平成仮面ライダーシリーズ考察の第2回目は、
『仮面ライダー555』(2003年1月26日~2004年1月18日放送)です。
555ロゴ
【平成仮面ライダーシリーズの考察記事】
 総論 龍騎 フォーゼ 
ウィザード


『クウガ』と『アギト』で新たな視聴者層を獲得した同シリーズは、
龍騎』から実験として学術的な理論を背景にする事が試みられたようで、
ストーリーの謎が深まり、さらなる進化を遂げました。
ですが、背景が難解すぎた事、主人公が空気だった事が、
全てを白紙化したラストシーンにつながり、賛否を呼びました。

『555』では、前作で得られた成功と反省点を土台としたと見られ、
天才哲学者のカール・G・ユングによって一般化されたペルソナ理論を、 
夢を持たない主人公の行路として設定した事で、
ストーリー背景を文字通り主人公のバックボーンとして機能させ、
揺れ動く心理状態を経て、「夢」というテーマに繋げています。


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本作は、道場主が初めて平成ライダーの奥深さを知った作品なんですよね。
きっかけは第4話「おれの名前」で、とあるシーンが引っかかった事でした。
世界中の人の心を真っ白にしたい夢を持つ菊池啓太郎がファイズに変身出来ず、
啓太郎からベルトを取り上げたサボテンの怪人が変身しちゃった。

第1話「旅の始まり」でも、美容師の夢を持っている園田真理が変身出来ず、
何の夢もない主人公の乾巧が変身するという疑問が提示されており、
この対比はいったい何を表しているのかと考えたのですが、
たまたま偶然、私はこの答えを開く鍵を、既に持っていたのです。

私は放送前年の2002年、紫綬褒章を授章された坂部恵氏の影響で、
アトラスの名作RPG『女神異聞録ペルソナ』を、この時まさにプレイ中でした。
このゲームは言うまでもなく、ユングのペルソナ理論を基にしてます。
おかげで、難解な学論が物語解釈に適用可能な事をあらかじめ知りえていた為、
『555』との間に、"夢"と"仮面"という2つの共通点を見つける事が出来ました。

ライダー=仮面(ペルソナと定義した場合、啓太郎や真理は、
夢という仮面を最初から付けているから、仮面ライダーに変身出来ないのでは?
という推測が、巧との対比によって生まれます。
名作ゲームから着想を得た事で、私はこれ以降、平成仮面ライダーシリーズを
1つの文学として捉え、文学的な解釈を持ち込む事にしました。


『女神転生』というゲームについて補足解説しておくと、
同シリーズは伝統的に哲学の考え方が世界観に組み込まれているようで、
例えば、これまた名作と名高い『真・女神転生3』では、
デカルトの渦動説を基にしたと思われるボルテクス界が登場します。
ゲーム内容もいかにも「我思う、ゆえに我あり」っぽいですね。

ペルソナシリーズはより分かりやすく、夢や願望という仮面を
もう1人の人格(パーソナリティ)に見立て、
主人公とその仲間の成長を見事に描ききっています。

そんなゲームにどハマりしてる中で始まった『555』の放送でしたが、
第13話「敵か味方か」にて、2号ライダーである草加雅人が登場した事で、
ただの符号の一致に過ぎなかった推測が、いよいよ確信へと変わっていきました。


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『555』では、人間の深層意識の表層化という形で、
オルフェノク=影人間(シャドウに見立てていると思われます。
この時、もともと表層意識にあった人間の姿の方が影になっちゃってます。


ホースオルフェノク

↑表層化したホースオルフェノクと、深層化した木場勇治。


ユング心理学においては、人間の無意識の中にある「こうありたい」という願望が、
理想の自分を演じる為の仮面(ペルソナ)となるとされています。
真理と啓太郎は、理想の自分を持っています。

逆に、「こうありたくない」と拒絶した自分は、影(シャドウ)となって
無意識の中に残り、他者への嫌悪感として投影されるそうです。
木場勇治や長田結花が他人に向ける憎悪がこれに当たるんでしょうね。

つまりオルフェノク化とは、深層意識の中に閉じ込めている
拒絶すべき自分の弱い心が剥き出しになってる状態を表している
と見られ、
普通の人が演じるかっこいい自分=ペルソナを取り外しているから、
ライダーという仮面を付ける事が出来るのだと推察されます。

オルフェノクは動物の力を備え、人間より五感に優れるという設定になってます。
これが上手い伏線にもなっていて、木場がやたら目が良くなったように、
巧の猫舌は、オルフェノクである事の暗示になってるんですよね。
井上敏樹脚本はこういう伏線の張り方が実に面白いです。
ただ『カブト』の料理設定は…うん、まぁ、別の機会に回しましょう。


では、人間なのに仮面ライダーに変身出来る草加雅人はどう解釈すべきか?


草加雅人

↑これも乾巧って奴の仕業なんだ…悪い顔してます。


草加の場合、優等生の仮面を付けて本当の自分を隠しています。
しかし、自分のドス黒い感情も抑圧しきれずにいる。
オルフェノクと同様に、やっぱりシャドウが表層化している状態です。
即ち、優等生とライダーという2つの仮面の付け換えが出来る、
自分を演じ分けられる賢い人間である、と解釈出来ます。

こやつ…なかなか出来おる!


草加は真理の事を、「母親になってくれるかも知れない存在」だと言ってます。
この心理状態をユングの深層心理学の観点から分析すると、
草加の心の中では無意識のうちに理想の女性像(アニマ)が働いていて、
これが理想の母親像(グランドマザー)と一致している。

草加の深層意識に棲んでいるのは、善悪のせめぎ合いです。
心理学用語の「社会的ジレンマ」に陥ってると言えます。
他人に良く思われたい感情と、他人を支配したい負の感情が渦巻いていて、
それは過去に受けていたいじめ体験に結びついています。
いじめから庇ってくれた真理は、シャドウから逃れる為の救いの手であり、
実は草加は、自分の弱い心を追い出したかったんじゃないかと思います。


ちょうどこれ、ジブリ映画の『ゲド戦記』とよく似ていて、
こちらは主人公・アレンが理想の父親像(オールドワイズマン)である父親を殺し、
もう1人の自分であるシャドウを生んでしまった、というお話でしたね。
この映画を作った宮崎吾朗監督が、父親である宮崎駿氏に抱いていた
エディプス・コンプレックスを克服するお話でもあります。


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ペルソナ理論を背景に据えた時、『555』の謎もすんなり飲み込めます。
まず、オルフェノクの王とは何ぞや?という疑問。

オルフェノクの王は、滅び行く運命にあるオルフェノクに永遠の命を授け、
完璧な生命体へと進化させる力を持つとされていますね。
果たしてこれはどういう事か、再びユング心理学を当てはめてみると、
オルフェノク=シャドウであるとした場合、心の影が永遠になるというのは、
自分を包み隠さず、本能のあるがまま利己的に生きられる事を意味しています。
個人として非常に合理性のある、理想の生き方に違いありません。

敵の幹部であるラッキークローバーの1人・影山冴子は、
覚醒したオルフェノクの王の前に、永遠の命を乞い出ます。
ここで注目すべきは、ロブスターオルフェノクの肉体が王が放つ光に包まれた後、
人間として残されていた影山さんの影の部分が消失している
事です。


ロブスターオルフェノク

↑影山さん(人間の部分)の影が消えていく。


オルフェノクの王は、人間の心の影に対する光であり、
「こうありたくない」と抑圧している弱い部分を消し去ってくれていると考えられます。
つまり残されるのは「こうありたい」と願う理想の自分のみで、
確かに何ひとつ悩まなくていい、個人として完璧な生命体になっているのです。


そしてもう1つ、「夢」の終着点について。
オルフェノクの王の圧倒的な力に対し、巧たち人間の選んだ道は、
心の弱さを抱えたまま、人間らしく生きる事でした。

「弱さに負けない夢を持ってほしい」
「卵を抱くようにして暖めれば必ず夢は叶うのさ」

という、モノローグ的な台詞が意味するのは、
社会という集合体の中で自分の個性を見出せずに苦しみながらも、
しっかりと弱さと向き合い、打ち勝つ強さを得ようというメッセージにも聞こえます。
 

ところで、永遠の命を得た影山さんはどうしたかというと、
人間に倒された王の亡骸を何かの培養液みたいなのに漬けて、
 
「あなたは死なない、きっと蘇る、きっと」

なんと、完璧な生命体になったはずのオルフェノクが、
まるで人間のような「夢」を持ったんですよね!


ラストシーンは、ずっと夢を持てなかった巧が、

「俺にも、ようやく夢が出来た」
「世界中の洗濯物が真っ白になるみたいに、皆が幸せになれますように、ってな」

 
と、〆てエンド。


この最終回が表す意味はとても平易で、すんなりと腑に落ちます。
しかし裏では、草加の苦悩の原因だった社会的ジレンマの克服、すなわち、
個人の合理性と社会の合理性の合一が果たされた事が、
オルフェノクだった海堂直也、琢磨逸郎らの行動で暗示されており、
こうした不言のロジックが背景でずーっと積み上げられてきたからこそ、
たった1つのメッセージだけで伝わるようになってるんですな。

ううむ…非の打ち所の無いストーリー構成です。


―――


物理学をベースにしたと思われる前作、『龍騎』と比較すると、
心理学がベースになっている『555』のストーリーは、
心理描写と非常によくマッチしていて、大変に分かりやすかっただろうと思います。
どちらが優れているのかを決めるものではありませんが、
『555』の場合、既に哲学の域にまで落とし込まれている理論を採用した事が、
傑作と言われる大きな要因となっている
と道場主は結論付けます。

たまたまこじつけが当てはまっている、とも取れますが、
こういった解釈が12年も継続して可能である事を考えれば、
偶然ではなく、狙って作られていると思ってます。

おそらく、脚本家の方が自力で捻りだしているのではなく、
配給会社の東映か、制作に携わるテレビ朝日のどちらかが、
企画会議で毎年フォーマットをこしらえて、脚本を依頼してるのでしょう。
藤林聖子さんの歌詞がお話と妙に符号するのも、たぶんこれが理由。


さて、次回は『仮面ライダー剣』の短評になります。
『555』で成功を収めた平成シリーズが、なぜスベってしまったのか、
これまた学術的解釈で解説していきましょう。
 


ご清覧ありがとうございました。