正規分布

↑信頼率(1-α)の高い一般的な意見を採択した時の、
 オタクの認識への過誤を犯す確率(α)の図。たぶんあってる。

 引用:ようこそ、化学標準物質の不確かさへのいざない様
 (http://staff.aist.go.jp/t.ihara/confidence.html)より


「オタク」という言葉を聞くと、すぐに思い浮かべるのが、 
いわゆる秋葉系の、アニメや漫画などにどハマりしている男性でなかろうか。 

実際の所、それは一般人から見たステレオタイプなイメージに過ぎず、 
『仮面ライダー555』の半田健人は中川翔子と比肩するほどのネ申オタであるし、 
アスリートとして名高い柏原竜二や成田童夢もガチオタとしても有名だが、 
一般認識として、肯定的な捉え方をされる事は少ない。 
とかく、「オタク」はイメージがすこぶる悪い。 


「オタク」の定義には色々な解釈があり、例えば評論家の東浩紀は、 
キャラクターなどの愛玩的対象を構成する無数の記号を、 
自分の中に予め集積してあるデータベースと照合し、 
自分好みのものに選好して消費する人物を指すとしている。 

ただし、これは狭義的な観点から見たオタク像であり、 
先に挙げた半田健人の例には当てはまらない。 
自らをオタキングと名乗る岡田斗司夫は、SFオタクを自称する為に 
古今東西のSF作品を嗜好の有無に関わらず1000作品を観賞し、 
SFの知識を深めた事でオタクの王の地位を得たそうだ。 
広義の「オタク」は、選好などせず手に取ったものを片っ端から消費し続け、 
幅広く知識を取り入れた人物を指していると見るべきだろう。 


最も「オタク」を端的に表したのが、『バカの壁』の養老孟司が示した数式だ。 

 αx=y 

一般の人は、脳内入力 x にかかる脳内出力 y の値はイコールだが、 
「オタク」は、入力 x に係数 α が乗算される為、出力 y が膨大になる。 


―――


「専門家(マニア)」と「オタク」の違いはどこにあるか。

例えば小説や映画などのハイカルチャー評論を行うマニアと、
漫画やアニメなどのサブカルチャー評論を行うオタクは、どう違うか。
どちらも係数と出力の偏りの度合で言えば同じ意味となるだろう。


異なる2つのサンプル群のどちらが有益な情報かが未知である場合、
多くの人は自分の経験則、即ち主観によって情報を検定する。

 仮説(1) 「ハイカルチャー」は「サブカルチャー」より有益である。
 仮説(2) 「ハイカルチャー」は「サブカルチャー」より有益でない。

この時、"有益である"との仮定に基づく説を"対立仮説"といい、
"有益でない"との仮定に基づく説を"帰無仮説"という。
帰無仮説は、初めから棄却されて無に帰する事を前提としている。
このような仮定が現実に満たされるかは実証の問題で、
幾度もの反証テストを経て、信頼性の強度を勝ち得た仮説が、
晴れて一般論として広く認識されるのだ。

「マニア」は、こうした反証に支えられたハイカルチャーを論じる点で、
「オタク」が出力する情報とは違うと判断する事が可能である。
文学や映画は、優れた文化であるとして既に一般化している。
半田健人も昭和歌謡の知識において大作曲家の阿久悠にも認められたほどだが、
それもやはり時代を知る世代に歌謡曲が共有されてきた裏付けがあるからだ。


しかし、「オタク」を定義する上においても、
そのような反証が実際に行われたかどうかは疑わしい所だろう。

例えば漫画の場合、手塚治虫の時代から記号論が用いられている事が知られ、
現在では文芸小説にも劣らない高い文学的な技術や、
難解なテーマを作中に見事に落とし込んだ作品が数多く見られる。
アニメの場合でも、宮崎駿とジブリ作品を初めとして、
映画にも引けを取らないほどの印象的な映像表現を駆使し、
世界的に認められた作品の例はいくらでもある。
これは、別の仮説からの反証によって対立仮説を覆せる事の証明である。

だが、サブカルチャーに対しての反証が共有されてきた例は、
手塚や宮崎作品などを除いてほとんど存在しない。
サブカルチャーはハイカルチャーの付録だと思われているからだ。
情報を精査する上で有益な情報が選ばれるのであれば、
小説や映画より、漫画やアニメが劣っているものと主観的に判断し、
帰無仮説として棄却する事は、充分に理屈に反している。

このように、1つの仮説に対して補助仮説を立てて反証する考え方を、
デュエム-クワイン・テーゼ(決定不全性の命題)と呼ぶ。
物事には、色んな見方が必要だ。 


―――


一般的な認識と「オタク」の認識の違いの表し方は、偏見による所が大きい。
両者を区別するのは、出力された情報の大きさや深度ではない。
出力を受け取る側の情報許容量="有意水準"によって区別されるのである。 

一般化された情報の場合、情報を受け取る側の有意水準が高く、 
有意差も"正常なバラツキの範囲内"として見られるだろうが、 
「オタク」が出す情報だと、受け取る側の有意水準がおおむね低くなる為、 
有意差を"異常な値"として認識される場合が多い。 

共通理解の多い情報に対して100を出力できる人は褒められても、 
共通理解できない情報に100を出力されると気持ち悪がられる、という事になる。 
特に、東浩紀が著書の中で「動物化している」と表現した、 
美少女コンテンツを対象とする入力にセクシャリティの係数がかかる場合は、 
出力される値が正常だと一般的に認識される事はまず無いだろう。 

「オタク」はこのようにして、一般認識という有意水準から外れた 
はみだし者として扱われ、存在を否定されるのである。 


次回は、カフカの『変身』とキルケゴールの実存哲学から、
「オタク」の定義における補助仮説を挙げていこう。
 


ご清覧ありがとうございました。