漫画道場

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2012年04月

【中級】『3月のライオン』の心象描写

3月のライオン

↑まるで文芸小説に挿絵が付いたかのような表現力。


『3月のライオン』の作者である羽海野チカは、 
文芸小説に用いられる叙述的な心象描写を、 
そのまま絵に表す事の出来る、表現力の高い漫画家だ。 

一手一手、まるで素手で殴ってるような感触がした、とか、 
香子はひびの入ったグラスみたいな女の子だった、とか、 
いかにも小説的な比喩表現を使っている文章に、 
硬く握り締めた拳の絵や、半ばまで脚が水に浸かった絵など、 
描画技術によって的確に心象状態が表されている為、 
登場人物の気持ちがとてもよく伝わってくる。 

こういった描写に優れた作家は女性の漫画家に多いが、 
その多くが恋愛の話に依存して共感を得ているのに対し、 
羽海野はプロットまでもが小説の組み立て方と同じで、 
テーマ性に主眼が置かれているのが特徴である。 


――― 


『3月のライオン』は夏目漱石の『こころ』に似ている。 

「家も無いし」 
「家族も無い」 
「学校にも行って無い」 
「友達も居無い」 

アナタの居場所なんて、この世の何処にも無いんじゃない? 

という義理の姉・香子の台詞で始まる本作。 
主人公の桐山零くんは、そんな言葉を思い出しながら、 
引っ越しの荷物も未開封のまま、窓にはカーテンも付いてない、 
カーペットもない床板に直に敷いた布団の上で目覚める。 

桐山くんは幼くして家族を交通事故で亡くした事で、 
父の親友だった将棋一家の養子になり、そこで 
あまりの将棋の強さゆえに義理の姉弟から嫉まれる。 

桐山くんの心を支配しているのは"自己否定"だ。 
そしてそれは夏目漱石の生涯のテーマでもあった。 


漱石の作品は"自己肯定"か"自己否定"のどちらかがテーマで、 
『坊ちゃん』が"自己肯定"の代表格であるとするなら、
『こころ』は"自己否定"の精神が最もよく表された作品だ。 

「K」は"自己否定"をしながら道を求め続け、 
それが叶わずに最期は自分の存在を自分で絶った。 
「先生」は「K」の自殺を自分のエゴイズムのせいだと考えるも、 
苦悩の末に、やがて「K」と同じ"自己否定"に行き当たる。 

桐山くんも同じだ。義理の家族の家を出てから、 
1人暮らしを始め、高校にも通うようになるのだが、 
結局そこでもずっと孤独に、自分をひたすら消して生きた。 
自分はカッコウと同じだと"自己否定"する事で、 
自分のせいで将棋を諦めた義理の姉の面目を保とうとしていた。 


――― 


「K」は自殺する日の晩、隣の部屋で寝ている 
「先生」との間に仕切られた襖を少しだけ開けている。 
誰も寄せ付けず、ずっと心を閉ざしたままだった「K」は、 
「先生」にだけは心の襖を開いていたという事だ。 

「先生」もまた自殺する前に、妻にも開いていなかった心を、 
"遺書"という形で書生の「私」に残している。 
「K」と同じ孤独を抱えながら、「K」を理解しなかったのが、 
「K」の自殺を通じてようやく孤独の意味を理解したのだ。 


桐山くんも何も無い部屋の中で、孤独に喘いでいた。 
必死に泳いで空虚な生活から逃げてきたのに、 
泳ぎ着いた先もやっぱり何も無い無人島だった。 
将棋だけが自分が生きている存在意義だったのだが、 
自分の存在を消して"自己否定"をしていた桐山くんは、 
将棋においても自分を大切にしなくなった。 


だけど、桐山くんには二階堂くんが居た。 
桐山くんの心の中にぐいぐい上がり込んでいって、 
何も無い部屋にソファーベッドと羽毛布団を置いて帰る。 
「K」が「先生」の部屋の襖を開けていたように、 
この心の距離感が2人の関係性を表現している。 

二階堂くんも桐山くんと出会う前は、難病で友達が作れず、 
盤上で強くなる事だけが拠り所のひねくれてた子だったのだが、 
自我のカタマリに成り果て、孤独だった二階堂くんの 
アタマをかち割り、救ってくれたのが桐山くんだった。 

桐山くんの将棋がおかしい事に気付いた二階堂くんは、 
自分の将棋を大切にしてくれ、と桐山くんに訴えかける。 
それに対して桐山くんは、自分の事で一杯いっぱいで、 
二階堂くんの言葉の意味を理解しなかった。 

「先生」が「K」を理解する唯一のチャンスの時に 
自分のエゴイズムを優先させてお嬢さんに求婚したように、 
桐山くんも二階堂くんの言う自我のカタマリになっていて、 
二階堂くんと同じ孤独を背負い込んでいたのに、 
そこからずっと目を背け、逃げ続けていたのだ。 


――― 


そんな時、二階堂くんが新人戦の準決勝で倒れ、入院した。 
「K」は死を選ぶ事で"自己否定"を完結させたが、 
二階堂くんは倒れるまで自分の生きる証である将棋を指し続けた。 
桐山くんは死の影が忍び寄る二階堂くんの残した棋譜を見て、 

戦ってるんだ 
みんな たったひとつの 
小さな自分の居場所を 
勝ちとるために 

と、自分への決意を固める。 

そして決勝戦での対局中、また自暴自棄になって 
自分を見失うような強引な一手を打とうとした 
桐山くんのアタマを、自分を大事にしてくれ、と言った、 
二階堂くんの言葉がかち割ったのだ。 

桐山くんは「先生」のようにはならなかった。 
孤独の中で思い出したのは独りぼっちの苦悩ではなく、 
孤独と戦いながら生きてきた人達の事だった。 
彼はついに"自己肯定"に至り、自分を守る術を知る事で、 
自分の心を取り戻したのである。 


――― 


『3月のライオン』は、夏目作品とも比較できるくらい、 
心象描写に優れ、メッセージが読者の心に深く刻まれる。 
同じ"自己否定"から"自己肯定"に至った作品なら、 
最近では『新世紀エヴァンゲリオン』が有名だが、 
『3月のライオン』がこれだけ分かりやすいのと比べたら、 
『エヴァ』はとても分かり難い作品だと言える。 

なぜか? 

解釈項の中に、余計なステップが混じってるからである。 

『エヴァ』と読者が共通認識で結ばれる為には、 
フロイトの心理学やキルケゴールの実存哲学などを 
読者が予め知っている必要がある。 


つまりこう↓ 


【3月のライオンの解釈項】 
"象徴" → 記号化 → "象徴"の理解 

【エヴァの解釈項】 
"象徴"→ 学論 → 記号化 → 学論への理解 → "象徴"の理解 


"象徴"をそのまま叙述や映像で記号化しているものは、 
絵や文章を見るだけでそれが伝わり、理解が出来る。 
『3月のライオン』はそういう作品だから分かりやすい。 

しかし、"象徴"が薄まったりブレたりした時や、 
叙述や映像が"象徴"ではない別の何かを表している時など、 
それを読み解くのが困難になる場合がある。


次回は、『HUNTER×HUNTER』がなぜ分かり難くなったのかを、 
『ジョジョの奇妙な冒険』と対比させながら解説してみる。 


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ご清覧ありがとうございました。

【中級】冨樫義博の挑戦

HUNTER×HUNTER

↑ゴンの表情に注目。


『HUNTER×HUNTER』の冨樫義博は、ビジョンを持っている。 
『レベルE』を連載していた頃に作者自身が語っていたように、 
最初に着想があり、それを自分の中で暖めておき、 
時間を置いてから何かのきっかけで別のヒントを得た時、 
それが最初に得た着想と結び付く事があるそうだ。 

卵は放っておくだけでは孵化しない。 
抱卵して暖める事で、新しい命が内側から殻を破る。 
冨樫が休載するのは、抱卵が必要な為だろう。 
そこでようやく冨樫のビジョンが作品に落とし込まれる。 


『幽☆遊☆白書』の頃は、まだビジョンは無かった。 
他の少年漫画のプロットに着想を得て、それを流用して 
自分流にアレンジしているような作品であった。 
だが、『幽白』は魔界編より以降、少年漫画から脱却する。 
連載によって洗練され、むくむくと起き出した冨樫の"象徴"が、 
少年漫画の枠組の中に収まり切れなくなったのだ。 

冨樫は勧善懲悪を越えた"人間性"を描こうとした。 
読者の『幽白』の認識は、暗黒武術会の『幽白』である。 
暗黒武術会のプロットを魔界統一トーナメントでもやれば、 
読者の支持をずっと維持する事は出来ただろうが、 
冨樫はそれを許さず、連載を終わらせた。 

読者から見たら、それは「変わった」という認識だろう。 
少年漫画の読者が望むものは、少年漫画であるからだ。 
読者の認識と違う、象徴性が強まった『幽白』を見て、 
つまらないとか、面白くないという意見が出ても然りと言える。 
だが、冨樫の漫画は決して劣化した訳ではない。 
"象徴"が読者の理解を越え、認識が一致しなくなっただけだ。 
それは次作の『レベルE』で証明された。 


――― 


『H×H』では、『レベルE』で試された新しい枠組作りを、 
今度は少年漫画のプロットを利用して伝えられた。 
偉大なハンターである父親を探して旅に出るという、 
いかにもありがちな使い古されたプロットを流用しながら、 
揺るぎない強い信念を持った登場人物が、協力し合い、 
また相反し合いながら、1本のストーリーを紡いでいくという、 
作者の手から離れた所で作品をコントロールする、 
キャラクター重視の手法が取られている。 

実は、『H×H』の連載開始から遡ること十数年前、 
かわぐちかいじが『沈黙の艦隊』でこの手法を確立している。 
小説でもよく言われるのが、キャラクターが独り歩きをすると、 
作者の"象徴"が最初と最後で変わってしまうという事だが、 
『H×H』や『沈黙の艦隊』は、最初にキャラクターを固める事で 
ストーリーを脱線させる事なく"象徴"に導いている。 

『ブラックジャックによろしく』や『東京大学物語』は、 
作者の主観がストーリーに介入しすぎて、登場人物が 
作者の"象徴"を代弁するただのメッセンジャーになっていた。 
ストーリーを完全な客観によってコントロールする事は 
優れた小説家でもなかなか出来る事ではなく、 
実際に日本人が書く文学作品には私小説が非常に多い。 

冨樫は海外作家のような俯瞰の目線で作品を作る、 
音楽に例えれば、指揮者のような役割に徹している。 
冨樫の伝えたい事、つまり"人間性"は、登場人物の表情で表している。
10の台詞を並べるより、1つの表情で伝えようとしているのだ。
まさに漫画という媒体の特徴を活かした表現である。
だから人物の心情がどんな台詞より伝わるのだ。


――― 


『ジョジョの奇妙な冒険』では、『H×H』と逆の手法が取られる。 
『ジョジョ』の作者・荒木飛呂彦も、冨樫と同じように 
初めは少年漫画の枠組の中で漫画を描いていた。 
しかし、第5部の後半から少年漫画にマッチしなくなり、 
第6部からは読者の理解を越えた作品になっていった。 

たがこれも、荒木が目指そうとしていた"象徴"が、 
読者の『ジョジョ』に対する認識と乖離していった為で、 
当然ながら作品自体が劣化した訳ではない。 

『H×H』は最初にキャラクターをがっちり固める事で 
その後のストーリーの脱線を防いでいたが、 
『SBR』はが最初にプロットを線路のように敷いて、 
そこからはみ出ないようにキャラクターを動かしている。 
荒木の描くキャラクターは、線路を走る列車に乗った乗客である。 

第7部では、相対性理論や特異点定理、回転と重力の関係など、 
難解な学論に着想を得ていると思われる為、 
『エヴァ』と同様の分かり難さが障壁となっているが、 
荒木の描く"象徴"は、とてもシンプルなもので、 
生きる事に背を向けたジョニィの"成長"を追っている。 
これは最も人気のあった第3部の頃より巧みに描かれていて、 
劇場型とも言うべき手法は、究極の域に達した。 


――― 


手法こそ違えど、"象徴"を一貫したものにする構成力の高さは、 
冨樫義博も荒木飛呂彦も、他のジャンプ作家より抜きん出ている。 

共通認識で結ばれる読者数が前より減ったとしても、 
どちらも優れた漫画家である事に変わりはないだろう。
 


ご清覧ありがとうございました。

【入門】叙述と映像

hoshinotategoto5-753eb_1 ←この人が誰か、絵だけで分かる?


漫画とは何か― 

小説は叙述によって表され、映画は映像によって表される。 
漫画は、小説と映画の中間に位置付けされる媒体だ。 
叙述によっても映像によっても、両方で表す事が出来る。 

叙述は1つの事を詳細に説明する事が出来るが、 
10をいっぺんに説明する事は出来ない。 
映像は10をいっぺんに映し出す事が出来るが、 
1つの事を詳細に映す事は出来ない。 

例えば、「私」を表す時、歳はいくつか、性格はどうか、 
具体的な特徴を1つひとつ叙述する事によって、 
相手に「私」の詳細なイメージを伝える事が出来るが、 
「私」そのものは映像を見ないと分からない。 
逆に、相手に「私」そのものを見せたとしても、 
歳はいくつか、性格はどうかを知る事は出来ない。 


そこで、優れた小説家は10を伝える方法を考え、 
優れた映画監督は1を伝える方法を考えた。 

「007」は、机の向こうで鳴ってる電話に出る時、 
手を目一杯に伸ばして急いで受話器を取るのではなく、 
机の周りをゆっくり歩いて迂回して受話器を取った。 
この事で、「007」は冷静な性格であるというのを伝えている。 
小説では短い叙述で多くを伝えて無駄な説明を避け、 
映画では映像から不足している説明を付け足している。 

これが、表現力である。 


優れた漫画家も、やはり表現力を持っている。 
巧みな叙述と映像をもって、読者に伝えたい事を表現する。 

次回は、優れた漫画家の代表格である井上雄彦の 
スラムダンク』の表現力を追ってみる事にしよう。
 


ご清覧ありがとうございました。

【入門】『スラムダンク』の表現力

スラムダンク

↑安西先生は山王戦の勝利と選手達を信じていた。


手塚治虫の時代、漫画は小説の延長でしかなかった。 
手塚は文学的な叙述のテクニックを漫画に持ち込み、 
生涯をかけて自らのテーマである生命観を描き表した。 

叙述=文字は、登場人物や対象物を説明する為の記号で、 
ナレーション、台詞、様々な手段を用いて伝えられるのだが、 
映像=絵は、その叙述の延長線上に存在しており、 
説明の代わりに置き換えた、他者と識別する為の記号であった。 
「ブラックジャック」は白髪でツギハギの顔をした、 
黒いコートを着込んだ男だ、と説明する代わりに 
絵で描いて置き換えたものが、手塚の漫画という事になる。 


ところが、時代は絵に変革を起こした。 
それが、劇画の時代だ。 

劇画は、絵に含有する叙述の数をより増やす事で、 
読者に迫力や臨場感を伝え、強固な説得力を持たせた。 
手塚は劇画との戦いに挑み続け、ついに敗れてしまう。 

そして劇画はそこから更に進化を遂げる。 
絵の中の叙述の質量が膨大になり、映画のように 
映像だけで読者に伝える事が出来るようになったのだ。 
「ゴルゴ13」は、俺の後ろに立つな…、と、 
表情を全く変えずに、細い目の奥から冷酷に言い放つ事で、 
極めて冷静で用心深い性格を読者に正確に伝え、 
どんな困難な依頼でも黙って引き受け、必ず遂行させる事で、 
ニヒルでかっこいい男の中の男だと認識させる。 

こうして漫画は小説から独立し、叙述と映像を融合した、 
漫画と映画の中間媒体として社会的地位を確立するのである。 


――― 


『スラムダンク』は、そんな叙述と映像のテクニックを 
極限の域まで到達させた、最も質の高い漫画の1つだ。 
手塚の時代にはただの記号に過ぎなかったものが、 
優れた後進作者によって、読者との共通認識を結ぶ 
"象徴"へと押し上げられていった。 

"象徴"については、またの機会に説明する事にする事にして、 
今回は、井上雄彦の表現力に迫る。 


主人公はバスケット初心者、湘北高校1年の桜木花道。 
桜木は、自分は天才だ、○○はオレが倒す、と放言し、 
天才の自分を夢想しながらバスケットに打ち込んでいく。 
ところが、現実には流川という本物の天才が居て、 
桜木の思い描く通りのスーパースター街道にはほど遠かった。 
桜木は現実を見据え、自分の可能性を絞り込んでいく。 

インターハイ出場を賭けた神奈川予選の翔陽戦、 
桜木は自分自身に3つの目標を課す。 

① 退場しない 
② ルカワより点をとる 
③ リバウンドを制す 

そこに好敵手・花形が大きな壁として立ち塞がり、 
桜木は花形に、てめーもオレが倒す、と宣言した。 

だが、流川は抜群のセンスで次々と得点を重ね、 
桜木はまたしても自分の天才性を目の前の現実に否定される。 
それでも安西先生や赤木の教えを思い出しながら、 
今の自分に出来る事を整理し、リバウンドに専念するが、 
ここでとうとう4ファウルを犯してしまい、 
5ファウル退場を恐れてリバウンドを拾えなくなった。 


桜木は考える。 
お前は天才じゃないんだとばかりに、翔陽から穴扱いされ、 
自分に突き付けられる現実を冷静に受け止めながら、 
諦める事なく、自分の可能性を模索して。 

桜木はこの後の海南戦で、自分に出来る事をこう言った。 
ドリブルのキソ、パスのキソ、庶民シュート、リバウンド、 
少しさびしいが、これが今のオレの手持ちの武器だ、と。 

ここに挙げた4つは、全て練習で身に付けたものだ。 
ところが、桜木が最初から出来たプレイが他にある。 

それが、スラムダンク― 

これこそ天性の才能であり、天才・桜木の存在証明だ。 
桜木は自分の可能性を最後に必ずダンクシュートに託すのである。


桜木はいつも勝負所でこのダンクを決めている。 
そしてその時のマッチアップは、桜木が最初に 
○○はオレが倒すと言った相手だ。 

陵南の仙道、翔陽の花形、海南の牧、そしてヤマオー。 
強敵を前に、ここぞという時に試合を決定付けるダンクを決め、 
○○はオレが倒す宣言を有言実行する。 

翔陽戦では5ファウルを取られ、退場となるが、 
彼は見事に観衆の前で天才の証明が出来たのだった。 

桜木が○○を倒した、と書かれてはいないし、 
桜木が天才の証明をした、とも書かれてはいない。 
ただ、桜木のスラムダンクが観衆を味方に付け、 
翔陽の猛攻に最後まで耐え抜いた、とだけ叙述されているが、
読者には、桜木が有言実行した事が読みとれるようになっている。 


――― 


井上雄彦の表現力は、高い文学性に裏打ちされている。 

『スラムダンク』の最終回には、山王工業との死闘に 
全てを出し尽くした湘北は、続く3回戦、愛和学院に 
ウソのようにボロ負けした、とだけ叙述してあり、 
なぜ、ウソのようにボロ負けしたのかは書かれていない。 

しかし、やはり井上の叙述の裏には真意がある。 

安西先生は5人に対し、ある言葉をずっと投げかけてきた。 

「君たちは強い」 

これは、才能を持った5人がそれぞれの個性を発揮し、 
チームとして1つに纏まった時、どんな強敵でも、 
たとえ相手が日本一の山王工業であったとしても、 
決して引けを取らない強さを持っているという意味に他ならない。 

ところが桜木は、山王戦の最後にマイボールを保持する為に、 
役員席に体を投げ打ってルーズボールを拾い上げる。 

この時、桜木は腰に怪我をする。 
ひと夏をリハビリに捧げる事になる、大きな怪我を。 
これほどの大怪我を負ってしまった桜木が、 
次の愛和学院戦に無事に出場出来たとは考えにくい。 
桜木は欠場したと推測するのが妥当だろう。 

湘北は5人揃ってこそ、「君たちは強い」だった。 
5人揃わなければ、勝利を呼び込んできた桜木が居なければ、 
歯車が噛み合わずに並のチームになってしまうのが、 
明確に語られずとも、読者には伝わるようになっている。 

これが、ウソのようにボロ負けした理由である。 
桜木が欠場したからボロ負けした、とは書かれていない。 
しかし、それが容易に想像出来る。 

これは、文豪ヘミングウェイが残した「氷山理論」という、
れっきとした純文学のテクニックである。
井上雄彦の表現力は、文学作品と比べても遜色がなく、 
ただの漫画ではない、漫画文学とも呼べる作品へと昇化させた。 


――― 


日本では今、活字離れが懸念されている。 
小説を読まない層が増え、活字文化が衰退していると。 

しかし、普通に考えればそれは当然の流れだと言える。 
なぜなら、日本には漫画文化が根付いたからだ。 
井上雄彦のような高度な文学技術を持った作家が、 
どんどん漫画家になるから、小説の存在感が薄まった。 
今や優れた文学性を持った作品は漫画の方が多いだろう。 


それを証明すべく、次回は、川端康成の文学と 
あずまきよひこ『よつばと!』を比較してみよう。
 


ご清覧ありがとうございました。

【入門】よつばと川端康成

よつばと

↑父ちゃんの視点から見たよつばは楽しそうだ。


『よつばと!』は面白い。 
だけど、その面白さを理論的に語ろうとすると、 
途端に難しく、訳の分からないものになってしまう。 

だが、構造は極めてシンプルだ。 

作者のあずまきよひこは、元々『天地無用』などを 
パロディにした漫画を描いていた背景があり、 
特徴を捉えるのに必要な、抜きん出た観察眼を持っている。 
その眼を使って、よつばという女の子を観察しながら、 
今度は日常生活をパロディにしているのである。 

『よつばと!』が日常生活の描写作品だというのは少し違う。 
この作品はあくまで、よつばを描いている漫画だ。 
しかしその描かれ方は、よつばを直接描写している訳ではない。 
Yotsuba&!とある通り、「&の人達」から観察した 
よつばが体験する夢のような日常生活を表している。 


つまりこう↓ 

&の人達 < よつば < 日常生活 

※「&」は直接には日常生活を見ていない。 


それを証明するように、この作品には映画的な 
三人称視点のカットが用いられている。 
よつばが主人公なのだが、よつばの視点から見たカットは 
1巻から通じても、1度も描かれた事は無い。 


こういった描写方法は、川端康成なども用いていた、 
モダニズム文学のテクニックの1つである。 

探偵「シャーロックホームズ」は、いかに頭が切れるかを、 
助手「ワトソン」の視点を通じて、強調して描写されている。 
川端康成も同様に、いかに出会った女性が美しかったかを、 
男性の視点を通じる事で、強調されている。 

『雪国』では、島村は語り手であり、読者は 
島村が愛した駒子の姿を、島村を通じて見ている。 

川端は、駒子の視点から見た情景の美しさを強調する為に、 
作品作りに必要だと思われていた物語性までを放棄し、 
その一点を伝える事にのみ全力を傾けているのだ。 

『よつばと!』も、ストーリーテリングと呼べるものは無い。 
お涙頂戴でもなければ、家族の素晴らしさを描いてる訳でもない。 
よつばの視点から見た平凡なはず日常生活は、 
退屈する事のないネバーランドのような世界なのだと、 
その一点にのみ成否を賭けて描かれているのである。 


「&の人達」から見た日常の風景は、つまらないものだ。 
例えば、急にどしゃ降りのにわか雨が降る。 
恐らくこれをほとんどの人が嫌がるだろうと思う。 

ところが、よつばはそれを楽しむ事が出来る。 
おおーすっげぇーと、どしゃ降りの中に駆け出し、 
両手を挙げて雨を迎え入れ、大喜びするのだ。 

「父ちゃん」はこれを見ながら、 

あいつは何でも楽しめるからな 
よつばは無敵だ 

と言った。 

よつばが見る世界は、常に遊びに満ち溢れている。 


川端作品では、女性をときに花に例えており、 
『椿』では、椿の木の成長を文子に投影させて、 
少女が大人になり、美しく咲き開いていく様子を表した。 
『よつばと!』でも、よつばは名前の通り、 
幸福をもたらすクローバーを表している。 
「&の人達」は、よつばが楽しむ日常生活を見て、 
たくさんの幸福を手にしている事だろう。 

そしてそれは読者も同じ事だ。 
あずまきよひこの高い技術で描かれた日常風景の絵だけを見て、 
リアルだと思う人は居ても、楽しいと感じる人は居まい。 
よつばの快活な視点を通すからこそ、楽しくなるのであり、 
これを読んでいる間が、至福に感じるのだと思う。 
読者も「&の人達」の中の1人。それゆえに、 
作品の世界に没入するような感覚が味わえるのである。 


要するに、川端作品が示すテーマである美しさが、 
楽しさに置き換わったのが『よつばと!』という事だ。 
両者の描写技術だけを比較したら、殆ど遜色が無い。 
あずまきよひこは、それほど高い技術を駆使している。 

思えば川端も、少女をよく題材にしていた。 
描くテーマが違えど、描く対象が同じというのも、 
非常に興味深いものである。 

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ご清覧ありがとうございました。

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