キミにともだちができるまで
↑非合理性と向き合ってみよう。


「Time is money(時は金なり)」という言葉があります 。
アメリカの伝説の偉人、ベンジャミン・フランクリンの言葉です。

この言葉、もともとは「Time is precious(時は大切)」が原形でした。
precious → money に言い換えたフランクリンは、
雷が電気である事をただ証明するだけではお金にならないと考え、
避雷針まで発明して財を築いちゃうほどの、アメリカ合理主義の象徴です。
お金と時間を無駄に使わないその合理精神、並大抵じゃありません。

ところが肝心のアメリカという国は、フランクリンの時代から200年、
雇用の合理化を図りすぎて経済が回らなくなり、
今度は雇用の回復に時間とお金を使うという事をやってます。
何でこんな無駄な事をやる羽目になったんでしょうか。


ひとえにこの問題は、無駄なものとして切り捨て続けてきた
非合理性の中に、実は"大切"なものがあったのではないかと言えます。
いつの時代も揺り戻しはあるもので、フランクリンより以前にも、
ヨーロッパでは啓蒙思想への反動として、ロマン主義が起こってます。
『レ・ミゼラブル』やグリム童話は、ここから生まれました。

さて今回は、アメリカ追従の日本が失った"大切"なものを教えてくれる、
保谷伸先生の2010年代ロマン主義文学漫画、
『キミにともだちができるまで。』を評してみたいと思います。


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いつも頭を2~3回くらい捻って考察する道場主が、
単刊について書こうと思ったのには、もちろん理由があります。

私がこの作品の事を知ったのは、ゼノンの次号予告からでした。

trailer

モリコロス先生と保谷伸先生は、月刊コミックゼノン主催の
マンガオーディションの、第1回の受賞者のお2人。
そして作中でまさかの筆談かぶりをするという仲でいらっしゃいます。
『ガラスの仮面』と『スケバン刑事』の同時新連載くらいの衝撃。

ゼノンについては、原哲夫・北条司先生の作品が強すぎて、
「ジャンプ」的な男くさーいイメージがあるのですが、
それもそのはず、月刊ゼノンも前身の週刊コミックバンチも、
ジャンプ編集長だった堀江信彦氏が設立したコアミックスが編集し、
その会社の出資にも両先生が関わってますからね。

しかしながら、ダブル新連載で始まった新人お2人の作品は、
そんな凝り固まったイメージを覆すほどの新しさがあり、面白さがあります。
ジャンプからの支流に過ぎない、言わば北斗琉拳であったゼノンは、
生え抜きの新人先生によって、独り立ちを果たしています。

これは単行本が発売されたら両方買わなくては…


…と思っていたのですが。

我が長崎県は漫画・アニメ不毛の地。地元を題材に取り上げた
『坂道のアポロン』や『ばらかもん』は棚に置いていても、
知名度の低い普通の作品は、同県出身者ですら置かないという愛の無さ。
谷川史子先生の『清清と』を探すのにどれだけの本屋を回った事か。

ゼノンの単行本も例外ではなく、田舎の本屋さんでは、
置枠が棚1列分の端から端まで無い上に、並んでるのは原・北条作品のみ、
あれ?新刊コーナーにも無いんですけど…という状況でした。
市外にある比較的マニアックな本まで取り揃える本屋で見付け、
ようやく手にする事が出来ましたよ…ksg。


キミにともだちができるまで。

保谷先生の『キミとも。』、って略せばいいんですかね、
この作品は、無駄な時間を使う事を嫌う高校生のエリート男子が、
類稀なる好奇心を持つ女子高生に惹かれて…ではなく、
筆談で会話をする失声症の男の子の友達作りを手伝いながら、
"大切"なものを思い出していくお話です。


―――


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この作品では、スマートフォンを合理性の象徴として、
主人公の高校生・鷹司清之助に常備させています。
単行本の表紙でも手にしてますし、巻頭のカラー扉でもぶら下げてます。
モデルはdocomoの初代GALAXY Sでしょうか、
マルチタスク機能の付いたハイエンドモデルのようです。

清之助はスマホ画面に表示される時間をいつも気をかけ、
手紙でなくアドレスデータをやり取りし、ストラップを付けられるのを嫌がります。

「人生は有限だ」
「何事も限られた時間をどれだけ有意義に活用できるかで勝敗は決まる」
「だから僕は無駄がキライだ」


と、のっけからタイムスタディ節が全開です。

自分がハイエンドな人間であると自覚し、マルチな才能を発揮する為に、
メモリを無駄に割いて処理速度を落とす事を何より嫌い、
東に困ってるおばあちゃんがあれば、黙って素通りし、
西にあいさつ運動をする風紀委員があれば、面倒だと口にします。


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そんな清之助が出会ったのが、母親を亡くして失声症になってしまった、
人見知りな小学1年生の男の子・従弟の龍太郎くん。

この男の子を象徴するアイテムが、筆談帳です。
龍太郎くんは人前に立つと、極度の緊張で喉の奥が硬直し、声が出せません。
ただ言葉に発するだけでも普通の人の何倍も努力を強いられます。
作中では筆談による会話が1コマの中で成立してますが、
現実ではもちろんそんな事はありません。書き留める為の時間を使います。

予測変換が出来るスマートフォンと、1文字ずつ手書きの筆談帳。
清之助から見れば龍太郎くんは、非合理性のかたまりに見えるでしょう。
『キミとも。』はこのように、合理性と非合理性の対比が描かれており、
"大切"なのはどちらであるかを自ずと考えさせてくれます。
文学作品と同じストーリー構成というか、これ完全に文学ですよ。


中でも、キャッチボールの回の描写が秀逸でした。
平行に引かれた2本の白線の外側からお互いに投げ返すルールの下で、
龍太郎くんが投げたボールは、友達には届きません。
それを見た清之助は白線を越え、龍太郎くんの目の前まで近付き、
ボールをポロっと投げ渡し、龍太郎くんはそれをキャッチします。

「こんなに近すぎたらキャッチボールの意味が…」という合理的主張に対し、

「距離は違ってもキャッチボールはキャッチボール」
「ボールのやりとりが出来たのは変わらないだろ」
、と清之助。

キャッチボールは人と人との対話によく例えられますが、
この場合も、失声症というハンディキャップを抱えた社会的弱者と、
いかにして対話を成立させるかの暗示にもなっていて、
龍太郎くんの言葉が周囲に届いていない状況の中で、相手と真剣に向き合い、
こちらから距離を縮める事の重要性を説いています。


キャッチボールの相手が、吹き出すくらいに無愛想に描かれた子だったり、
また後にその子との友情が爽やかに築かれていったりと、
非合理性との対比の中から、決して切り捨てる事の出来ない、
人付き合いにかかる精一杯の努力を拾っていく演出が実に見事です。

嘘みたいだろ…この話を書いてるの、まだ20歳なんだぜ…?
漫画が無かった頃の時代なら、保谷先生は文学作家にもなれたはずです。


―――


現在のジャンプは、新人育成に苦労しています。

人気を支える看板作品の連載が始まったのが、『ONE PIECE』が1997年、
『HUNTER×HUNTER』が98年、『NARUTO』が99年であり、
次世代の看板作品である『トリコ』が08年に連載開始するまでに、
10年という長い歳月を要している状況です。


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↑ジャンプは新人作家の打ち切り率が高い。
(引用:倩 ジャンプの新連載打ち切り率について 完全版



原因は、経営の合理化にあると思います。
99年~08年までの空白の間に、話の書ける作家さんを切り過ぎている。

例えば『BOY』の梅澤春人先生ですね。
02年に『SWORD BREAKER』を、04年に『LIVE』を連載されてますが、
刊行数は2巻、1巻と、いずれも短期打ち切りとなっています。
が、両作品は文学的な試みが用いられた実験作であり、
梅澤先生の新しい挑戦に向けた意欲が感じられる内容なのです。

その後、梅澤先生はヤングジャンプに移籍されました。
同様の憂き目に合ったベテラン先生方も同じ道を辿られます。
新人作家は特に打ち切り率が高かったので、それを恐れて人気作を模倣し、
独自性と新しさを兼ね備えた後進も、軒並み他誌でデビューしていきました。
キャラクター作りの上手い作家さんだけが人気を得ていく、
読者アンケートを重視し過ぎたんでしょうね。

合理的な経営判断は誠に正しいとは思いますが、『キミとも。』のように
構成・演出に秀でた作品が、北斗宗家であるジャンプではなく、
支流であるゼノンから生まれるのは、切り捨てられた非合理性の中に、
お金に換えられない価値が含まれていた事を意味しています。
人気作の再構築・再生産を繰り返した結果、特定の読者層しか訴求できず、
漫画業界の市場縮小につながった事からも分かります。
日本が追従してきたアメリカ合理主義は、絶対ではないのです。


『キミとも。』の第4話には、清之助の台詞として、
フランスの文学者・ロシュフコーの『箴言集』から引用がありますが、
そのフランスでは、彼の皮肉の利いた人間観察力が、
後のロマン主義文学を開いた作家に受け継がれています。
ロマン主義は、専制政治によって抑圧されてきた人間性を呼び起こし、
"大切"なものの在り処をヨーロッパ中に示しました。

本屋にすらまともに取り揃えられないゼノンという支流には、
経営判断の中で切り捨てられてきた、"大切"なものがあると思います。
そしてそれは決して古めかしい骨董品などではなく、
これからの市場を切り開く力を持った、新しい価値観です。

『キミとも。』は、北斗劉家の血を継承しながらも、
ゼノン新人作家の中心に立ち、新しい価値の奔流となっています。
スマートな清之助と、不器用な龍太郎の親交は、
経営の合理化が進められる現代社会の縮図となっており、
その反動として、深い優しさと大きな愛情を感じる事が出来ます。
こんな作品は『いいひと。』以来でしょうか。


現代に蘇ったロマン主義文学の傑作、これを読めばきっと、
忘れかけていた心を思い出させてくれるでしょう。

うむ、良作の血は何としても守らなければなりません。
長崎の本屋さーん。そがんあっとですよー。



ご清覧ありがとうございました。