのに対し、
一刻館の住人だけは、るーみっくわーるどのDNAを継いだ
明らかに異質なキャラとして描き分けれている。
その中でも、2つの"素材"の落差が群を抜いて激しく、
一刻館の特異性を象徴する住人が、「四谷さん」である。
「四谷さん」は、身なりや口調は"紳士"でありながら、
思考や行動は"変人"そのもので、趣味はのぞき、特技はたかり。
隣のに引っ越してきた五代の部屋に穴を開け、
事あるごとに五代のプライベートに干渉していき、
五代とヒロイン・響子との関係性をややこしくしている。
一見するとこの人物、五代の邪魔をしているように見える。
しかし、ストーリーを注意深く追っていくと、
実はただの1度も、五代と響子の縮まらない関係を
本気で害した事がない事に気づくだろう。
この変態紳士が、どのように五代達と関わったかを振り返ってみる。
まずは五代の最初のガールフレンド「七尾」。
五代が部屋の穴を塞ぎ、密室で2人っきりの状況を作り上げた後、
いいムードになって、いざ迫ろうとした所で、
再び壁を壊し、穴の奥から「お・ま・た・せ」と出てくる。
続いて五代の教育実習先の女子生徒「八神」。
腰の引ける五代の部屋に強引に押し掛けてきた時に、
「八神」を自分の部屋に引きつけ、管理人室に逃げ込んだ五代に
遠回しに弥明後日までの夕飯をたかっている。
「四谷さん」は、五代の本命ではない女性には邪魔をするが、
五代の意中の相手である響子へは間接的なアシストをしており、
甲斐性の無い五代と、踏ん切りの付かない響子を
何かと気にかけ、2人の間を取り持とうとしている事が分かる。
その証拠に、五代が響子と結ばれた事を告白するシーンでは、
「よかったじゃないですか」と、純粋な笑顔で祝福した。
このように、自分のキャラを確実にストーリーに絡め、
読者の印象に残るような登場の仕方をしているのである。
―――
『めぞん一刻』では、たとえ脇役であっても
ストーリーを動かす着実な布石として用いられており、
囲碁の名人の一手がごとく、キャラを無駄に使わない。
例えば、 五代と響子の関係が壊れかねないラブホテル事件が起きた時、
事件の原因はいかにも"扇情的"な「朱美さん」が作り、
「七尾」のいつもの"かん違い"が大きな誤解を生んで、
「二階堂」の"鈍感さ"が誤解を解くきっかけになっていたりする。
話のダレがちな終盤になっても、それぞれのキャラがきっちり顔を出し、
納得の行くストーリー展開を生んでいるのである。
後発キャラの「二階堂」まで無駄に使用しない辺りは流石としか言いようがない。
近年における漫画では、キャラは消費するものになっており、
"素材"がその人物の全体像を表さなくなってきている。
ファストフードのように適当な味付けでも、お腹を満たせれば
読者はそれで満足だろうが、"素材"の味を知る事もまた必要であり、
それを教えるのは優れた作家にしか出来ない事なのだ。
高橋はそれが出来る、漫画界の三ツ星シェフである。
人間性を描く事は、作品を残す上での根幹だと言える。
それが表面的であるほど、読後には軽い印象しか残らない。
漫画においてキャラクターが最も重要だと言われる所以はここにある。
ご清覧ありがとうございました。