漫画道場

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【中級】記号論

【中級】象徴と伝える技術

ゴールデンボーイ

↑言ってる事は分かるけどね…もはや漫画である必要ないよね。


漫画の表現の上で、叙述=文と、映像=絵によって 
作者と読者との間に共通認識が構築される事は、 
入門編『スラムダンク 』の回で述べた通りだ。 

この考え方は、アメリカの言語学者である、 
チャールズ・パースの提唱した記号論に基づくものである。 
記号はアイコン・インデックス・シンボルに三分され、 
これを漫画に当て嵌めると、以下のようになる。 


・アイコン「図像」 
 映像=絵。登場人物や背景画を指す。 

・インデックス「指標」 
 叙述=文。台詞やナレーションを指す。 

・シンボル「象徴」 
 作者の伝えたい事。主義主張やテーマ性を指す。 


漫画家が漫画を描く。 
それは"象徴"を伝える事と同じ意味である。 

ある漫画家は高い画力でそれを伝えたい。 
ある漫画家はストーリーの巧みさでそれを伝えたい。 
ある漫画家はキャラでそれを伝えたい。 

伝え方は違えども、伝えたいものは自分自身の存在意義だ。 


台詞の秀逸さや絵の美しさだけでは作品として成り立たない。 
叙述と映像は伝達の手段であり、目的にはなりえない。 
作者の"象徴"がまず明確化され、そしてそれが 
絵と文を用いて、いかに面白く読者に伝えられるかが、 
作者と読者との間に共通認識が生まれるかどうかを分ける。 
大事なのは3つの記号のバランスだ。 

例えば、作者の主張を登場人物にそのまま代弁させれば、 
作者の意図する"象徴"が読者に伝達される事は明らかだが、 
それで面白いかと言えば、物足りないというのが本音だ。 

絵と文章がバランス良く組み合わさって説明されていれば、 
沢山の読者と面白いという共通認識で結ばれて、 
一般的には面白い作品だと言われるようになるだろう。 
表現力が高いと読者にもより伝わりやすいし、 
それだけ多くの支持も得る事が出来る。 

だが、絵や文章の力が不足してたり難解だったりして、 
共通認識で結ばれる読者の数が少なくても、 
伝えたいものが一貫していたり、ユニークだったりすれば、 
それをキャッチ出来る読者から支持を得る事が出来る。 
やはりそれも、面白い作品であるのだ。 


漫画には、作者の"象徴"が読者に伝わりにくい作品がある。 
作者の表現したい事に技術が届かないケースが大半だが、 
中には、作者の表現が読者の理解を追い越してるものもある。 

次回は、『3月のライオン』が読者に伝わりやすい理由を、 
その次は、『HUNTER×HUNTER』が伝わりにくくなった理由を、 
2回に分けて解説していこうと思う。 
 


ご清覧ありがとうございました。

【中級】『3月のライオン』の心象描写

3月のライオン

↑まるで文芸小説に挿絵が付いたかのような表現力。


『3月のライオン』の作者である羽海野チカは、 
文芸小説に用いられる叙述的な心象描写を、 
そのまま絵に表す事の出来る、表現力の高い漫画家だ。 

一手一手、まるで素手で殴ってるような感触がした、とか、 
香子はひびの入ったグラスみたいな女の子だった、とか、 
いかにも小説的な比喩表現を使っている文章に、 
硬く握り締めた拳の絵や、半ばまで脚が水に浸かった絵など、 
描画技術によって的確に心象状態が表されている為、 
登場人物の気持ちがとてもよく伝わってくる。 

こういった描写に優れた作家は女性の漫画家に多いが、 
その多くが恋愛の話に依存して共感を得ているのに対し、 
羽海野はプロットまでもが小説の組み立て方と同じで、 
テーマ性に主眼が置かれているのが特徴である。 


――― 


『3月のライオン』は夏目漱石の『こころ』に似ている。 

「家も無いし」 
「家族も無い」 
「学校にも行って無い」 
「友達も居無い」 

アナタの居場所なんて、この世の何処にも無いんじゃない? 

という義理の姉・香子の台詞で始まる本作。 
主人公の桐山零くんは、そんな言葉を思い出しながら、 
引っ越しの荷物も未開封のまま、窓にはカーテンも付いてない、 
カーペットもない床板に直に敷いた布団の上で目覚める。 

桐山くんは幼くして家族を交通事故で亡くした事で、 
父の親友だった将棋一家の養子になり、そこで 
あまりの将棋の強さゆえに義理の姉弟から嫉まれる。 

桐山くんの心を支配しているのは"自己否定"だ。 
そしてそれは夏目漱石の生涯のテーマでもあった。 


漱石の作品は"自己肯定"か"自己否定"のどちらかがテーマで、 
『坊ちゃん』が"自己肯定"の代表格であるとするなら、
『こころ』は"自己否定"の精神が最もよく表された作品だ。 

「K」は"自己否定"をしながら道を求め続け、 
それが叶わずに最期は自分の存在を自分で絶った。 
「先生」は「K」の自殺を自分のエゴイズムのせいだと考えるも、 
苦悩の末に、やがて「K」と同じ"自己否定"に行き当たる。 

桐山くんも同じだ。義理の家族の家を出てから、 
1人暮らしを始め、高校にも通うようになるのだが、 
結局そこでもずっと孤独に、自分をひたすら消して生きた。 
自分はカッコウと同じだと"自己否定"する事で、 
自分のせいで将棋を諦めた義理の姉の面目を保とうとしていた。 


――― 


「K」は自殺する日の晩、隣の部屋で寝ている 
「先生」との間に仕切られた襖を少しだけ開けている。 
誰も寄せ付けず、ずっと心を閉ざしたままだった「K」は、 
「先生」にだけは心の襖を開いていたという事だ。 

「先生」もまた自殺する前に、妻にも開いていなかった心を、 
"遺書"という形で書生の「私」に残している。 
「K」と同じ孤独を抱えながら、「K」を理解しなかったのが、 
「K」の自殺を通じてようやく孤独の意味を理解したのだ。 


桐山くんも何も無い部屋の中で、孤独に喘いでいた。 
必死に泳いで空虚な生活から逃げてきたのに、 
泳ぎ着いた先もやっぱり何も無い無人島だった。 
将棋だけが自分が生きている存在意義だったのだが、 
自分の存在を消して"自己否定"をしていた桐山くんは、 
将棋においても自分を大切にしなくなった。 


だけど、桐山くんには二階堂くんが居た。 
桐山くんの心の中にぐいぐい上がり込んでいって、 
何も無い部屋にソファーベッドと羽毛布団を置いて帰る。 
「K」が「先生」の部屋の襖を開けていたように、 
この心の距離感が2人の関係性を表現している。 

二階堂くんも桐山くんと出会う前は、難病で友達が作れず、 
盤上で強くなる事だけが拠り所のひねくれてた子だったのだが、 
自我のカタマリに成り果て、孤独だった二階堂くんの 
アタマをかち割り、救ってくれたのが桐山くんだった。 

桐山くんの将棋がおかしい事に気付いた二階堂くんは、 
自分の将棋を大切にしてくれ、と桐山くんに訴えかける。 
それに対して桐山くんは、自分の事で一杯いっぱいで、 
二階堂くんの言葉の意味を理解しなかった。 

「先生」が「K」を理解する唯一のチャンスの時に 
自分のエゴイズムを優先させてお嬢さんに求婚したように、 
桐山くんも二階堂くんの言う自我のカタマリになっていて、 
二階堂くんと同じ孤独を背負い込んでいたのに、 
そこからずっと目を背け、逃げ続けていたのだ。 


――― 


そんな時、二階堂くんが新人戦の準決勝で倒れ、入院した。 
「K」は死を選ぶ事で"自己否定"を完結させたが、 
二階堂くんは倒れるまで自分の生きる証である将棋を指し続けた。 
桐山くんは死の影が忍び寄る二階堂くんの残した棋譜を見て、 

戦ってるんだ 
みんな たったひとつの 
小さな自分の居場所を 
勝ちとるために 

と、自分への決意を固める。 

そして決勝戦での対局中、また自暴自棄になって 
自分を見失うような強引な一手を打とうとした 
桐山くんのアタマを、自分を大事にしてくれ、と言った、 
二階堂くんの言葉がかち割ったのだ。 

桐山くんは「先生」のようにはならなかった。 
孤独の中で思い出したのは独りぼっちの苦悩ではなく、 
孤独と戦いながら生きてきた人達の事だった。 
彼はついに"自己肯定"に至り、自分を守る術を知る事で、 
自分の心を取り戻したのである。 


――― 


『3月のライオン』は、夏目作品とも比較できるくらい、 
心象描写に優れ、メッセージが読者の心に深く刻まれる。 
同じ"自己否定"から"自己肯定"に至った作品なら、 
最近では『新世紀エヴァンゲリオン』が有名だが、 
『3月のライオン』がこれだけ分かりやすいのと比べたら、 
『エヴァ』はとても分かり難い作品だと言える。 

なぜか? 

解釈項の中に、余計なステップが混じってるからである。 

『エヴァ』と読者が共通認識で結ばれる為には、 
フロイトの心理学やキルケゴールの実存哲学などを 
読者が予め知っている必要がある。 


つまりこう↓ 


【3月のライオンの解釈項】 
"象徴" → 記号化 → "象徴"の理解 

【エヴァの解釈項】 
"象徴"→ 学論 → 記号化 → 学論への理解 → "象徴"の理解 


"象徴"をそのまま叙述や映像で記号化しているものは、 
絵や文章を見るだけでそれが伝わり、理解が出来る。 
『3月のライオン』はそういう作品だから分かりやすい。 

しかし、"象徴"が薄まったりブレたりした時や、 
叙述や映像が"象徴"ではない別の何かを表している時など、 
それを読み解くのが困難になる場合がある。


次回は、『HUNTER×HUNTER』がなぜ分かり難くなったのかを、 
『ジョジョの奇妙な冒険』と対比させながら解説してみる。 


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ご清覧ありがとうございました。

【中級】冨樫義博の挑戦

HUNTER×HUNTER

↑ゴンの表情に注目。


『HUNTER×HUNTER』の冨樫義博は、ビジョンを持っている。 
『レベルE』を連載していた頃に作者自身が語っていたように、 
最初に着想があり、それを自分の中で暖めておき、 
時間を置いてから何かのきっかけで別のヒントを得た時、 
それが最初に得た着想と結び付く事があるそうだ。 

卵は放っておくだけでは孵化しない。 
抱卵して暖める事で、新しい命が内側から殻を破る。 
冨樫が休載するのは、抱卵が必要な為だろう。 
そこでようやく冨樫のビジョンが作品に落とし込まれる。 


『幽☆遊☆白書』の頃は、まだビジョンは無かった。 
他の少年漫画のプロットに着想を得て、それを流用して 
自分流にアレンジしているような作品であった。 
だが、『幽白』は魔界編より以降、少年漫画から脱却する。 
連載によって洗練され、むくむくと起き出した冨樫の"象徴"が、 
少年漫画の枠組の中に収まり切れなくなったのだ。 

冨樫は勧善懲悪を越えた"人間性"を描こうとした。 
読者の『幽白』の認識は、暗黒武術会の『幽白』である。 
暗黒武術会のプロットを魔界統一トーナメントでもやれば、 
読者の支持をずっと維持する事は出来ただろうが、 
冨樫はそれを許さず、連載を終わらせた。 

読者から見たら、それは「変わった」という認識だろう。 
少年漫画の読者が望むものは、少年漫画であるからだ。 
読者の認識と違う、象徴性が強まった『幽白』を見て、 
つまらないとか、面白くないという意見が出ても然りと言える。 
だが、冨樫の漫画は決して劣化した訳ではない。 
"象徴"が読者の理解を越え、認識が一致しなくなっただけだ。 
それは次作の『レベルE』で証明された。 


――― 


『H×H』では、『レベルE』で試された新しい枠組作りを、 
今度は少年漫画のプロットを利用して伝えられた。 
偉大なハンターである父親を探して旅に出るという、 
いかにもありがちな使い古されたプロットを流用しながら、 
揺るぎない強い信念を持った登場人物が、協力し合い、 
また相反し合いながら、1本のストーリーを紡いでいくという、 
作者の手から離れた所で作品をコントロールする、 
キャラクター重視の手法が取られている。 

実は、『H×H』の連載開始から遡ること十数年前、 
かわぐちかいじが『沈黙の艦隊』でこの手法を確立している。 
小説でもよく言われるのが、キャラクターが独り歩きをすると、 
作者の"象徴"が最初と最後で変わってしまうという事だが、 
『H×H』や『沈黙の艦隊』は、最初にキャラクターを固める事で 
ストーリーを脱線させる事なく"象徴"に導いている。 

『ブラックジャックによろしく』や『東京大学物語』は、 
作者の主観がストーリーに介入しすぎて、登場人物が 
作者の"象徴"を代弁するただのメッセンジャーになっていた。 
ストーリーを完全な客観によってコントロールする事は 
優れた小説家でもなかなか出来る事ではなく、 
実際に日本人が書く文学作品には私小説が非常に多い。 

冨樫は海外作家のような俯瞰の目線で作品を作る、 
音楽に例えれば、指揮者のような役割に徹している。 
冨樫の伝えたい事、つまり"人間性"は、登場人物の表情で表している。
10の台詞を並べるより、1つの表情で伝えようとしているのだ。
まさに漫画という媒体の特徴を活かした表現である。
だから人物の心情がどんな台詞より伝わるのだ。


――― 


『ジョジョの奇妙な冒険』では、『H×H』と逆の手法が取られる。 
『ジョジョ』の作者・荒木飛呂彦も、冨樫と同じように 
初めは少年漫画の枠組の中で漫画を描いていた。 
しかし、第5部の後半から少年漫画にマッチしなくなり、 
第6部からは読者の理解を越えた作品になっていった。 

たがこれも、荒木が目指そうとしていた"象徴"が、 
読者の『ジョジョ』に対する認識と乖離していった為で、 
当然ながら作品自体が劣化した訳ではない。 

『H×H』は最初にキャラクターをがっちり固める事で 
その後のストーリーの脱線を防いでいたが、 
『SBR』はが最初にプロットを線路のように敷いて、 
そこからはみ出ないようにキャラクターを動かしている。 
荒木の描くキャラクターは、線路を走る列車に乗った乗客である。 

第7部では、相対性理論や特異点定理、回転と重力の関係など、 
難解な学論に着想を得ていると思われる為、 
『エヴァ』と同様の分かり難さが障壁となっているが、 
荒木の描く"象徴"は、とてもシンプルなもので、 
生きる事に背を向けたジョニィの"成長"を追っている。 
これは最も人気のあった第3部の頃より巧みに描かれていて、 
劇場型とも言うべき手法は、究極の域に達した。 


――― 


手法こそ違えど、"象徴"を一貫したものにする構成力の高さは、 
冨樫義博も荒木飛呂彦も、他のジャンプ作家より抜きん出ている。 

共通認識で結ばれる読者数が前より減ったとしても、 
どちらも優れた漫画家である事に変わりはないだろう。
 


ご清覧ありがとうございました。

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