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2012年05月

【オタク論】(1) 統計学で「オタク」を定義する


正規分布

↑信頼率(1-α)の高い一般的な意見を採択した時の、
 オタクの認識への過誤を犯す確率(α)の図。たぶんあってる。

 引用:ようこそ、化学標準物質の不確かさへのいざない様
 (http://staff.aist.go.jp/t.ihara/confidence.html)より


「オタク」という言葉を聞くと、すぐに思い浮かべるのが、 
いわゆる秋葉系の、アニメや漫画などにどハマりしている男性でなかろうか。 

実際の所、それは一般人から見たステレオタイプなイメージに過ぎず、 
『仮面ライダー555』の半田健人は中川翔子と比肩するほどのネ申オタであるし、 
アスリートとして名高い柏原竜二や成田童夢もガチオタとしても有名だが、 
一般認識として、肯定的な捉え方をされる事は少ない。 
とかく、「オタク」はイメージがすこぶる悪い。 


「オタク」の定義には色々な解釈があり、例えば評論家の東浩紀は、 
キャラクターなどの愛玩的対象を構成する無数の記号を、 
自分の中に予め集積してあるデータベースと照合し、 
自分好みのものに選好して消費する人物を指すとしている。 

ただし、これは狭義的な観点から見たオタク像であり、 
先に挙げた半田健人の例には当てはまらない。 
自らをオタキングと名乗る岡田斗司夫は、SFオタクを自称する為に 
古今東西のSF作品を嗜好の有無に関わらず1000作品を観賞し、 
SFの知識を深めた事でオタクの王の地位を得たそうだ。 
広義の「オタク」は、選好などせず手に取ったものを片っ端から消費し続け、 
幅広く知識を取り入れた人物を指していると見るべきだろう。 


最も「オタク」を端的に表したのが、『バカの壁』の養老孟司が示した数式だ。 

 αx=y 

一般の人は、脳内入力 x にかかる脳内出力 y の値はイコールだが、 
「オタク」は、入力 x に係数 α が乗算される為、出力 y が膨大になる。 


―――


「専門家(マニア)」と「オタク」の違いはどこにあるか。

例えば小説や映画などのハイカルチャー評論を行うマニアと、
漫画やアニメなどのサブカルチャー評論を行うオタクは、どう違うか。
どちらも係数と出力の偏りの度合で言えば同じ意味となるだろう。


異なる2つのサンプル群のどちらが有益な情報かが未知である場合、
多くの人は自分の経験則、即ち主観によって情報を検定する。

 仮説(1) 「ハイカルチャー」は「サブカルチャー」より有益である。
 仮説(2) 「ハイカルチャー」は「サブカルチャー」より有益でない。

この時、"有益である"との仮定に基づく説を"対立仮説"といい、
"有益でない"との仮定に基づく説を"帰無仮説"という。
帰無仮説は、初めから棄却されて無に帰する事を前提としている。
このような仮定が現実に満たされるかは実証の問題で、
幾度もの反証テストを経て、信頼性の強度を勝ち得た仮説が、
晴れて一般論として広く認識されるのだ。

「マニア」は、こうした反証に支えられたハイカルチャーを論じる点で、
「オタク」が出力する情報とは違うと判断する事が可能である。
文学や映画は、優れた文化であるとして既に一般化している。
半田健人も昭和歌謡の知識において大作曲家の阿久悠にも認められたほどだが、
それもやはり時代を知る世代に歌謡曲が共有されてきた裏付けがあるからだ。


しかし、「オタク」を定義する上においても、
そのような反証が実際に行われたかどうかは疑わしい所だろう。

例えば漫画の場合、手塚治虫の時代から記号論が用いられている事が知られ、
現在では文芸小説にも劣らない高い文学的な技術や、
難解なテーマを作中に見事に落とし込んだ作品が数多く見られる。
アニメの場合でも、宮崎駿とジブリ作品を初めとして、
映画にも引けを取らないほどの印象的な映像表現を駆使し、
世界的に認められた作品の例はいくらでもある。
これは、別の仮説からの反証によって対立仮説を覆せる事の証明である。

だが、サブカルチャーに対しての反証が共有されてきた例は、
手塚や宮崎作品などを除いてほとんど存在しない。
サブカルチャーはハイカルチャーの付録だと思われているからだ。
情報を精査する上で有益な情報が選ばれるのであれば、
小説や映画より、漫画やアニメが劣っているものと主観的に判断し、
帰無仮説として棄却する事は、充分に理屈に反している。

このように、1つの仮説に対して補助仮説を立てて反証する考え方を、
デュエム-クワイン・テーゼ(決定不全性の命題)と呼ぶ。
物事には、色んな見方が必要だ。 


―――


一般的な認識と「オタク」の認識の違いの表し方は、偏見による所が大きい。
両者を区別するのは、出力された情報の大きさや深度ではない。
出力を受け取る側の情報許容量="有意水準"によって区別されるのである。 

一般化された情報の場合、情報を受け取る側の有意水準が高く、 
有意差も"正常なバラツキの範囲内"として見られるだろうが、 
「オタク」が出す情報だと、受け取る側の有意水準がおおむね低くなる為、 
有意差を"異常な値"として認識される場合が多い。 

共通理解の多い情報に対して100を出力できる人は褒められても、 
共通理解できない情報に100を出力されると気持ち悪がられる、という事になる。 
特に、東浩紀が著書の中で「動物化している」と表現した、 
美少女コンテンツを対象とする入力にセクシャリティの係数がかかる場合は、 
出力される値が正常だと一般的に認識される事はまず無いだろう。 

「オタク」はこのようにして、一般認識という有意水準から外れた 
はみだし者として扱われ、存在を否定されるのである。 


次回は、カフカの『変身』とキルケゴールの実存哲学から、
「オタク」の定義における補助仮説を挙げていこう。
 


ご清覧ありがとうございました。

【短評】『坂道のアポロン』~佐世保の街とその歴史


坂道のアポロン


↑混ざり合う2つの魂。


『坂道のアポロン』の舞台となった、長崎県佐世保市。

県内で2番目に人口が多く、ハウステンボスのある所として知られており、
作者・小玉ユキ先生の故郷でもあります。
私は今この街に住んで、翻訳家の仕事をしています。


長崎県には「南北問題」というのがあり、経済の流動性を見ると、
「北」の佐世保市が活発で、積立金を減らさず収支を安定させているのに対し、
「南」の長崎市は停滞していて、減債基金を切り崩す事で健全な収支を保ててます。
そのせいか、長崎県の経済政策はおおむね南高北低になっています。

佐世保の足腰の強さの秘訣は、何と言っても民業にあり、
ハウステンボス以外にも、一代で成功を収めたジャパネットたかたや、
あのマクドナルドを撤退させるに至った佐世保バーガー、
地方都市の中では日本一元気なアーケード街など、
地域振興のモデルケースとしても全国的に名前を知られています。

なぜ佐世保がこんなに上手くいってるのか?
理由は、軍港と造船の街してのもう1つの顔にあります。


佐世保市の町並み
引用:まちあるきの考古学様(http://www.koutaro.name/machi/sasebo.htm)より

佐世保

↑佐世保川を挟んで、東側に市街地、西側に造船所と軍港がある。


上の地図を見て頂けるとこの地域の地理的特性を一望できる思いますが、
田園広がる人口4000人ほどの小さな集落だった佐世保は、
明治19年(1886)5月の軍港設置の勅令から都市計画が立てられ、
同年9月には家屋を無秩序に建築する事を制限しました。
その為、市街地と港が東西に綺麗に分かれており、
東側にある市街地の道路はタテヨコ揃うように、碁盤目状に整備されてます。

この都市計画があったからこそ、アクセスの分散が防がれ、
人が一ヶ所に集まるコンパクトな街並みが作られたと言えます。
旧海軍府グッジョブ。お上のおかげやでぇ。


―――


長崎県では今年の4月から「ノイタミナ」を再び放送するようになりました。
『のだめカンタービレ』以来、60分に増枠してからは初めてですが、
理由はもちろん前半30分枠の『坂道のアポロン』。後半はカケラも流しません。
そもそも長崎では『ワンピース』ですら深夜アニメ扱いです。

県と佐世保市は観光振興の期待を寄せているそうですが、
地域振興課で宣伝をしていた記憶はありません。
ここは来月アップ予定のクールジャパン論で詳しく述べましょう。


『坂道のアポロン』では、主に市街地が舞台となっています。
作中で練習場所として利用していた「ムカエレコード」のある三ヶ町と、
薫と律子がスティックを買った「フルヤ楽器店」のある四ヶ町のアーケード街も、
最初の都市計画通り、見事なほどに真っ直ぐに作られてますよね。
これ、直線に繋がったアーケードとしては日本一の長さらしいです。

薫と千太郎が通う「佐世保東高」ですが、佐世保には東高は無いんですよ。
アニメ版の第2話で出てきた亀山八幡宮の位置から言っても、
地図上で赤く囲われた市街地エリアの最上部付近にある
「佐世保北高」の事だと見て間違いないでしょう。

同じく第2話では、鹿子前(かしまえ)行きのバスに乗って海水浴に行ってますが、
ここは地図の西側、佐世保重工の先にある西海パールシー辺りでしょうか。
第3話で出てきた眼鏡岩は、北高より更に北側に行った眼鏡岩公園にあります。
小玉ユキ先生と同じ佐世保市出身・久保ミツロウ先生の『モテキ』にも、
下関が舞台とのたまいながら、なぜかこの岩が出てきましたね。

オープニングで出てくる道路は、国道35線だと思われます。
薫と千太郎はこの道を南に下って帰宅します。

北高 → 亀山八幡宮 → 三ヶ町(ムカエレコード) → 四ヶ町(フルヤ楽器店)


―――


こんな佐世保ですが、旧海軍府の軍港は昭和20年(1945)に米軍に接収されました。
昭和30年(1955)に陸軍が撤退しますが、その後も海軍による統治は続き、
現在も多くの米軍さんが佐世保には滞在し、Yナンバーの車が市街地を走ってます。
佐世保と米軍さんは、切っても切り離せない間柄なんですね。

昭和25年(1950)には朝鮮戦争が勃発しますが、佐世保は連合軍の作戦基地となり、
三ヶ町と四ヶ町には米軍向けの飲食店・バー・キャバレーが激増しました。
特需景気の恩恵を受けるのと同時に、米国の文化もまた持ち寄られます。
前述のハンバーガーもそうですし、そしてジャズもまた然り、という訳です。
佐世保は戦後の日本きってのジャズの街でもあるんですよ。
当時は東京に次いで日本で2番目にレコードが売れ、地価は東京より高かった所です。
今でも九州最大規模のジャズフェスティバルが佐世保で毎年開催されていて、
ジャズは米軍さんの心だけでなく、佐世保市民の心も捉えています。


『坂道のアポロン』は昭和41年(1966)頃の佐世保を描いてるそうです。
アニメ版の第4話では、この街と米軍との関係がよく表されていました。
アメリカ人の父を持つハーフの千太郎が、なぜ不良になったのか。
なぜ白人のジャズが好まれ、黒人のジャズが嫌われるのか。

翻訳家の仕事というのは、言ってみれば他人を知る事です。
薫が千太郎の生い立ちに触れて涙を流したように、
他人を言葉の意味を知るには、その人の背景までを知らなくてはなりません。
言葉の通じない相手に対し、千太郎のように怒りをぶつけるのか、
それとも淳一のように理解で包んであげるのかは、
まさにこの街が半世紀に渡って経験してきた葛藤でもあるのです。
私は佐世保で翻訳家をしている事に浅からぬ縁を感じてます。

ジャズというのは、1つの答えでもあります。
『坂道のアポロン』では、米国生まれのジャズを通じて人と人との心を通わせます。
ジャズは西洋の音楽技術と、アフリカ系移民の魂が融和した音楽です。
薫と千太郎、生まれも育ちも全く異なる2つの魂が混ざり合うテーマは、
米国の文化を受け入れた佐世保が舞台だからこそ説得力が生まれるのです。

佐世保の街の文化背景を知れば知るほど、『坂道のアポロン』は面白くなります。
この記事が同作品の理解の一助となってくれる事が、私の希望です。


総評はこちら → 『坂道のアポロン』~アニメならではの「音」の表現
 



ご清覧ありがとうございました。

【萌え論】(3) 『けいおん!』の甘美な世界

ブログネタ
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けいおん!

↑芸術美の粋を結集させた『けいおん!』、詩的ですらある。


「萌え」がパラフィリア(倒錯)であるとしたら、
あたかもそれが「エロ」であるかのようにユーザーに錯覚させる手法は、 
90年代後半には市場として成立し、大きな成功を収めている。 
これらはコミックマーケットを通じて二次作品化されていくのだが、 
この時、多くの同人作品が「エロ」要素を再び付け足し、 
エロパロディとして先祖返りを果たしているのだ。 

アダルトコンテンツから全ての「エロ」を取り除いても、 
ユーザーの倒錯によって「エロ」を補完する。 
これがアダルトコンテンツと血を分けた美少女コンテンツの、 
そして「萌え」の弁証法的な相関性である。 


「萌え」は「エロ」と同じで、それさえあれば、 
ストーリーテリングが無くとも作品としての体をなしてしまう。 
しかし、当然ながらそのような引き算だけの構成ではなく、 
残されたものをいかに純度を高めるかに主眼が置かれている。 

こうした観点から、「萌え」史上における空前のヒット作・ 
『けいおん!』がなぜ大きな支持を集めたのかを探ってみよう。 


―――


『けいおん!』の恐ろしさは、引き算の徹底と、 
芸術美の粋と思えるほどまで高められた掛け算の構造にある。 
ターゲットとなるユーザーが"不快"に思う描写を徹底的に排除し、 
"快"に思う描写を、最高の作画・最高のキャラ・最高の演出で掛け合わせ、 
100%に近い共感を得る相乗効果を生みだしているのだ。 

『けいおん!』では、女子高生なら必ず通るであろう恋愛経験を、 
登場人物の誰1人として通過していない。 
そもそもこの原作には、男性キャラがほとんど登場しない。 
主人公・平沢唯の父親、桜が丘女子高校の古文の先生、 
楽器店の店員、コンビニの店員、この4人だけ。 
ラフ画のみに登場した琴吹家執事、桜が丘高の校長と、 
原作続編で出てきた純ちゃんの兄を含めても、たった7人。 
舞台が女子高とは言え、男性の交友関係すら明かさぬ徹底ぶりだ。 

次に、日常作品と言われながらも、トイレやお風呂のシーンが無い。 
アニメ版で梓のトイレシーン、原作続編で浴場シーンが追加されたが、 
それまで『けいおん!』には下の描写が存在しなかった。 
男性キャラの件を含めても、他の萌え作品には、 
例えば『あずまんが大王』の「よみ」が便秘だったり、 
スタイルを気にしてダイエットしてたりするシーンがあるが、 
この漫画はそれを意図的にカットしていると見られる。 

さらには、過度な努力シーンが無い事も特徴のひとつだ。 
『BECK』では主人公の「コユキ」が、バイトしてお金を貯めたり、 
ギターの弾きすぎで指の皮が剥けたりする描写がある。 
ところが、軽音部員は放課後の音楽室で皆で楽しくお茶を飲み、 
陰で必死に練習しているにしても、表立った描写は抑えられている。 
やはりこれも、伝えるべき必要の無いものとして、 
作者が意図的に排除しているからだろう。 

このように『けいおん』には、悪意、汚辱、苦痛など、 
あらゆる"不快"な描写の一切が取り除かれ、 
"快"の描写だけが選別され残されているのが分かる。 
「桜が丘女子高」というユートピアを生み出す為の下地が、 
引き算の徹底によって形成されているのである。 


残された"快"の描写は、ここから更に純度が高められる。 
『けいおん!』では、音楽的な役割がキャラとして与えられている。 
リードギターが先行し、リズムギターがそれを追従し、 
ドラムスは自分のペースを守り、ベースは周りの人に合わせ、 
キーボードは後ろから見ている、といった感じ。 
軽音部員の1人ひとりが楽器であり、軽音部自体が1つのバンドのように、 
まとまりをより感じさせる為の横の繋がりが細かく設定されていて、 
ユーザーが作品に入り込みやすい空気を生んでいるのである。 

そこに、ユーザーが好みそうな猫耳やコスプレの要素も取り入れ、 
いわゆる属性と呼ばれる演出効果でキャラへの感情移入を高めている。 
例外的に沢庵の子だけは演出に失敗し人気を落としているが、 
リズムギターの子を「にゃん」付けしたり、ギターに名前を付けたり、 
キャラクターの付加価値を上げる試みはおおむね成功している。 

その上で、アニメ版ではキャラクターデザインを手掛ける 
堀口悠紀子が原作より優れた"黄金比"の絵柄を導入して、 
極めて質の高いアニメーションをユーザーに提供している。 
キャラ・作画・演出、完璧なまで三重奏。 
まるで口どけする甘いチョコレートのようだ。 
チョコレートの"素材"本来の味であるカカオの苦みを取り除き、 
そこに甘さを加えて、最高のスイーツになるよう調味されている。 
芸術美の粋を結集させ、甘美な世界を作り上げたのである。 

『けいおん!』の悪い点をあえて挙げるなら、 
展開の起伏に乏しく、作品としての変化が無い所か。 
同じような"快"の描写を再生産して繰り返し使用しているので、 
甘いのが苦手なユーザーからの共感は得にくいだろう。 
ユーザーの嗜好は多々あれど、甘いもの好きにはたまらない、 
そんな作品に仕上がっているのではないだろうか。 


―――


これと逆の事をやったのが、『げんしけん』の作者・木尾士目が
『月刊アフタヌーン』で2010年まで連載していた『ぢごぷり』である。 

『けいおん!』では"快"の描写を残して増幅させていたが、 
『ぢごぷり』は"不快"な描写を残して増幅させている。 
キャラ設定、属性効果、"黄金比"の絵柄を用いた点までは同じで、 
あらゆる悪意、汚辱、苦痛を克明に表現する事を試みた。 
例えるなら、カカオ99%のビターチョコレートだ。 

だが、『ぢごぷり』は結果的に読者からの共感を得る事に失敗した。 
起伏に乏しく、育児に疲れて落ちていくだけの暗い展開を、
甘味好きの読者にネガティブに取られてしまったのだろう。 
この漫画は巻行2冊で打ち切られ、木尾は人気のあった 
『げんしけん』の続編を新たに描いている。 


なぜ両者にこのような差が生まれた生まれたのだろうか。 
ここでヒントとして出てくるのが、倒錯である。 

プラス要素とマイナス要素、極性の違いはあれど、 
『けいおん!』と『ぢごぷり』に用いられた技術は同じものだ。 
だが不思議と『けいおん!』には萌えて、『ぢごぷり』には萌えない。 
これは、『ぢごぷり』からは「エロ」を感じない事とイコールで、 
すなわち倒錯が発生しないからであると考えられる。 

『ぢごぷり』には、おっぱいがたくさん出てくる。 
"黄金比"にとても近い絵で、ぷにゅぷにゅと柔らかそうに描かれている。 
しかし、それらは例外なく授乳器としての機能を果たすのみで、 
「エロ」としての倒錯は起きにくかった。 


育児は、もれなく"快"と"不快"の両方がついてまわり、 
"快"で得られる充足が大きいから、"不快"に耐えられるのだろう。 
これまでの育児漫画は、その両極性をカバーし、 
作品の"象徴"とする事で、多くの読者からの共感を得てきた。 
しかし、どちらか一方を意図的に削ったとするなら、 
穴埋めに別の何かを持ってこないと、作品として成り立たなくなる。 

その補完こそが倒錯であり、『けいおん!』の「萌え」であった。  
『ぢごぷり』は倒錯による読者の穴埋めがなされなかった。 
ゆえに、同じ技術を用いた両作品に差が付いてしまったのだろう。 


―――


こういった倒錯を一種の芸術美として感じさせるには、 
外堀を隙間なく埋めるような周到さと、確かな技術が要る。 
よつばと!』の回で川端康成の共通例を挙げたように、
「萌え」にはモダニズム文学に通じる技術が実際に使われた作品もある。
俳句でも、17文字まで短く削り取った文章から
大きな世界を想像させる手法が古くから用いられており、
そういった意味では「萌え」は詩的であるのかも知れない。

『けいおん!』は、残したコンテクストが高いレベルでまとまるように
"快"の描写をひたすら描き続け、感情移入を高めている。 
優れた作品であるならある程度のバランスを維持しているものだが、
狙ってやらなければ出来ないのが、"黄金比"のバランスである。

この作品は、原作者かきふらいと制作会社の京都アニメーションにより、 
売れるコンテクストとして初めから計算されていたのだ。


 この記事はアニプレッションに投稿しました。

※後記
 アニメ版のトイレシーンにて、記載漏れがあったようです。
 唯ちゃん達もトイレに行った事あるんですって…。
 原作のコンテクストではこの違いは結構重要なんですけどね…。
 


ご清覧ありがとうございました。

【萌え論】(2) 倒錯の芸術美


同級生トゥハート

↑『同級生』と『To Heart』、どちらが"黄金比"に近いか?


現在の「萌え」を芸術美の完成、つまり"黄金比"としてみた場合、 
"黄金比"が確立する前の「萌え」の原型となる絵柄は、 
90年代に流行した、恋愛をテーマにした漫画やアニメ作品、ゲームなど、
美少女ものとして区分されるコンテンツの中に見られる。


1997年、『新世紀エヴァンゲリオン』の再放送を受けて、
深夜アニメの採算性が見込まれるようになり、
テレビ東京を中心にアニメの放送枠が急速に拡大した。
これより以前ならOVAとして作られただろう美少女ものの作品群も、
深夜枠を利用して地上波に流入する事となる。

が、同時期はTV業界全体で自主規制の嵐が吹き荒れる真っ直中であった。
98年には『ギルガメッシュないと』が打ち切りとなり、
深夜アニメにおいても、OVAでは積極的に用いられたお色気シーンの数々を、
地上波でそのまま適用する事は難しい状況にあった。

そこで白羽の矢が立ったのが、既に表現規制の問題をクリアし、
ブームを呼んでいた美少女ゲーム(ギャルゲー)のアニメ化である。

ヒットの要因は、美少女を美少女として描く作画技術の高さにあった。


―――


もともとギャルゲーは、アダルトゲーム(エロゲー)から派生したものだ。
美少女コンテンツの草分けは、92年発売の『同級生』とされているが、
同作品はエロゲーとして先にヒットを収めており、
家庭用ゲーム機に移植される際、「エロ」を完全に取り除く事で、
美少女として描かれた人物画と、背景となる心理描写が残った。

何をもって"美少女"とするかは様々だが、客観的には美しいと認識されるには、
端整な顔をした若い女性を、誰にでも分かるように美しく描く必要がある。
『同級生』の原画家・竹井正樹は、それに相応する作画技術を持っていた。 
エロゲーもギャルゲー同様、万人を説得する力が絵に無ければ、
審美眼の厳しいユーザーから冷たく見放されてしまう。
こうした技術的な下地があったからこそ、「エロ」が無くとも
キャラクターに深く感情移入する事が可能な美少女ゲームになりえたのだ。


しかし、「萌え」と比較した場合、竹井の絵は"黄金比"から外れている。 
どちらかと言えば『同級生』より後にヒットした 『To Heart』の方がそれに近い。 
前者の絵は顔の輪郭線がはっきり描かれているのに対し、 
後者の絵は鼻や頬の線がほぼ省略され、よりデフォルメされている。 


かつてのアダルトコンテンツは、劇画調が主であり、
顔の線や陰影は多く、裸体や服のしわも細微に描かれていた。
だが、そうした絵柄が用いられた女性は老けて見られる為、
次第に簡略化した線が用いられるようになった。

こういった特徴を表す作品は、美少女ブームより以前に存在している。 
1982年頃に流行した、ロリータブームである。 
 漫画で言えば内山亜紀、アニメで言えば『くりいむレモン』に代表される、
少女のかわいらしさを強調したような絵柄は当時から人気があり、
それ以外の目鼻立ちの濃い絵柄を市場から締め出すに至った。
『To Heart』は、そうした時代の変化を揺り戻すかのように、
竹井の絵を時代遅れの古臭いものへと追いやったのだ。

同作品は家庭用ゲーム機へと移植され、「エロ」成分が除去された後、
表現規制の風が強まった地上波で、堂々と放送される。
これ以降、より洗練された絵柄が用いられた『シスタープリンセス』が生まれ、 
「萌え」が一大ブームとなる礎が築かれていったのである。

「萌え」の"黄金比"となる絵柄は、ロリータブームを起源にし、
『To heart』によって方向性が決まり、『シスプリ』によって広まったと見られる。
 

―――


「萌え」作品は、こうした市場背景を持っており、 
80年代の淘汰を生き残った作家や、それを模倣してきた後続によって 
脈々と受け継がれてきた"黄金比"の絵柄によって表されている。 

"黄金比"とは即ち、これまでユーザーが「エロ」として消費してきたものだ。 
萌え漫画の代表格である『あずまんが大王』のあずまきよひこが、 
かつて『淫魔の乱舞』というエロ漫画を描いていた事も、 
あながち偶然ではない何かを感じずにはいられない。 

「萌え」は、「エロ」とははっきり違う。 
それこそ、『あずまんが大王』と『淫魔の乱舞』ぐらい違う。 
しかし絵柄だけを見て「萌え」と「エロ」を比較した場合、
ギャルゲーとエロゲーの美少女が同じ"黄金比"で描かれているように、
両者の境界も極めて曖昧になる事は確かだろう。

「萌え」とは、パラフィリア(倒錯)の芸術美である。 
個人の嗜好、つまりへーゲルの言う即自的な主観が、 
ロリコン(少女愛)や、フェティシズム(性対象倒錯)など、 
倒錯としての様々な形が存在するだけで、そのメカニズムは全く同じだ。 
「エロ」を排除しても残りうる美的感覚が対自的な客観として働く事で、
「X=¬X」というあり得ない数式が成立し、 
全く違うものが、あたかもイコールであるように倒錯を起こす。 

これが「萌え」の正体なのではないかと思う。 

美少女から「エロ」を取り除いても、倒錯によってそれを補完する事は、
『伊豆の踊り子』で言えば、主人公である「私」が、
女湯から身を乗り出して手を振る天真爛漫な「踊り子」を見て、
笑いがこみ上げてくる感覚と同様のものであるだろう。


次回は、へーゲル弁証法的な観点から、 
けいおん!』と芸術美について、 詳細に述べていく。


 この記事はアニプレッションに投稿しました。
 


ご清覧ありがとうございました。

【萌え論】(1) へーゲル弁証法で「萌え」を定義する


いまいち萌えない子

↑いまいち萌えない子。「萌え」の"黄金比"から外れている。


2011年1月14日、神戸新聞社が出したアルバイト募集の広告で、 
こんなユニークな問題が出され、話題になった。 

 右のキャラクターがいまいちいけてない(萌えていない)理由を3つ挙げなさい。 

問題のキャラクターとは、通称「いまいち萌えない子」と呼ばれ、 
ツインテール、だぼだぼのセーラー服、ニーソックス、ぺたん座りと、 
いわゆる"萌え要素"を必要最低限に備えているのに、 
どういう訳だがまるで萌えない、全身青尽くめの女の子だ。 

「萌え」については、これまで色んな解釈がなされてきた。 
そして、"萌え要素"は個人の嗜好によって左右される曖昧なものとして、 
見解を統一する定義が述べられる事は無かった。 
ところが、この子はどう見ても「萌え」度合が不足しており、 
その定義付けに解釈の余地が残されている事をはっきりと示したのである。 

「いまいち萌えない子」は、まず目が大きすぎると指摘された。 
それからパースの狂った体型、絶対領域の可視範囲の狭さなども理由に挙げられ、 
全身青尽くめな点は、優れた絵師によって無関係である事も明確になった。 
何と比較して"大きい"、"狂っている"、"狭い"と言っているのか、 
誰も根拠を示していないのだが、この子の空虚に浮いた表情を見ていると、 
なぜだか説得力があるように思えてしまう。 

ここから導き出されるのは、「萌え」は決して個人の嗜好だけではなく、 
客観的な判断基準によっても想起される感情であるという事だ。 


例えば、"絶対領域"という単語をネットで調べると、 

 ただ単に露出があれば良いというわけではなく、 
 「ミニスカートの丈:絶対領域:ニーソックスの膝上部分」の比率が 
 「4:1:2.5」であることが理想(黄金比率)とされ、 
 誤差の許容範囲±25%と言われる。 

と、具体的な数字までかなり詳細に書かれてある。 

もちろんこれは出典元のネタ的な解釈に過ぎないのだろうが、 
どうやら「萌え」には"黄金比"が存在し、その客観的基準により、 
顔パーツのバランスやデッサンの不安定さが指摘され、 
萌える、萌えないの正否判断がなされていると見て良いだろう。 


精神現象学の父・ヘーゲルは、主観と客観が合一に至る流れを、 
正・反・合の3つの図式で表し、弁証法をもって両者の矛盾を克服した。 


・正 =「即自」
 意識や精神など、主観的な考え方(萌え要素)を指す。 

・反 =「対自」
 法則や原理など、客観的な考え方(黄金比)を指す。 

・合 =「即かつ対自」
 主観と客観の合一によって生まれる理念(萌え)を指す。 


「萌え」は"萌え要素"という記号によって消費されるものでは無いと、 
「いまいち萌えない子」は確かに証明していた。 
必要最低限の"萌え要素"を装備していても、"黄金比"から外れていては、 
「萌え」という認識の合意には達しえなかったのだ。 

ヘーゲル弁証法で言うところの"合"に該当する理念が「萌え」であるなら、 
"萌え要素"という主観を、"黄金比"という客観と対比させ、 
「萌え要素=黄金比」となった時に、「萌え」が想起されるという事になる。 
「X=¬X」という回答は数学的には間違いであるが、 
「いまいち萌えない子」に対する回答としては、正解だろう。 


正…萌え要素 = 反…黄金比 

    ↓      ↓ 

     合…萌え 


ヘーゲルが目指したのは、芸術を理念によって体系化する事である。 
「絵にも描けない美しさ」や「言葉に言い表せない感動」を、 
カントは自然美とし、認識できる対象ではないとした。 
ヘーゲルはカントの美学を引き継ぎつつ、精神性と自由をもって 
これらを芸術美として客観的に認識していくようになった。 

ヘーゲルの理論に当てはめれば、「萌え」は美的感覚の一種であり、 
『へうげもの』の古田左介が感じる「数奇」と同様に、 
意識や精神で認識する芸術美として定義する事が出来る。 

ではいったい、「萌え」の"黄金比"はどこにあったのだろうか。 

次回は、萌えが想起されるメカニズムについて、詳細に述べていく。


 この記事はアニプレッションに投稿しました。
 


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