銀魂

↑表現規制の矛盾点を皮肉たっぷりに言い当てている。


世界における日本の立ち位置というのは、どういったものか。
これこそクールジャパンで最も重要なポイントであると見られる。


日本と韓国のブランド価値を比較するのが早い。

韓国は世界経済がブレーキのかかった2009年以降も着実に成長を遂げ、
製造業などで日本を凌駕するほどの外需大国になった。
韓国のイメージは飛躍的に向上したとは言えるだろうが、
サムスン経済研究所が今年2月に発表した各国の国家ブランド価値によると、
韓国は実体が15位、イメージが19位という調査結果を出しており、
「周辺国からの認識は変わっていない」と冷静に分析している。

一方の日本は、実体が4位、イメージが1位という結果だ。
日本はいまだに「憧れ」の存在なのである。


まず認識すべきは、「憧れ」の対象が"日本"ないし"日本人"だという事で、
日本の独自コンテンツへの「憧れ」だと見誤ると、痛い目を見る。
クールジャパンを阻む3つの障壁、即ち、造形・コンテクスト・文化の違いは、
まず乗り越える事が不可能な、如何ともし難いものである。
つまり、この壁にまともに挑みかかるのは上策とはとても言えない。
別の角度から方策を練る必要があると、ここでは定義しよう。

日本のストロングポイントは何か?
「憧れ」という観点から、これを論じていきたいと思う。


―――


日本への「憧れ」の起源は、13世紀(鎌倉時代頃)のヨーロッパに、
かのヴェネチアの商人、マルコ・ポーロが伝えた『東方見聞録』に遡る。
この頃はまだ東洋の伝説に過ぎなかったのだが、
1854年の江戸開国を契機に実態となり、ヨーロッパでジャポニズムが起こる。

ジャポニズムが流行する以前のヨーロッパを、象徴するデータがある。
それが、都市別に見た市民の識字率だ。

18世紀のヨーロッパはエリートにしか教育を受ける権利が認められておらず、
識字率がロンドンが20%、パリが10%と、信じがたいほど低い数字が並んでいる。
それに対し江戸は70%と、当時としては驚異的な高さである。
江戸時代の高度な大衆文化の背景には、「読み書き算盤」の民間教育があった。


江戸時代にもやはりハイカルチャーは存在した。
漢詩や和歌、能や狂言など、古来から引き継がれてきた貴族文化がそれに当たる。
しかし、江戸時代が他の時代と決定的に異なるのは、
民間教育によって育まれた町人の高い知恵が貴族文化を理解し、
完全に会得してオリジナルの大衆文化を次々に生み出した所、
またそれを生み出す下地として、200年以上の太平が続いた所にある。

例えば、尾形光琳は公家から直接仕事を依頼される民間デザイナーであったが、
同時に公家文化に使われていた芸術的なデザインを、
町人が使用する日常品にも施し、大衆文化のレベルを引き上げた人物である。
しかも恐るべきは、町人がその卓越したデザインを理解した事だ。


ヨーロッパでウケたのは、日本の貴族や公家の文化では無い。
サブカルチャーである大衆文化に驚嘆の目が集まった。
なぜなら、これほど高い文化が一般市民にまで広く浸透している事が、
ヨーロッパでは常識を覆すほどの大事件だったからである。


―――


クールジャパンがジャポニズムと比較されるのは、
日本のハイカルチャーではなく、サブカルチャーが受け入れられている為だ。

江戸時代の大衆文化には芸術が取り入れられている事はご理解頂けただろう。
では、現代の大衆文化である漫画やアニメ、ゲームなどに
江戸の町人が生み出したような優れた精神性や芸術性が有るかどうか、
実はこの点が、現代では江戸時代ほど理解をされていない。


例えば漫画。漫画があまりにも簡単に読めすぎてしまう事は、
夏目漱石の令孫、夏目房之介の著書『マンガはなぜ面白いのか』にある通りだ。
しかし、簡単に読めすぎてしまう事で、そのものまでが簡単であると、
そう思われているのが、悲しいかな、漫画の現状である。

漫画のネームを描く時、顔の下絵には縦と横に中心線を引く。
何気なく、自然にやっているので気付かない人も居るかもしれないが、
この時のお手本となる比率は、前回に述べた「白銀比」が基になっている。

それからキャラクター、これはキャラクター論で述べた通り、
「記号論」の中でも最も難しい「シンボル哲学」で示されている内容を、
いともたやすく実践し、魅力的なキャラを創作するに至っている。

そしてこれを「子供にも分かる」ほどに作中に上手に落とし込み、
難しさを感じさせないほどすんなりと読めるようにしたのが、漫画である。
ここに挙げた例はほんの一例にしか過ぎない。

アニメやゲーム、その他映像作品についても同様で、
日曜の朝に放送される子供向けの仮面ライダーやプリキュアにまで、
相対性理論などの難しい学論や、黒沢明が使用した映像表現を、
子供でも簡単に見れるレベルにまで落とし込まれている事は、
それぞれのファンから毎年のように指摘されている。

知らないのは、ハイカルチャーこそが日本の正統文化だと信じてやまない、
サブカルチャーを子供のものと決めつける大人だけなのだ。


―――


日本の知的財産は、「子供でも分かる」フォーマットで作られていて、
それが海外に引っ張りだこであるという。

例えばテレビ番組は、制作した番組=ソフトではなく、
番組のフォーマットを丸ごと海外に輸出し、成功を収めている。
「SASUKE」が海外でブーム、という話を耳にした事がある人も多いだろう。

海外での日本への関心は非常に大きいもので、「憧れ」と呼ぶ他にないほど、
多様な文化を生み出す日本人は、世界中で肯定的に捉えられている。
だが、造形・コンテクスト・文化の違いによって、
日本製のソフトは海外では受け入れられず敬遠される事が多かった。
その為、制作に必要なフォーマットだけ売り込む手法が、
テレビ業界を中心に取られるようになった。

これに続いたのがAKB48で、アイドルを売り出すフォーマットを
そのままジャカルタに輸出し、「JKT48」なるユニットを生み出した。


では、日本が世界に誇る漫画やアニメはどうかと言うと、
フォーマット競争からは遅れを取り、今でもソフトを売り込もうとしている。
Puffyを例に挙げると、海外でこの2人のアニメ著作権を取得したのは、
日本のアニメ制作会社ではなく、米国のカートゥーンネットワークである。

しかも日本は、漫画やアニメに輸出産業としての価値を見出した頃から、
輸出の障壁となる「子供」を感じさせる表現方法の規制を強化し、
「子供から大人まで楽しめる」はずだった大衆文化を、
わざわざ「子供」と「大人」に分けて売り出そうとしている。
ソフトではなく、フォーマットに対しての規制というのが問題点だ。


最も顕著な例が、あの悪名高い東京都の青少年保護育成条例である。
結論から言うなら、この試みはマイナスの経済効果を生んだ。
都知事自ら開催を提案した東京国際アニメフェアの出展者と来場者を減らし、
余ったシェアを中国に根こそぎ奪われた為だ。

参照:朝日新聞〈甲乙閑話〉アニメフェアの分裂で
http://www.asahi.com/showbiz/manga/TKY201204170284.html

日本のストロングポイントは、ハイカルチャーで培われた
高い精神性や芸術性を、「子供にも分かる」までに落とし込んだ所にある。
かつて石ノ森章太郎が"漫画"という言葉に対し、面白いだけでなく、
様々な表現を用いる事が出来るようになったとして、
万人の嗜好に合うという意味の"萬画"という言葉に置き換えたように、
大衆が育んだ漫画やアニメなどのサブカルチャーは、
他国では見る事の出来ない、万人の為の貴重なフォーマットであったはずだ。
そこを、規制論者は読み違えていたのだ。

日本のサブカルチャーは、表現規制との戦いの連続であった。
男女のセックスが認められなければ、「やおい」などの表現が生まれ、
裸体を描く事も取り締まられると、そこから「萌え」が生まれた。
新しい表現の創出は、このようにして行われてきた。
そうしなければ出版業界は生存競争を生き残れなかったからである。

出版業界はコンテンツ産業の中では最も早くに衰退を迎え、
1997年から市場が縮小傾向にあるが、この前年となる1996年、
ストックホルムにて児童ポルノに反対する世界会議が開催され、
日本でも同年に国会で審議入り、業界でもこの年から自主規制を始めている。
この件はむしろ積極的に取り締まるべきだとは思われるが、
表現規制と市場縮小には高い相関性が見られるのは間違いない。


やたらめったらと規制を振りかざせば、その分だけ創作性は萎縮する。
漫画表現には、素性のはっきりとした精神性および芸術性と
使い回しの利くフォーマットが存在する事は、萌え論などで示した通りだ。
では、このコンテンツの文化背景をも正確に把握していた人物が、
規制論者の中に果たしてどれだけ居ただろうか。
規制の対象に挙げられるエロパロディを描いていた同人出身の作家の中には、
文化庁が推薦したあずまきよひこや吉崎観音も含まれている事を、
規制に賛成した議員のいったい誰が理解していただろうか。

これ以上の表現規制が続けば、さらなる市場縮小は免れないだろう。


―――


当道場の結論を述べよう。

漫画やアニメも、テレビ業界のようにフォーマット販売に着手し、
ソフト依存から脱却を図るべきである。
権利の上で優位に立つ日本が海外で苦境に立たされるのは、
自分のストロングポイントを伝え切れていないからだ。

ソフト規制はもちろん必要であるし、より議論されるべきだと思うが、
表現方法にまで議論が及ぶのは、断じて許されるべきではない。
フォーマット規制は経済論の観点から見ても害悪にしかならない。
例えるならそれは、海外で浮世絵が人気であるのに、
けしからん絵があるからと言って国内で全てを規制をするようなものだ。
江戸時代にも確かに春画(エロ本)へのソフト禁令は出ており、
海外への輸出においても春画だけは見送られていたとは言え、
表現方法に対して具体的な規制が取られた事は無い。
後の明治政府が輸出に踏み切った際も、ソフト規制までに留めている。

葛飾北斎や歌川広重などの大作家も、春画を描いていた。
しかもそれは西洋には存在しない、直線と曲線を組み合わせた、
不規則で非対称な構図を用いた芸術的な表現方法で描かれていた。
もしもこの時、江戸幕府がフォーマット規制に及んでいたら、
黄金比の芸術に縛られすぎていた西洋の絵画の構図は、
ずっと早くに行き詰まりを迎えていたに違いない。

表現方法にまで軽々しく口を出してしまうと、
こういった可能性の芽も摘みかねないのである。


日本が優れているのは、コンテンツ産業そのものではない。
AKB48が素晴らしいアーティストで、萌えアニメが世界に通じるアニメだとは、
おそらく日本人ですら胸を張って答える事は出来ないだろう。
海外が「憧れ」ているのも、日本のコンテンツに対してではなく、
多様な文化を生み出すフォーマットの方なのだ。

考えてみて欲しい。他の企業に営業をする上において、
自分のストロングポイントを理解しないまま売り込む営業マンが居るかどうか。
日本が「国策」としているサブカルチャーを中心としたコンテンツ産業は、
このような自信の無い営業マンに浮沈の行方を託しているのである。


しかしながら、日本の現状は悪いばかりではない。
デジタルコンテンツ産業がどのジャンルでも右肩上がりにあるなど、
光明のさしている分野もいくらかある。

次回は、デジタルコンテンツ産業とフォーマット競争の現状について、
今度は肯定的な立場から述べていこう。
 



ご清覧ありがとうございました。