↑『同級生』と『To Heart』、どちらが"黄金比"に近いか?
現在の「萌え」を芸術美の完成、つまり"黄金比"としてみた場合、
"黄金比"が確立する前の「萌え」の原型となる絵柄は、
90年代に流行した、恋愛をテーマにした漫画やアニメ作品、ゲームなど、
美少女ものとして区分されるコンテンツの中に見られる。
1997年、『新世紀エヴァンゲリオン』の再放送を受けて、
深夜アニメの採算性が見込まれるようになり、
かつてのアダルトコンテンツは、劇画調が主であり、
テレビ東京を中心にアニメの放送枠が急速に拡大した。
これより以前ならOVAとして作られただろう美少女ものの作品群も、
深夜枠を利用して地上波に流入する事となる。
が、同時期はTV業界全体で自主規制の嵐が吹き荒れる真っ直中であった。
98年には『ギルガメッシュないと』が打ち切りとなり、
深夜アニメにおいても、OVAでは積極的に用いられたお色気シーンの数々を、
地上波でそのまま適用する事は難しい状況にあった。
そこで白羽の矢が立ったのが、既に表現規制の問題をクリアし、
ブームを呼んでいた美少女ゲーム(ギャルゲー)のアニメ化である。
ヒットの要因は、美少女を美少女として描く作画技術の高さにあった。
―――
もともとギャルゲーは、アダルトゲーム(エロゲー)から派生したものだ。
美少女コンテンツの草分けは、92年発売の『同級生』とされているが、
同作品はエロゲーとして先にヒットを収めており、
家庭用ゲーム機に移植される際、「エロ」を完全に取り除く事で、
美少女として描かれた人物画と、背景となる心理描写が残った。何をもって"美少女"とするかは様々だが、客観的には美しいと認識されるには、
端整な顔をした若い女性を、誰にでも分かるように美しく描く必要がある。
『同級生』の原画家・竹井正樹は、それに相応する作画技術を持っていた。
エロゲーもギャルゲー同様、万人を説得する力が絵に無ければ、
審美眼の厳しいユーザーから冷たく見放されてしまう。
こうした技術的な下地があったからこそ、「エロ」が無くとも
キャラクターに深く感情移入する事が可能な美少女ゲームになりえたのだ。
しかし、「萌え」と比較した場合、竹井の絵は"黄金比"から外れている。
どちらかと言えば『同級生』より後にヒットした 『To Heart』の方がそれに近い。
前者の絵は顔の輪郭線がはっきり描かれているのに対し、
後者の絵は鼻や頬の線がほぼ省略され、よりデフォルメされている。
かつてのアダルトコンテンツは、劇画調が主であり、
顔の線や陰影は多く、裸体や服のしわも細微に描かれていた。
だが、そうした絵柄が用いられた女性は老けて見られる為、
次第に簡略化した線が用いられるようになった。
こういった特徴を表す作品は、美少女ブームより以前に存在している。
1982年頃に流行した、ロリータブームである。
漫画で言えば内山亜紀、アニメで言えば『くりいむレモン』に代表される、
少女のかわいらしさを強調したような絵柄は当時から人気があり、
それ以外の目鼻立ちの濃い絵柄を市場から締め出すに至った。
『To Heart』は、そうした時代の変化を揺り戻すかのように、
竹井の絵を時代遅れの古臭いものへと追いやったのだ。
同作品は家庭用ゲーム機へと移植され、「エロ」成分が除去された後、
表現規制の風が強まった地上波で、堂々と放送される。
―――
これ以降、より洗練された絵柄が用いられた『シスタープリンセス』が生まれ、
「萌え」が一大ブームとなる礎が築かれていったのである。
「萌え」の"黄金比"となる絵柄は、ロリータブームを起源にし、
『To heart』によって方向性が決まり、『シスプリ』によって広まったと見られる。
―――
「萌え」作品は、こうした市場背景を持っており、
80年代の淘汰を生き残った作家や、それを模倣してきた後続によって
脈々と受け継がれてきた"黄金比"の絵柄によって表されている。
"黄金比"とは即ち、これまでユーザーが「エロ」として消費してきたものだ。
萌え漫画の代表格である『あずまんが大王』のあずまきよひこが、
かつて『淫魔の乱舞』というエロ漫画を描いていた事も、
あながち偶然ではない何かを感じずにはいられない。
「萌え」は、「エロ」とははっきり違う。
それこそ、『あずまんが大王』と『淫魔の乱舞』ぐらい違う。
しかし絵柄だけを見て「萌え」と「エロ」を比較した場合、
ギャルゲーとエロゲーの美少女が同じ"黄金比"で描かれているように、
両者の境界も極めて曖昧になる事は確かだろう。「萌え」とは、パラフィリア(倒錯)の芸術美である。
個人の嗜好、つまりへーゲルの言う即自的な主観が、
ロリコン(少女愛)や、フェティシズム(性対象倒錯)など、
倒錯としての様々な形が存在するだけで、そのメカニズムは全く同じだ。
「エロ」を排除しても残りうる美的感覚が対自的な客観として働く事で、
「X=¬X」というあり得ない数式が成立し、
全く違うものが、あたかもイコールであるように倒錯を起こす。
これが「萌え」の正体なのではないかと思う。
美少女から「エロ」を取り除いても、倒錯によってそれを補完する事は、
『伊豆の踊り子』で言えば、主人公である「私」が、
女湯から身を乗り出して手を振る天真爛漫な「踊り子」を見て、
笑いがこみ上げてくる感覚と同様のものであるだろう。
次回は、へーゲル弁証法的な観点から、
『けいおん!』と芸術美について、 詳細に述べていく。
この記事はアニプレッションに投稿しました。
ご清覧ありがとうございました。
もっと分かりやすい言葉で、分かりやすくまとめたらどう?
これじゃ、正直さっぱりだよ