いまいち萌えない子

↑いまいち萌えない子。「萌え」の"黄金比"から外れている。


2011年1月14日、神戸新聞社が出したアルバイト募集の広告で、 
こんなユニークな問題が出され、話題になった。 

 右のキャラクターがいまいちいけてない(萌えていない)理由を3つ挙げなさい。 

問題のキャラクターとは、通称「いまいち萌えない子」と呼ばれ、 
ツインテール、だぼだぼのセーラー服、ニーソックス、ぺたん座りと、 
いわゆる"萌え要素"を必要最低限に備えているのに、 
どういう訳だがまるで萌えない、全身青尽くめの女の子だ。 

「萌え」については、これまで色んな解釈がなされてきた。 
そして、"萌え要素"は個人の嗜好によって左右される曖昧なものとして、 
見解を統一する定義が述べられる事は無かった。 
ところが、この子はどう見ても「萌え」度合が不足しており、 
その定義付けに解釈の余地が残されている事をはっきりと示したのである。 

「いまいち萌えない子」は、まず目が大きすぎると指摘された。 
それからパースの狂った体型、絶対領域の可視範囲の狭さなども理由に挙げられ、 
全身青尽くめな点は、優れた絵師によって無関係である事も明確になった。 
何と比較して"大きい"、"狂っている"、"狭い"と言っているのか、 
誰も根拠を示していないのだが、この子の空虚に浮いた表情を見ていると、 
なぜだか説得力があるように思えてしまう。 

ここから導き出されるのは、「萌え」は決して個人の嗜好だけではなく、 
客観的な判断基準によっても想起される感情であるという事だ。 


例えば、"絶対領域"という単語をネットで調べると、 

 ただ単に露出があれば良いというわけではなく、 
 「ミニスカートの丈:絶対領域:ニーソックスの膝上部分」の比率が 
 「4:1:2.5」であることが理想(黄金比率)とされ、 
 誤差の許容範囲±25%と言われる。 

と、具体的な数字までかなり詳細に書かれてある。 

もちろんこれは出典元のネタ的な解釈に過ぎないのだろうが、 
どうやら「萌え」には"黄金比"が存在し、その客観的基準により、 
顔パーツのバランスやデッサンの不安定さが指摘され、 
萌える、萌えないの正否判断がなされていると見て良いだろう。 


精神現象学の父・ヘーゲルは、主観と客観が合一に至る流れを、 
正・反・合の3つの図式で表し、弁証法をもって両者の矛盾を克服した。 


・正 =「即自」
 意識や精神など、主観的な考え方(萌え要素)を指す。 

・反 =「対自」
 法則や原理など、客観的な考え方(黄金比)を指す。 

・合 =「即かつ対自」
 主観と客観の合一によって生まれる理念(萌え)を指す。 


「萌え」は"萌え要素"という記号によって消費されるものでは無いと、 
「いまいち萌えない子」は確かに証明していた。 
必要最低限の"萌え要素"を装備していても、"黄金比"から外れていては、 
「萌え」という認識の合意には達しえなかったのだ。 

ヘーゲル弁証法で言うところの"合"に該当する理念が「萌え」であるなら、 
"萌え要素"という主観を、"黄金比"という客観と対比させ、 
「萌え要素=黄金比」となった時に、「萌え」が想起されるという事になる。 
「X=¬X」という回答は数学的には間違いであるが、 
「いまいち萌えない子」に対する回答としては、正解だろう。 


正…萌え要素 = 反…黄金比 

    ↓      ↓ 

     合…萌え 


ヘーゲルが目指したのは、芸術を理念によって体系化する事である。 
「絵にも描けない美しさ」や「言葉に言い表せない感動」を、 
カントは自然美とし、認識できる対象ではないとした。 
ヘーゲルはカントの美学を引き継ぎつつ、精神性と自由をもって 
これらを芸術美として客観的に認識していくようになった。 

ヘーゲルの理論に当てはめれば、「萌え」は美的感覚の一種であり、 
『へうげもの』の古田左介が感じる「数奇」と同様に、 
意識や精神で認識する芸術美として定義する事が出来る。 

ではいったい、「萌え」の"黄金比"はどこにあったのだろうか。 

次回は、萌えが想起されるメカニズムについて、詳細に述べていく。


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