NANA

↑主客一体となったナナと奈々。


1999年、少女漫画から"個人"へと脱却した矢沢あいは、 
『りぼん』を卒業し、他誌へと活動の場を移した。 
5月に『Paradise Kiss』を連載開始、10月に短編『NANA』を発表、 
『NANA』は翌年2000年の5月に連載化し、大ヒットとなる。 

『パラキス』と『NANA』が世に出たのと同じ99年、 
官主導で進められてきたフェミニズム政策によって
男女共同参画社会基本法が成立し、2020年までに
女性の人材を30%に引き上げる具体的な数値目標が立てられた。 
もはや社会の中で女性がどう主体性を発揮するかより、
社会の客体として女性をどう招き入れるかに主眼が置かれた、
実体の無い政策に成り下がっていた。

これ以降、フェミニズムの定義が多様化していき、
男女平等を建前を通り越して、女尊男卑の論調が生まれていく。
ティーン層の性経験率はさらに上昇し、2005年には 
男女比で女子が男子を上回る逆転現象=肉食化が起こるのである。 
男性が抱く理想の女性像は、ここに完全に崩壊した。


――― 


『NANA』では、近年のフェミニズムのキーワードである 
社会的な性の在り方=ジェンダーを作品のテーマの1つとし、 
現代の女性がどのように自分のポジション得ていくのかを描いた。 
主体的な女性を取り上げるのは、『ご近所』『パラキス』と近作続いているが、
以前と異なる点は、男性の客体として身を置く女性の目線を加えて、
主客分かれる2人の女性の生き方をクロスさせている点である。

バンドでひとやま当てる事を夢見る、主人公の1人・ナナは、 
女性として生きる事を拒否するほど確固たる意志の持ち主であり、
ゆえに男性への従属を極端なくらいに畏れ嫌っている。
男性にコンドームを使用する事を求め、それに応じない 
恋人・本城蓮に対しても不満を漏らした事もある。 

もう1人の主人公・奈々は、男性の客体である事を望み、 
男性を消費物として捉えるものの、実体を得る事が出来ず、 
それを求めて男性に依存していく女性として描かれている。 
男性に自分の理想を求め、思い通りにならなければそれを批判する。 
作中に出てくる週刊サーチのカメラマンとの口論が象徴的だ。 

2人のNANAは、お互いの意識が同化を果していた。
おそらく707号室で同居を始めた、その時から。
ナナは"女性らしさ"を、奈々は"個人"としての主体性を、
お互いに足りないものを補い合っていたかのようだ。
幸せな結婚して庭付き一戸建てに住む夢は「奈々」に託し、
目標に向かって突っ走りそれを達成する夢は「ナナ」に託す。
ナナと奈々、2人はコインの裏表であり、
ナナは既に蓮の客体として生きていく事は不可能だった。


少女漫画の鉄則は、「王子様」が必ず自分を選ぶ事である。
何かの行き違いが理由で別の人と形式的に付き合うような事はあっても、
精神は必ず主人公の女性の方を向いてなければならなかった。
ところが、奈々の彼氏・遠藤章司は、東京に出てきて間もなく、
バイト先の同僚・川村幸子との二股交際を始める。
のっけから少女漫画の精神性を全否定する強気の展開だ。

だが、これが女性読者の心をがっちり捉えた。
嘘くさい話で夢心地になれるほど現代の女性はセンチメンタルではない。
『NANA』が『ときめきトゥナイト』の発行部数記録を抜いたのは、
夢から覚めた女性の実状的な共感を得たからだろう。

ナナと奈々、2人の結びつきはここから更に強まる。
ナナが美里ちゃんとディズニーランドに行けば奈々が怒り、
奈々がタクミと交際を始めればナナがキレる。
主客一体となる事で、ようやく2人は1人の理想の女性になれた。
その2人にとって707号室は、2人が認めた住人以外は
何人たりとも侵す事の出来ない聖域だったのである。


――― 


そうしたコインの主客関係も、唐突に終わりを遂げる。
奈々がタクミによって妊娠させられたのである。

ナナにとって奈々は、自分が叶える事の出来ない、
結婚という女性としての幸せを掴む夢を託した半身であり、
その奈々が女性を支配下に置きたがるタクミの子を身篭り結婚する事は、
自分がタクミに従属するも同然の出来事だった。

「嫌だ!絶対に産まないで!」

ナナのこの台詞は、ナナの所有欲から来るものではなく、
バンドで名を馳せるのと同じくらい大事な夢を、
他人によって打ち砕かれる恐怖から出たものである。

奈々にとっても初めて、主体的な愛情をノブの中に見つけていた。
「こうして欲しい」ではなく、「こうしてあげたい」という献身的な愛。
ナナはずっと以前から、夢は自分で掴むものだと考えている。
ゆえに奈々が主体的に夢を叶えるのは、これ以上ないほどに望まれる事で、
自分を支えてくれたノブなら、奈々の夢の相手として相応であった。

しかし、その主体性を根こそぎタクミに奪われた。
奈々に自分の叶えられない夢を叶えて欲しかったナナは
これが原因で、過呼吸症候群に陥ってしまう。


さらに事態は悪化する。
蓮が不慮の交通事故で還らぬ人になってしまったのである。

奈々は当人が何と言おうと、ナナ自身に女性としての幸せを掴んで欲しかった。
だからナナが蓮と結婚したという報告を、我が事のように喜んだ。
たとえ蓮の客体としてでも、ナナの半分だけの心が埋まりさえすれば、
それは自分が叶えられなかった幸せな家庭を築く夢にも繋がる。

「意地ばっかり張ってると幸せが逃げちゃうよ。」

この台詞もまた、他意の無い本心からの言葉だろう。
奈々は失敗の教訓としてでなく、心の底からナナに幸せになって欲しいと願い、
またナナも、そうなろうと最善の努力をしようとしていた。
コインの主客関係は、何もなければ円満に解消するはずだったのだ。
お互いに欠けていた所を幸福という形で充足し、
お互いが主客両方の夢の叶える寸前まで、手中に収めていた。

結局、その夢はどちらも叶う事はなく、2人ともバラバラになった。
ナナが"個人"として不完全な弱さを持っていた事を、
そして奈々が"女性"としての強さを持っていなかった事を、
お互いが気付いてあげていたら、「今とは違う未来があった」のだろう。
悲しい事だが、2人の運命の鎖が断たれたからこそ、
『NANA』のテーマがより深く、読者に届けられるのだ。


――― 


2000年以降、多くの女性漫画家らが少女漫画から脱却し、 
優れた漫画家を失った少女漫画のコンテンツは衰退を迎えるが、 
それは少女漫画が消えてなくなった事を意味するのではなく、 
新たなステージに突入した事を表すものだった。 

ある作家は性と向き合う為にターゲットの年齢層を上げ、 
またある作家は男性漫画の長所を取り入れキャラクター化した。 
別の作家はジャンプやモーニングなど男性誌で描くようになり、 
さらに別の作家は、男性誌でも"女性らしさ"を貫き通した。 
フェミニズムの形と同様に、少女漫画も多様化していくのである。 


『月刊アフタヌーン』という男性向け漫画誌の中に、 
『おおきく振りかぶって』という野球漫画がある。 
この作品の特徴は、キャラクター論に頼らない人物描写であり、 
多くの野球漫画が長所を描く事で登場人物を差別化してきたのに対し、 
『おお振り』はコンプレックスによって差別化を図り、 
誇張表現の無い等身大の人物描写を丁寧に行う事で、 
「これまでに無い新しい野球漫画」とされ、絶賛された。 

だが、これは『キャンディキャンディ』の時代から続く、 
少女漫画の伝統芸であり、女性ならではの細微な表現方法だ。 
作者・ひぐちアサは、『おお振り』より以前は恋愛ものを描いていた。 
少女漫画の精神性が、男性誌にそのまま持ち込まれた事で、 
漫画界全体に新たな可能性を示したのである。 

少女漫画は少女である事を止め、"漫画"になったのだ。 


少女漫画を卒業した矢沢あいが『NANA』で表そうとしたのは、
主客一体となった本当の意味での"女性らしさ"である。
フェミニズムはかつて自由精神の発露を目的としていた。 
しかし、その過程で"女性らしさ"の否定へと変貌し、 
今では女性としての立場を保障される事に胡坐をかいている。
男性の客体から社会の客体として依存の矛先を変え、 
それで何かを得ようとしても、「何も得ている実感が無い」と、 
都会の生活に打ちひしがれる奈々の背中を追うだけだろう。 

矢沢あいは"女性らしさ"という客体性を掲げたまま、
主体性を持った"強い女性"を、描き続けている。 
それは少女漫画の歴史が投げかけるメッセージと同じものだ。

 "個人"としての主体性を発揮し、真の自由を勝ち取った上で、
ナナや奈々、オスカルやマリーは、"女性"として気高く咲く勇気をも、
現代を生きる読者に伝えているのである。


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