漫画道場

漫画道場 漫画やアニメを学術的観点から考察・レビューします。



引っ越しました。
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2013年01月

【短評】『キミにともだちができるまで。』~欠落したロマン主義を拾い集める物語

キミにともだちができるまで
↑非合理性と向き合ってみよう。


「Time is money(時は金なり)」という言葉があります 。
アメリカの伝説の偉人、ベンジャミン・フランクリンの言葉です。

この言葉、もともとは「Time is precious(時は大切)」が原形でした。
precious → money に言い換えたフランクリンは、
雷が電気である事をただ証明するだけではお金にならないと考え、
避雷針まで発明して財を築いちゃうほどの、アメリカ合理主義の象徴です。
お金と時間を無駄に使わないその合理精神、並大抵じゃありません。

ところが肝心のアメリカという国は、フランクリンの時代から200年、
雇用の合理化を図りすぎて経済が回らなくなり、
今度は雇用の回復に時間とお金を使うという事をやってます。
何でこんな無駄な事をやる羽目になったんでしょうか。


ひとえにこの問題は、無駄なものとして切り捨て続けてきた
非合理性の中に、実は"大切"なものがあったのではないかと言えます。
いつの時代も揺り戻しはあるもので、フランクリンより以前にも、
ヨーロッパでは啓蒙思想への反動として、ロマン主義が起こってます。
『レ・ミゼラブル』やグリム童話は、ここから生まれました。

さて今回は、アメリカ追従の日本が失った"大切"なものを教えてくれる、
保谷伸先生の2010年代ロマン主義文学漫画、
『キミにともだちができるまで。』を評してみたいと思います。


―――


いつも頭を2~3回くらい捻って考察する道場主が、
単刊について書こうと思ったのには、もちろん理由があります。

私がこの作品の事を知ったのは、ゼノンの次号予告からでした。

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モリコロス先生と保谷伸先生は、月刊コミックゼノン主催の
マンガオーディションの、第1回の受賞者のお2人。
そして作中でまさかの筆談かぶりをするという仲でいらっしゃいます。
『ガラスの仮面』と『スケバン刑事』の同時新連載くらいの衝撃。

ゼノンについては、原哲夫・北条司先生の作品が強すぎて、
「ジャンプ」的な男くさーいイメージがあるのですが、
それもそのはず、月刊ゼノンも前身の週刊コミックバンチも、
ジャンプ編集長だった堀江信彦氏が設立したコアミックスが編集し、
その会社の出資にも両先生が関わってますからね。

しかしながら、ダブル新連載で始まった新人お2人の作品は、
そんな凝り固まったイメージを覆すほどの新しさがあり、面白さがあります。
ジャンプからの支流に過ぎない、言わば北斗琉拳であったゼノンは、
生え抜きの新人先生によって、独り立ちを果たしています。

これは単行本が発売されたら両方買わなくては…


…と思っていたのですが。

我が長崎県は漫画・アニメ不毛の地。地元を題材に取り上げた
『坂道のアポロン』や『ばらかもん』は棚に置いていても、
知名度の低い普通の作品は、同県出身者ですら置かないという愛の無さ。
谷川史子先生の『清清と』を探すのにどれだけの本屋を回った事か。

ゼノンの単行本も例外ではなく、田舎の本屋さんでは、
置枠が棚1列分の端から端まで無い上に、並んでるのは原・北条作品のみ、
あれ?新刊コーナーにも無いんですけど…という状況でした。
市外にある比較的マニアックな本まで取り揃える本屋で見付け、
ようやく手にする事が出来ましたよ…ksg。


キミにともだちができるまで。

保谷先生の『キミとも。』、って略せばいいんですかね、
この作品は、無駄な時間を使う事を嫌う高校生のエリート男子が、
類稀なる好奇心を持つ女子高生に惹かれて…ではなく、
筆談で会話をする失声症の男の子の友達作りを手伝いながら、
"大切"なものを思い出していくお話です。


―――


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この作品では、スマートフォンを合理性の象徴として、
主人公の高校生・鷹司清之助に常備させています。
単行本の表紙でも手にしてますし、巻頭のカラー扉でもぶら下げてます。
モデルはdocomoの初代GALAXY Sでしょうか、
マルチタスク機能の付いたハイエンドモデルのようです。

清之助はスマホ画面に表示される時間をいつも気をかけ、
手紙でなくアドレスデータをやり取りし、ストラップを付けられるのを嫌がります。

「人生は有限だ」
「何事も限られた時間をどれだけ有意義に活用できるかで勝敗は決まる」
「だから僕は無駄がキライだ」


と、のっけからタイムスタディ節が全開です。

自分がハイエンドな人間であると自覚し、マルチな才能を発揮する為に、
メモリを無駄に割いて処理速度を落とす事を何より嫌い、
東に困ってるおばあちゃんがあれば、黙って素通りし、
西にあいさつ運動をする風紀委員があれば、面倒だと口にします。


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そんな清之助が出会ったのが、母親を亡くして失声症になってしまった、
人見知りな小学1年生の男の子・従弟の龍太郎くん。

この男の子を象徴するアイテムが、筆談帳です。
龍太郎くんは人前に立つと、極度の緊張で喉の奥が硬直し、声が出せません。
ただ言葉に発するだけでも普通の人の何倍も努力を強いられます。
作中では筆談による会話が1コマの中で成立してますが、
現実ではもちろんそんな事はありません。書き留める為の時間を使います。

予測変換が出来るスマートフォンと、1文字ずつ手書きの筆談帳。
清之助から見れば龍太郎くんは、非合理性のかたまりに見えるでしょう。
『キミとも。』はこのように、合理性と非合理性の対比が描かれており、
"大切"なのはどちらであるかを自ずと考えさせてくれます。
文学作品と同じストーリー構成というか、これ完全に文学ですよ。


中でも、キャッチボールの回の描写が秀逸でした。
平行に引かれた2本の白線の外側からお互いに投げ返すルールの下で、
龍太郎くんが投げたボールは、友達には届きません。
それを見た清之助は白線を越え、龍太郎くんの目の前まで近付き、
ボールをポロっと投げ渡し、龍太郎くんはそれをキャッチします。

「こんなに近すぎたらキャッチボールの意味が…」という合理的主張に対し、

「距離は違ってもキャッチボールはキャッチボール」
「ボールのやりとりが出来たのは変わらないだろ」
、と清之助。

キャッチボールは人と人との対話によく例えられますが、
この場合も、失声症というハンディキャップを抱えた社会的弱者と、
いかにして対話を成立させるかの暗示にもなっていて、
龍太郎くんの言葉が周囲に届いていない状況の中で、相手と真剣に向き合い、
こちらから距離を縮める事の重要性を説いています。


キャッチボールの相手が、吹き出すくらいに無愛想に描かれた子だったり、
また後にその子との友情が爽やかに築かれていったりと、
非合理性との対比の中から、決して切り捨てる事の出来ない、
人付き合いにかかる精一杯の努力を拾っていく演出が実に見事です。

嘘みたいだろ…この話を書いてるの、まだ20歳なんだぜ…?
漫画が無かった頃の時代なら、保谷先生は文学作家にもなれたはずです。


―――


現在のジャンプは、新人育成に苦労しています。

人気を支える看板作品の連載が始まったのが、『ONE PIECE』が1997年、
『HUNTER×HUNTER』が98年、『NARUTO』が99年であり、
次世代の看板作品である『トリコ』が08年に連載開始するまでに、
10年という長い歳月を要している状況です。


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↑ジャンプは新人作家の打ち切り率が高い。
(引用:倩 ジャンプの新連載打ち切り率について 完全版



原因は、経営の合理化にあると思います。
99年~08年までの空白の間に、話の書ける作家さんを切り過ぎている。

例えば『BOY』の梅澤春人先生ですね。
02年に『SWORD BREAKER』を、04年に『LIVE』を連載されてますが、
刊行数は2巻、1巻と、いずれも短期打ち切りとなっています。
が、両作品は文学的な試みが用いられた実験作であり、
梅澤先生の新しい挑戦に向けた意欲が感じられる内容なのです。

その後、梅澤先生はヤングジャンプに移籍されました。
同様の憂き目に合ったベテラン先生方も同じ道を辿られます。
新人作家は特に打ち切り率が高かったので、それを恐れて人気作を模倣し、
独自性と新しさを兼ね備えた後進も、軒並み他誌でデビューしていきました。
キャラクター作りの上手い作家さんだけが人気を得ていく、
読者アンケートを重視し過ぎたんでしょうね。

合理的な経営判断は誠に正しいとは思いますが、『キミとも。』のように
構成・演出に秀でた作品が、北斗宗家であるジャンプではなく、
支流であるゼノンから生まれるのは、切り捨てられた非合理性の中に、
お金に換えられない価値が含まれていた事を意味しています。
人気作の再構築・再生産を繰り返した結果、特定の読者層しか訴求できず、
漫画業界の市場縮小につながった事からも分かります。
日本が追従してきたアメリカ合理主義は、絶対ではないのです。


『キミとも。』の第4話には、清之助の台詞として、
フランスの文学者・ロシュフコーの『箴言集』から引用がありますが、
そのフランスでは、彼の皮肉の利いた人間観察力が、
後のロマン主義文学を開いた作家に受け継がれています。
ロマン主義は、専制政治によって抑圧されてきた人間性を呼び起こし、
"大切"なものの在り処をヨーロッパ中に示しました。

本屋にすらまともに取り揃えられないゼノンという支流には、
経営判断の中で切り捨てられてきた、"大切"なものがあると思います。
そしてそれは決して古めかしい骨董品などではなく、
これからの市場を切り開く力を持った、新しい価値観です。

『キミとも。』は、北斗劉家の血を継承しながらも、
ゼノン新人作家の中心に立ち、新しい価値の奔流となっています。
スマートな清之助と、不器用な龍太郎の親交は、
経営の合理化が進められる現代社会の縮図となっており、
その反動として、深い優しさと大きな愛情を感じる事が出来ます。
こんな作品は『いいひと。』以来でしょうか。


現代に蘇ったロマン主義文学の傑作、これを読めばきっと、
忘れかけていた心を思い出させてくれるでしょう。

うむ、良作の血は何としても守らなければなりません。
長崎の本屋さーん。そがんあっとですよー。



ご清覧ありがとうございました。

【短評】『たまこまーけっと』~奇術師たまこが形象する"夢の商店街"


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↑オープニング曲でのたまこは、なぜマジシャンの格好なのか?


『たまこまーけっと』というアニメが人気らしい。

らしい、というのは、これまで観た事が無かったからです。
ウチの地区じゃアニメの深夜放送が無い為、
ちょっと観てみようかなという習慣が生活に組み込まれてません…。

アニ友さん達が上げる視聴感想は覗かせてもらってるので、
最近のトレンドがどういった作品にあるのかは知りえてるんですが、
それにしても、『たまこま』 の感想から得られる情報には、
言いようの無い違和感があるのを、第1話から感じていました。

こう、何て言うか、『エヴァ』や最近の宮崎アニメを観た後のような違和感。
釈然としないのに話だけがどんどん進んでる感覚が、
映像を観てもいない私でも、アンテナにびんびん伝わってくるのです。

この違和感は、第2話の感想でより強くなりました。
ヲタブロ : たまこまーけっと 第2話「恋の花咲くバレンタイン」レビュー・感想


『たまこま』には、何かある。

そう確信して、何とか視聴する方法を探してみたところ、
おお…ネット配信されてるじゃないですか。しかも公式で (*´∀`人)
これはもう観るしかないな…神が私にそう告げている。


という訳で、当道場では初となる深夜アニメの考察を、
『たまこま』の違和感の謎を解き明かすべくやってみたいと思います。
第2話までに分かった事を踏まえて掘り進めますが、
この謎の答えが導かれた時、果たしてどんな視点が生まれるのでしょうか。


―――


まずは、違和感のいきさつについて纏めてみます。

『たまこま』の舞台となるのは、「うさぎ山商店街」なるアーケードですね。
昔ながらのお店が軒を連ねていて、古き良き伝統が守られてます。
が、昔ながらのお店に居るはずの店主に、なぜかレトロ臭が一切しないのです。
町内の人はアーケードで買い物を済ませ、外れにある銭湯に通うなど、
時代錯誤な描写が至る所で散見されるにも関わらず、です。

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↑ありえないその(1) 神田川…です。

資本の統廃合が進められる中で、保守的な働きかけを全くせずに、
アーケードの姿を存続させている事は"ありえない"ですし、
それとは逆に、耳にピアス穴を空け、折り畳み携帯を駆使する兄ちゃん達が、
積極的に町内会に参加してるのも"ありえない"です。
『ちびまる子ちゃん』の時代ですら、町内会という枠組みが嫌だったと、
まる子が盆踊りに参加する回で語られてますし。

しゃべる鳥はそんな"ありえない"の代表選手に過ぎません。
唯一、たまやの人達だけが、隣のライスケーキ屋なる店にツッコミを入れ、
「あんこ」と付けられた安直な名前を嫌がってます。
ピアスの兄ちゃんも「もち蔵」とかいう名前に疑問を持つべきだよね。

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↑ありえないその(2) お前の事だよ。

で、この"ありえない"の中心に居るのが、主人公の北白川たまこです。
高校のバトン部の友達と仲良く楽しくやってる普通の女の子が、
隣のピアス兄ちゃんと携帯ではなく糸電話で会話し、
商店街のPR活動には友達も巻き込み、率先してこなすのです。
誕生日になれば町中の人が「今年こそは」とお祝いに駆けつけます。

町の人達と仲良しな所を強調するのは、それはつまり、
桜高軽音部のような纏まりを町内の人に持たせてるという事です。
京都アニメーション制作の従来のアニメ作品では、
ごく親しい身内同士の親交だけが強調されてきましたが、
コミュニティ規模が町全体に広がったのは初めてだと思います。

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↑ありえないその(3) 町の人達との距離が近すぎる。


『たまこま』はこのように、"ありえない"描写を積み重ねているようで、
背景に何らかの意図が働いていると思えるのです。
町内会の枠組みがいかにもわざとらしく作られすぎている。
『gu-guガンモ』のような鳥との心温まる交流の話でもなさそうですし、
かと言って商店街の傾陽をどうにか救う話でもありません。
そして単なる日常風景を模した話でもない。
うさぎ町商店街という空間を、実際に図面を引いたかのごとく、
全て計算尽くで作られてるような気がするんですよね。

これまで背景構造を明確に意図した作品は無かったと思いますから、
そこには必ず、何か別の目的があるはずなんです。
私はその何かに違和感を覚え、考察に至ったという訳です。


―――


現実にありそうで"ありえない"うさぎ山商店街ですが、
ではなぜ、"ありえない"ほど仲良しな様子が描かれているのでしょうか。

ドイツの思想家、ヴァルター・ベンヤミンという人は、
パサージュ論』の中で、19世紀のパリに実在したアーケード街を、
「街路を遊歩する事で、室内に彩られた歴史を幻視できる空間」と定義し、
街路と室内が分離したデパートと比較しています。
歴史性というのがポイントで、アーケードを遊歩する人達は、
時代を形象してきた店々によって、過去に連なる夢を見ているというのです。


町の伝統を象徴する餅屋・たまやの異端児であるたまこは、
昔ながらの商店街に自然と溶け込んでいます。
たまこのゆるーい空気に町中が染め上げられているかのようですが、
町の人達からレトロ臭がしないのは、これを視聴するユーザーが、
たまこの視点から商店街を見ているからだと思われます。

ユーザーから見たたまこは、学校に通い、友達と部活に励むなど、
日常を描写した従来の作品の延長線上にありますが、
うさぎ山商店街は、たまこにとっては日常の一部と言えども、
外から見たユーザーにとっては"ありえない"くらいの異空間です。
町の人達があれほど仲良しに描かれるのは、
そこが古き良きの時代を形象している空間である事を、
見ている人に伝える為ではないでしょうか。

つまり、ユーザーはうさぎ山商店街に紛れ込んできた遊歩者であり、
私達は夢の中に映し出された街路をぶらぶら散策しながら、
たまこの視点を通じて、形象化された商店街のかつての姿を見てるのでしょう。


『たまこま』はこの構造を作為的に生み出しているようで、
しかもそれはベンヤミンの理論が基になっていると思われます。

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↑楽しい空間に引き連れられる町の人達。

例えばオープニングでは、たまこがマジシャンの格好をして、
シルクハットから鳥を出し、町の人達を引き連れてマーチ行進してます。
しゃべる鳥はたまこが生み出したマジック=奇術であり、
夢の商店街も全てマジックで形象したものだと言わんばかりです。
ユーザーも行進の後に付いて夢の世界へ連行されてるに違いありません。
もう鳥を頭に乗せて歩くなんか、普通に見えてしまいます。

ベンヤミンはアーケード街に映し出される夢の空間を、
ファンタスマゴリー(映像機で映し出された幻)と名付けてますが、
興味深い事にあの鳥は時々、目から光を投射して、
元の飼い主?である王子と故郷の映像を出力してますよね。
色んな所でベンヤミンと符号するのが私、気になります。


―――


さて、ここまで書いておきながらぶっちゃけますが、
文中で解き明かした謎は全て仮定によるこじつけに過ぎません。
定期的にやってる平成仮面ライダーの学術的考察も、
10年以上続けてきたからこそ、私自身も納得しています。

なのでこれからは毎回、京アニ作品をガチで考察していきましょうかね。
もしかしたら先行した『氷菓』や『中二病でも恋がしたい!』でも、
既にこういった学術的背景が用いられてるかも知れません。


私は深夜アニメについて考えた事はありませんが、
今後はDVDでも借りて、深夜デビューしていこうと思います。



ご清覧ありがとうございました。

【作画論】(2) 実像のイメージ化

ドラえもん

↑「ドラえもんの絵」を分解してみよう。


【作画論】
 (1) イメージの実像化
 (2) 実像のイメージ化


前回、「絵」を上手く描く秘訣は、頭の中のイメージに置き換えずに
実像の見たままを写し取るように描く事にあると定義したが、
誰しもそれが出来るのであれば、誰もが天才漫画家になっているはずである。

人間の記憶は、実像そのものをインプット出来ない。
作画をする度に何かを参考にしながら描くという訳にもいかない。
上達には、鮮明なままのイメージをアウトプットする技能の習得が不可欠だ。


今回は、記憶の情報量を左右する"解釈項"を解説しながら、
記憶を「絵」に落とし込む具体的な方法を挙げてみよう。


―――


情報(Information)とは、人間の脳の内部(in)に形成(form)される、
記憶の海に堆積した砂粒の1つひとつの事である。
複雑な記号表現を記憶する時、読み取られた情報はバラバラに分解され、
0と1の電気信号になるまで単純化が行われる。

これらを思い出す際は、ひと粒ごとを探すのは非常に困難であるので、
脳の内部では類似している情報を1箇所に集積し、
すぐに引き出せるように他の情報と関連付けて保存されている。


「絵」から得られる情報は、主に3つに大別される。


 ドラえもんのイメージを分解すると…?

3要素

 ・カラー(全体の色)
  全体から得られた最も印象的な色の情報。
  似たような色の記憶と照会され、パターン認識される。

 ・アウトライン(全体の形)
  大枠のイメージとして捉えられた形の情報。
  感覚記憶から海馬へと送られ、記号認識される。

 ・ディテール(詳細)
  単純化できない細かい部分の色や形の情報。
  感覚記憶として一時的に認識されるも、すぐに消失する。


 ※ 色情報の詳細はここでは省略。「記憶色」でご検索下さい。



視覚情報はまず感覚記憶に保存され、印象の大きいものから、
感覚記憶→短期記憶→長期記憶へと順を追って送られるが、
"解釈項(Interpretant)"は、記憶を呼び覚ます"鍵"の役割を果たすもので、
「ドラえもん」を思い出す時は、"青い"や"丸い"など、
いくつかの根幹情報を基に、情報全体の復元再生が行われる。

漫画はモノクロ印刷である為、カラー(色)以外が視覚情報として取得された後、
電気信号の粒子になるまで単純化されてから、
アウトライン(大枠)だけが、"丸い"として記号認識に至る。

しかし、ディテール(詳細)に関してはほんの1~2秒で失われてしまう為、
"首→鈴がある"、"お腹→ポケットがある"という風に、
具体的に関連付けて記憶しない限り、これらの情報は復元されない。


という事は、鮮明なままのイメージを再現するには、
このディテールをいかに記憶・復元するかが重要になるはずだ。


―――


だが、実際のプロ漫画家の多くは、ディテールには時間をかけない。
漫画の「絵」は、細かい描写を簡略化するからである。

前回で使用した「お花」を例に挙げてみよう。

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どちらの「絵」が上手いかと問えば、もちろんリアルな方の「お花」と答えるだろう。
しかし、極端に写実的な描写は漫画には全く向かない。
こんな花が背景に咲いていたら、より描くべき物や人が埋もれてしまう。
かと言って記号的な「お花」を背景に据えると、今度はチープになる。

もう少し工夫したい所だが、どのようにすれば良いか?
ディテールを簡略化して、実像のアウトラインだけを活かすと良い。

漫画の絵

これで漫画の「絵」にぐっと近付いたはずだ。
元のイメージと比較してみよう。

イメージのおはな

さて、どちらの「絵」が上手いだろうか?
当然ながら、鮮明なイメージの「お花」の方を選ぶだろう。

これは、花の"解釈項"として挙げられる花びらの枚数や形などの必要条件を、
単純構成された左の「お花」より完璧に満たしているからで、
同じ記号でも"解釈項"の数が多いほど、伝わる情報の量も多くなる。

イメージと符号させればどちらも花であるのに違いは無いのだが、
アウトラインが実像に限りなく近いなら、それを見た人の頭の中では、
脳神経をリレーして、ディテールまで忠実に記憶が復元される。
他者の中にある記憶をはっきりと蘇らせるのは、
自分の中のイメージがより鮮明になっている「絵」の方だ。



解釈項

→ ディテールの記憶が復元されず、「下手」だと感じる。

解釈項

→ ディテールの隅々まで復元され、「上手い」と感じる。



このように、漫画の「絵」はアウトラインを正確に描くだけで、
イマジネーションを喚起し、鮮明なままのイメージを伝える事が出来る。
つまり上手い「絵」を描くなら、記憶の定着に不必要な細部の再現にこだわるより、
アウトラインを徹底して練習した方が効率的に上達できると言えよう。

あやふやなイメージで描いたものに、どれだけ細密さを付け足しても、
ヘタクソに見えてしまうのは、この為だ。


―――


人物を描く場合、少なからず漫画を描いた事がある人なら、
多くの場合は、人物の「顔」を描く練習をひたすら反復している。
決して間違いではないが、そればかり練習していると、
頭の中にインプットされている同じ角度からの「顔」しか描けなくなる。
イメージに無いものをゼロから生み出す事は、
人間の記憶のメカニズム上、不可能であるからだ。

漫画の専門用語では、アウトラインの事を「アタリ」と呼ぶ。
固定されたイメージから脱却するには、色んな角度からのアタリを練習し、
そこに「目」や「口」をはめ込んでいくように描くと良いだろう。

※ アタリについて
 引用:漫画考察 - 漫画の描き方を考える - / テキスト


実像は客観的で、イメージは主観的なものだ。
漫画の「絵」はイマジネーションの産物であるがゆえに、
客観的な観察眼の他にも、主観的な想像力を鍛え上げなければならない。

それが出来るプロの漫画家のように「絵」が上手くなるには、
記憶の引き出しを増やし、イメージをより多く蓄積させる事こそが、
単純な反復練習を続けるよりも重要なのである。



ご清覧ありがとうございました。

【短評】『ハウルの動く城』~ソフィーにかけられた2つの魔法


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↑飾らない美しさが、心にはある。


ジブリ映画考察の第4回は、2004年公開の『ハウルの動く城』です。

【ジブリ考察シリーズ】
 第1回 『千と千尋の神隠し』
 第2回 『火垂るの墓』
 第3回 『崖の上のポニョ』


宮崎駿作品は、『もののけ姫』以降で変革が起きました。
どこらへんが変わったのかを読み解くには、これより以前の作品、
つまり『紅の豚』を掘り下げて考える必要があります。
監督はこの作品を「作るべきではなかった」と反省の弁を述べられ、
「次作で決着を付ける」と決意を新たにされています。

宮崎作品は豚を醜く汚いものの象徴にしてますが、
『紅の豚』では、豚になる魔法を自身にかけた飛行機乗り・ポルコを、
ニヒルな賞金稼ぎとしてかっこよく描いてます。
ポルコが豚になったのは、人間としての暮らしが嫌になった為で、
豚になった苦悩も無ければ、周囲への偏執も無く、
最後にはフィオのキスで元の人間の姿に戻っています。

『もののけ姫』や『千と千尋』は、『紅の豚』では触れなかった
生きる苦悩や偏執を描こうとしたに違いありません。
ゆえに、アシタカや千尋にかけられた呪術に"意味"を持たせています。
タタリガミの呪いは、死の運命に向き合いながら
生きる道を選んでいくアシタカの生と死の二面性を描き出しており、
そして湯婆婆の呪いは、生きる事に背を向けた千尋の心に、
もう1度前を向いて歩みを進める機会を与えています。


『ハウル』も、変革のあった後期作品に位置します。

 '84 風の谷のナウシカ
 '86 天空の城ラピュタ
 '88 となりのトトロ
 '89 魔女の宅急便
 '92 紅の豚

 '97 もののけ姫
 '01 千と千尋の神隠し
 '04 ハウルの動く城  ← ココ
 '08 崖の上のポニョ

この作品にもやはり、魔法をかけられ姿を変えた主人公として、
90歳のおばあちゃんになったソフィーが登場しますが、
豚になったポルコとは、その経緯も、その意味も、明らかに異なりますよね。

では、ソフィーにかけられた魔法の意味とはいったい何なのか。
今回はこれを詳細に追ってみたいと思います。


―――


まず、ストーリーを整理してみましょう。『ハウル』には、
ソフィー以外にも姿を変えている人や物がたくさん出てきます。

ハウルの動く城


空を飛んだり透明になったりする魔法もいくつか見られはするんですが、
作中で描かれている魔法は、基本的に姿を変えるものが多く、
ハウルも敵を倒すのに、妖力を使ったり、光線を出したりしません。
黒い鳥に化けて、肉弾戦のみで戦ってます。

ここから魔法の定義を考察すると、ポルコが豚の姿になったように、
自分の心の姿を写し取る為に用いられると考えられます。
ハウルの金髪姿や、マルクルの大人ぶった姿、荒野の魔女のマダム然とした姿も、
元来の姿を否定し、心の中の願望の姿を肯定した結果であると言えます。


さてこの姿を変える魔法、使っているのは主にハウルと荒野の魔女です。 
ハウルは悪魔・カルシファーと契約によって力を得ています。
カルシファーが「ソフィーの目をくれるかい?」と何気に怖い台詞を言ってる事から、
どうやらハウルの魔法は等価交換が求められる西洋黒魔術のようです。
より強大な力を求めてハウルの心臓を狙う荒野の魔女も、
サリマン先生によると「悪魔と取引をして身も心も食い尽くされた」との事。
そう言えば魔女って悪魔と姦通するんですっけ…((((;゚Д゚))))ブルブル

となると、この2人が変身魔法を使うには何かしらの代償が必要になりますよね。
ハウルの場合はズバリ、若い女性の心臓が。
町の噂によれば「南町のマーサって子」が犠牲者らしいのですが、
これ、カルシファーが具体的な供物を要求してるとなると、
物の例えでなく本当に心臓を食べられてるという可能性もありますけど、
おそらく心臓=心を意味していると考えるのが妥当であると思います。

では、荒野の魔女はいったい何を代償にしたのでしょうか。
これは仮定に過ぎませんが、元々の姿がよぼよぼのお婆ちゃんであった事や、
若くて良い男に執着を見せている事から察すれば、男にモテる為に、
ソフィーの「若さ」を吸い取って、自分のものにしているのだと思われます。


ではでは、なぜ荒野の魔女の呪いの魔法を受けたはずのソフィーが、
自意識に応じて若返ったり老いたりを繰り返しているのか。
ポルコやアシタカや千尋にかけられた呪いは、勝手に解けたりはしませんし、
自力で何とか出来るような容易なものでもありません。

ここから得られる答えは、ただ1つ―

ソフィーは荒野の魔女からお婆ちゃんの姿に変えられるより前に、
ハウルによって強大な魔法をかけられてしまっているからです。
ハートズッキュン、心を奪う、恋の魔法を。


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↑奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です(キリッ


ソフィーはハウルと空中遊泳をした時に、魔法にかけられたと思われます。
「どうせ私なんて」と自分を否定する暗示の鍵が外れ、
心だけが恋しちゃってもいいじゃないモードに変身しているのです。

荒地の魔女がかけた呪いの力で肉体が老いても、心は18歳のままである為、
ソフィーが心のままを表した時はハウルの力に天秤が傾いて若返り、
逆にソフィーが心を否定した時は、荒地の魔女の力に傾き、
心身ともに老人の姿に近付くという、実にややこしい事になっています。

この複雑に揺れ動く天秤模様は、ソフィーの心理状態をよく描き出しており、
外見にとらわれない心の美しさを90歳のお婆ちゃんに投影し、
死の呪いをかけられたアシタカや、 名前を奪われた千尋と同じように、
今作のテーマに直結する"意味"を持たせています。


―――


ここからはストーリー考察です。

物語が佳境に入ると、ハウルは「守らなければならないものが出来た」と告げ、
悪魔の力とさらに同化し、国王軍との戦争に加担します。

ハウルは金髪から黒髪に戻ってしまった自分の姿に、
「美しくなかったら生きていたって仕方がない」と絶望してますが、
ソフィーに励まされてからは、黒髪の自分を肯定しています。
心の向くままに生きるのに、もう変身なんてしなくてよかったはずなんです。

ですがハウルは再び変身しちゃいました。ハウルが花畑の中で誓った、
「ソフィー達が安心して暮らせる」夢のような生活を続けるには、
本物の悪魔へと身をやつし、外敵を排除しなければならなかったからですね。
前述の通り、変身魔法は心の願望を肯定した姿です。
ハウルはソフィーを守る為に、デビルマンに変身したのです!


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↑悪魔になります。


ソフィーはハウルの身を案じ、「あの人は弱虫が良いの」と言って、
カルシファーとの契約の秘密を突きとめ、ハウルの心臓を元に戻します。
悪魔となってしまったハウルに、人間の心を戻したという意味でしょう。


で、これと同時にもう1人、変身魔法が解けた人が居ますよね。
かかしのカブ頭にされていた、隣国の王子です。
いったい誰がこの王子をカブ頭にしてたのか、疑問が残りますが、
おそらく王国側の都合で隣国との戦争を誘発する為、
サリマン先生が王子をかかしに変えていたと思われます。

宮崎監督は、『ナウシカ』の頃から"非戦"を訴え続けています。
監督のメッセージは、2人の変身が解けた事で成就されているのです。
これで話はめでたしめでたし…


と思いきや、最後の疑問がまだ解消されていません。
ソフィーの魔法ってどうなったの?

ソフィーの姿は、ハウルが悪魔と同化し戦地に飛び立って以降、
髪は銀髪のままですが、1度も老化していません。
要するに心の天秤がハウルの方に傾きっぱなしになっているという事ですが、
ソフィーにかかっていた2つの魔法は、解けていないんです。

これは、ハウルがソフィーの銀髪を肯定してくれたからに他なりません。
ハウルの黒髪をソフィーが肯定してくれた時のように、
お互いがお互いの本当の姿を、心から認め合っている。
まさに、サリマン先生の言った「ハッピーエンド」という訳ですね。


―――


原作には、ソフィーも命を吹き込む魔法を使える、という設定があるようです。
どうかカルシファーが千年も生き、ハウルが心を取り戻しますように
というソフィーの台詞が、実は魔法の呪文だったというのです。

宮崎監督が原作の設定に必ずしも忠実では無いので、
道場主としてはこういった考えを否定していますが、
心臓=心を失ったハウルに、ソフィーが新しい命を与えるという、
また違った解釈の仕方も出来るので、面白いですね。

引用:ハウルの動く城の謎の分析と解釈


そして、原作の設定に準拠していると仮定した場合、
ハウルがソフィーに惹かれた本当の理由も明らかになります。

ソフィーがカルシファーとの契約内容を知るべく、ハウルの過去を覗いた時、
私はソフィー、待ってて、私、きっと行くから、未来で待ってて!
と、子供の頃のハウルに必死で叫んでいますよね。

もしもこれが魔法の呪文であったとしたら?
そう、幼いハウルも、ソフィーに魔法をかけられているんです。
心を奪う、恋の魔法。ハウルとソフィーは最初から相思相愛だったんです。
だからこそ、何も無かった草原を花畑でいっぱいにして、
何年もずっとソフィーを待っていた、という事になるんでしょうね。

ハウルの心情は1番最初の台詞に現れてます。
「やぁごめんごめん、探したよ」、とっても深い意味になります。


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↑ハウルはずっと待っていた。


今年2013年は、宮崎監督の待望の新作、『風立ちぬ』が公開されます。
堀辰雄の同名の作品のプロットを下地にした、
ゼロ戦の設計者である実在の航空技師・堀越二郎のお話だそうで、
つまりこれもまた戦火の愛を描いた作品になるっぽいです。

『ハウル』では暈されてきた戦争描写が克明になるはずで、
ファンタジーを主体とした作品を残されてきた監督が、
実際に起きた太平洋戦争という題材を、どのように変身させるのか。
『ハウル』が大好きな道場主は、とっても期待しています。

未来で待ってます。
 


ご清覧ありがとうございました。

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