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2012年04月

【少女漫画論】(4) 漫画家・矢沢あい


ご近所物語

↑矢沢あいの転換点・『ご近所物語』の本誌掲載順は後ろの方だった。


日本性教育協会の青少年行動調査によると、 
少女漫画のメインターゲットだったティーン層の性経験率が、 
1987年の調査からはっきりとした上昇傾向が見られる。

 参照:青少年の性行動調査 第6回

フェミニズムは、こうした性行動への変化を齎した。
啓蒙主義が旧来の価値観である宗教性を排除したように、
美徳とされてきた道徳的な抑制まで後退してしまった事が、 
男女の主客逆転のきっかけを作っていったのである。

恋愛の入門書として愛読されてきた少女漫画は、 
90年代前半まで、まだ旧来の"女性らしさ"に縛られていた。
ところが、少女漫画に出てくる「白馬の王子様」が、
現実にはどこにも居ない事を、女性はとっくに気づいていたのだ。

87年、女子中高生の登校前の「朝シャン」が社会現象になり、
88年、私立高校の制服がブレザータイプにモデルチェンジを図る。
89年、渋谷に集まる10代のファッションが「渋カジ」と呼ばれて注目され、
同時期には、ティーン向け雑誌『セブンティーン』が
少女漫画の連載を中止し、アイドルなどの芸能情報も削って、
ファッション雑誌として方向転換を図り、部数を大幅に伸ばした。
女性は男性の首に縄を付けに自ら積極的に動いた。

90年代に入ると、男性が記号化した"清楚"で"可憐"な
「女子中高生」のイメージが、音を立てて一気に崩れ始める。
92年頃から言葉の乱れを指摘され始めたのをきっかけに、
93年にブルセラ、94年にデートクラブ、95年には援助交際が問題になり、
都心を中心にコギャルが続々と出現していったのである。
彼女達の行動背景には、ファッションが関与していた事は見逃せない。


もはや少女漫画の精神性は化石に変わってしまった。
1995年になると、ついに『りぼん』の部数低下が始まる。
急速な価値観の変化についていけず、時代錯誤の周回遅れとして、
読者との間にバックラッシュが生まれたのである。

しかし、この頃から少女漫画界にも変革が起きていく。 
トレンドに敏感な作家らが、時代のニーズに合わせた作品を生み、 
精神性から実利性へと脱却を図ったのである。 
その代表格となったのが、『ご近所物語』の作者・矢沢あい。 
当時の『りぼん』において、この作者は異質であり、 
色とりどりの花が咲き誇る誌面上で、1人だけ浮いた存在だった。 


――― 


少女漫画が男性向けの漫画と違うのは、登場人物が 
以前に解説したキャラクター論に基づいていない所である。 
一般的に漫画の登場人物は、人物全体を類推する"素材"を抜き出し、 
それを誇張して際立たせる事でポジションを置くのだが、 
少女漫画の登場人物は、誇張表現の無い、等身大の人物が描かれる。 
特に、自身へのコンプレックスに立ち向かう描写は鋭く、 
同じ悩みを抱える多くの女性の共感を得る呼び水となっている。 

『ご近所物語』は、そんなコンプレックスにまともに挑み、 
服飾を通じて自分のポジションを得ていく作品だ。 

『天使なんかじゃない』までの矢沢あいは、まだ少女漫画家だった。 
主人公の翠ちゃんが抱える悩みは恋の悩みであり、 
自分に対する否定的な感情の無い、明るく可愛い女の子だった。 
ところが、『ご近所』の主人公である幸田実果子は、 
つり眉で目つきが悪く、チビで胸なしでたらこくちびるで、 
口も悪ければ愛想も悪い、大きなコンプレックスを持った女の子だ。 

翠を太陽のようにいっぱいに花開く向日葵に例えるなら、 
実果子は女の子として実を結ばない、日陰に咲く徒花である。 
そんな花が、『りぼん』のお花畑の中に混じって、 
一生懸命に背筋を伸ばしながら立っていた。 

彼女はこの大嫌いな自分のコンプレックスを覆い隠すように、 
ファッションに身を包み、服飾デザインの道に没頭する。 
彼女にとってファッションとは、『姫ちゃんのリボン』の 
野々原姫子の魔法のリボンと同じ、変身である。 


こんな実果子に、子供の頃からずっと一緒の男の子が居たのだが、 
その幼なじみが、学校で1番スタイルが良い美人と付き合い始めた。 
これがきっかけで、髪をお人形さんのような金髪にする。 

その後も、控えめでとても女の子らしい好意的な子が現れると、 
激しいコンプレックスに晒され、実果子はは自分の事を 
少女漫画の主人公になれない「出来そこないの失敗作」と卑下する。 
だが、その幼なじみがありのままの自分を受け入れてくれた事で、 
彼女も自分の事を少しずつ肯定していくようになる。 


注目すべき点は、直接的な性描写が存在する事だ。 
1991年に連載が始まった『天ない』には無かったものが、 
1995年連載開始の『ご近所』では、10代の男女が 
お互いを受け入れる為の自然発生の行為として描かれている。 

『りぼん』で初めて直接的な性を描いたのは一条ゆかりで、 
20年以上前となる1972年からすでに存在した表現であったが、 
この頃はまだ精神の愛の終着点であり、儀礼的なものに過ぎなかった。 
『りぼん』は部数低下が始まった1995年を変化点に、 
実利としての性を描くように修正が図られたと思われる。 

そしてこの時から矢沢あいも、少女漫画にマッチ出来なくなった。 


1998年、次作となる『下弦の月』の連載が始まる。 
この作品の特異さは、少女漫画の精神性を回帰させながら、 
純文学にも勝る完成度を両立させている点である。 

実利性へと変革した『りぼん』は、96年にデビューした 
新世代の作家・種村有菜の『神風怪盗ジャンヌ』が人気であった。 
『下弦の月』より半年早く始まったこの作品は、 
前作で失敗した伝統的なまどろっこしい精神性を廃し、 
ノリとテンポで明るさを強調し、性描写もはっきりと打ち出した。 

対して『下弦の月』は、月のメトン周期を作中のテーマに落とし込み、 
肉体と肉体でなく、魂と魂が引かれ合う愛を見事に描ききった。 

矢沢あいは、少女漫画家としての"女性らしさ"を捨てずに、 
"個人"として通用する域にまで作品を昇化させたのだ。 
もはや少女漫画家ではなかった。1人の漫画家であった。 


次回は、2000年代の時代の変化を『NANA』と共に振り返りながら、
少女漫画家がどのように"個人"となっていったのかを見ていこう。
 


ご清覧ありがとうございました。

【少女漫画論】(3) 個人の解放


ベルサイユのばら

↑オスカルは女性の身である本然を受け入れている。


"女性らしさ"とは何であるか。 
これを明らかにする為に、まず少女漫画界における不朽の名作、 
『ベルサイユのばら』を見る事にしよう。 


『ベルばら』の主人公であるオスカル・フランソワは、 
伯爵家の令嬢でありながら男性として育てられ、 
フランス王家に仕える軍人でありながら、革命軍に就いた。 

ちょうどこの頃、女性の在り方を問う出来事が起こる。 

オスカルが銃弾に斃れるバスティーユ監獄襲撃から6週間後、 
法の下の平等を掲げたフランス人権宣言が採択されるのだが、 
人権宣言によって保障された権利は「男性」だけが有するものだった。 
この事が、多くの女性有識者からの反発を招き、 
200年にも及ぶフェミニスト運動の引き金となったのである。 

フェミニズム運動の先駆者であるメアリ・ウルストンクラフトは、 
こうした人権宣言にはらむ性差の矛盾を指摘し、 
特に、この宣言の論理的基盤となった『社会契約論』のルソーが、 
プライベートでは愛人テレーズに5人の子を産ませながら 
いずれも認知しなかった事について、男性が女性に要求する 
従属的な愛からの独立を訴え、痛烈に批判した。
 
彼女は女性教育を推進し、この思想は盟友トマス・ペインによって
後にウーマンリブの先陣を切ったアメリカに持ち込まれる。


オスカルが、従者であり恋人であるアンドレと共に歩んだ道は、 
ウルストンクラフトが望んだ理想であったに違いない。 
アンドレと一夜だけの愛の誓いを果たした後、 
彼女は腐敗した王室から市民を救う為に、戦場へと身を投じた。 

オスカルはずっと女の身である事に苦しめられてきた。 
近衛連隊時代の部下からのプロポーズも破談させ、 
フェルゼン侯爵への報われぬ恋慕も断ち切っている。 
父親から与えられた男性としての立場に雁字搦めにされてきたのだ。 
しかし、彼女は"女性らしさ"を捨てなかった。 
アンドレを受け入れ、女の身である本然を受け入れた上で、 
王室軍人という束縛から、"個人"へと解放される事を望んだ。 

ここに、フェミニズムの本質を見る事が出来る。 

オスカルの名言を振り返ろう。

 神の愛に報いる術も持たないほど小さな存在ではあるけれど… 
 自己の真実のみにしたがい、一瞬たりとも悔いなく与えられた生を生きてきた。
 人間としてそれ以上のよろこびがあるだろうか。

 自由であるべきは心のみにあらず!
 人間はその指先一本、髪の毛一本にいたるまで、
 すべて神の下に平等であり、自由であるべきなのだ。

バスティーユ監獄に上がる白旗を見届けた時、 
オスカルの自由と平等と友愛は達成されたのである。 


――― 


フェミニズムは、啓蒙思想から生まれた自由主義に根ざしており、 
"女性らしさ"からの開放を訴えてきたものではない。 
ウルストンクラフトがルソーへの反論として女性教育の重要性を説いたのは、
"個人"の発露を目的とし、社会通念上の問題を解決する事に意義があった。

戦前、日本では女子教育の基本方針として良妻賢母主義が掲げられ、 
幼くしては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従え、という、 
「三従の教え」により、女性は男性の客体である事を求められていた。 
この教えに反発したのが、かの有名な平塚雷鳥である。 
彼女は1911年に創刊された婦人文芸誌『青鞜』で、こう述べた。 

「元始、女性は太陽であった」と。 

雷鳥の主張は、家父長制の否定が目的ではない事が、 
この続きの文面を見れば分かるだろう。 

 然らば私の希う真の自由とは解放とは何だろう。 
 潜める天才を、偉大なる潜在能力を十二分に発揮させる事に外ならぬ。 

日本のフェミニズムの歴史は、この言葉から始まっている。 
この頃はまだ女性の社会進出への偏見が根強く、 
政治的・社会的要求のほとんどは退けられ、認められなかったが、 
戦後、ウルストンクラフトの思想がGHQによって日本に流入し、
女性の高度教育が推進された事で、"個人"は高まりを見せていき、
1972年の勤労婦人福祉法、85年の男女雇用機会均等法の成立へとつながる。

女性は男性の客体で無くなり、女性としての主体を勝ち取ったのだ。


――― 


しかしこの後、女性による社会活動は"個人"には目的が向かなかった。
"個人"を取り巻く社会通念の打破こそが目的となり、
社会の中でいかにして潜在能力を発揮し、自分のポジションを得ていくか、
その点が置き去りにされたまま、フェミニズムは官制事業となった。


『ベルばら』にはもう1人、"個人"を発揮した女性が登場する。
ルイ16世の王妃でありながら、フェルゼン侯爵との禁断の愛を受け入れた、
マリー・アントワネット、その人である。

フェルゼンはマリーに自分が婚約した事を伝える。
マリーはフランスの王妃、フェルゼンはスウェーデンの貴族。
絶対に結ばれる事などないのだが、マリーは国王がオペラを開催した夜に
茂みで偶然に出会したフェルゼンへの愛をこう語っている。

 わすれてくださいいまは!
 わたくしが王妃であることを!!
 愛していますフェルゼン!もうどうすることもできないほど!

作者である池田理代子が表現しようとしたのは、
しがらみの中で生きる女性の「自己の真実」であったと思う。
マリーもまた、主体性を持って自分の進みたい道へと進み、
たとえそれが誤った道であったとしても、
誇りを捨てずに、毅然とした姿で断頭台へと向かう。

漫画を描くという事は、それ自体が"個人"の表現であり、
少年漫画だろうが少女漫画だろうが、同じである。
少女漫画の精神性が失われていったのは、"個人"の高まりによって、
「男性からのアプローチをずっと待ち続ける」といった、
旧来の価値観が値打ちのないものになったからで、
"女性らしさ"を否定せんが為ではなかったと述べておきたい。

官主導で進められたフェミニズムが行き場を失っているのは、
こうした主体性が既に失われているからだとは言えないだろうか。


少女漫画における主体性とは何か、より時代を進めて、
今度は矢沢あいの『ご近所物語』からそれを見てみよう。
 


ご清覧ありがとうございました。

【少女漫画論】(2) 少女漫画の衰退


りぼん

↑『りぼん』の部数低下の推移。有望な新人は多く居たはずだった。
 引用:Love Dream Smile様より


少女漫画は元来、思春期の少女が持つ精神の愛を謳ってきた。

ところが、 実際の恋愛市場において精神性が二の次に置かれた事で、
若年層の間で性経験率の上昇傾向が見られるようになり、
女性は早いうちからファッション雑誌を手に取るようになった。

女性による主導権の掌握は、男性の理想のヒロイン像を打ち砕いたばかりか、
旧来の価値観に縛られたコンテンツも古くさいものに変えてしまい、
少女漫画の精神性は女性のニーズを満たさなくなったのである。
2000年代に入ると、作風も実利優先へとシフトしていき、 
いよいよ精神の愛が一気に廃れていく事となった。 


少女漫画界の絶対王者は、集英社発行の『りぼん』であった。 
ところが2002年、発行部数で小学館の『ちゃお』に抜かれてしまう。 
そして2006年には講談社の『なかよし』にも抜かれ、 
2011年に2位に返り咲くまで、業界最下位の辛酸を舐め続けた。 

『りぼん』は70年代~80年代後半にヒットした 
"おとめちっく"と呼ばれる作風を90年代後半まで引きずり、 
水戸黄門のような偉大なるマンネリ状態にあった。 
70~80年代と言えば、第二波フェミニズム運動の真っ直中である。 
『ときめきトゥナイト』『ポニーテール白書』『星の瞳のシルエット』と、 
かつて隆盛を誇った時代の伝統的なコンテクストを、 
『グッドモーニング・コール』『ベイビィ★LOVE』など、 
現代風の絵柄が描ける作家がそのまま継承したが、 
もはやそれは星飛雄馬が流す涙と同じ、古めかしいものだった。 
その点、『ちゃお』は何もかもが新しかった。 

一部の少年誌でも部数低下の傾向は顕著に見られるが、
例えば『少年サンデー』の場合だと、新人育成に失敗して
連載作品の新陳代謝が図れなかった事が大きな原因となっている。
ところが少女漫画の場合、有望な新人は発掘できていても、
その新人らに旧来と同じものを描かせ、独自性を出さなかった事が、
時代の変化に対応できなかった原因として挙げられよう。
これが少女漫画の世界に起きた、バックラッシュの顛末である。


――― 


『りぼん』の現在の発行部数は、250万乙女に支えられた 
黄金期の10分の1以下となる21万部まで落ち込み、
これは同社がティーン向けに発行しているファッション雑誌、 
『SEVENTEEN』の発行部数である35万部をも下回っている。 
児童から中高生まで幅広い守備範囲を誇っていた少女漫画が、 
ティーン層の支持を失った事実を如実に表している。

しかし、コミックの発行部数では少し事情が違う。 
王道の中の王道作品『ときめきトゥナイト』を抜いたのは、 
ティーン向け漫画雑誌『マーガレット』と『Cookie』から出た、 
『花より男子』と『NANA』の2大巨頭だ。 
両作品に共通しているのは、芯がまっすぐで容易に折れず、 
いざとなったら男性にも食ってかかる"強い女性"を描いており、 
現代の女性のニーズに合致している点である。 

こういった作風の変化は、2000年代に入ってから顕在化してきた。
流行を取り入れ、必要あれば精神性をもかなぐり捨てた。
特に矢沢あいはファッションにも精通していた事から、 
少女漫画から離れていった読者からも絶大な支持を得る事となった。 


次回は、少女漫画がいかにして精神性から実利性へと移ったのか、 
ベルサイユのばら』を見ながら、その変遷を追ってみよう。
 


ご清覧ありがとうございました。

【少女漫画論】(1) 恋愛資本主義


丘の上の王子様

↑丘の上の王子様。キャンディは彼の幻影を追う。


少女漫画というのは、世相というやつを実によく反映していて、 
名作と呼ばれる作品を年代を遡ってずっと読んでいけば、 
男女関係の変遷が見て取れて、非常に面白い。 


現代における恋愛市場は、女性優位だと言われている。 
これをはっきりと示したのが『花とみつばち』で、 
男性を"花"、女性を花から花へ移りわたる"蜜蜂"に例えている。 
女性は華麗に着飾り、しっかりとメイクをして、 
痩身と美肌に注力し、その為にお金をかけることも厭わない。 
男性が女性の気を引こうと思ったら、同じように自己投資し、 
今の女性と同じ市場に登壇しなければならない。 

これに異を唱えたのが、『電波男』の著者・オタク評論家の本田透である。 
彼は自己投資を拒み、二次元コンテンツにお金をかける事を奨め、 
「恋愛資本主義」を完全に否定、キモメンの矜持を掲げた。 

「恋愛資本主義」とは、本田透の言葉ではなく、 
ドイツ歴史学者の筆頭であるヴェルナー・ゾンバルトが、 
1913年の著書『恋愛と贅沢と資本主義』で提示したテーマだ。 
マルクス主義の流れを受け、中世の恋愛観を解説した。 

中世では、宗教観において倹約や貞操が守られてきたが、 
啓蒙主義によって宗教性が排除され、人間の自由が解放された。 
恋愛市場はこの時から奢侈へと傾き、宮廷の女性達は 
吟遊詩人が歌う精神の愛より、自らの手で勝ち取る実利の愛を選んだ。 
これが後のフェミニズム運動につながっていく。 

現代の恋愛市場でも、これと似たような現象が起きている。 
積極的に男性を消費していく女性達を"肉食女子"と呼び、 
強い女性の象徴としたが、中世の頃と1つだけ異なる点があり、 
それが、男性達が恋愛市場から次々と降壇していき、 
蔑みの意味を込めて"草食男子"と呼ばれている事である。 


では、なぜ世の男性は女性優位の市場から去っていくのか。
そこには明確な理由があるはずだ。


――― 


女性には、理想の男性像というものがある。
これがいわゆる「白馬の王子様」と呼ばれるイメージで、
昔の少女漫画を読めば必ず出てきた鉄板のキャラである。

しかし、『はいからさんが通る』の「伊集院忍」にしろ、
『キャンディ・キャンディ』の「アルバートさん」にしろ、
ヒロインを陰から支えるナイト役に徹しているケースがほとんどで、
主体性を発揮していたのはどちらかと言えば主人公の女性の方だった。

両作品が連載されていた70年代当時は、アメリカのウーマンリブを発端とする
フェミニズム運動が最盛期を迎えていた頃である。
日本でも、最初は手塚治虫や赤塚不二夫らが支えていた少女漫画が、
60年代から70年代にかけての女性作家の台頭によって、
多くの優れた作品が生み落とされ、名実ともに女性のものになっている。


少女漫画はこうした社会的な背景を持っている為、
実はそのほとんどが、「王子様」からのアプローチをただ待つ事なく、
自分から理想の男性を捕まえに積極的に動いている。
『シンデレラ』や『眠れる森の美女』のイメージが強い「王子様」だが、
少女漫画の中では、男性はずっと以前から草食だったのだ。

「王子様」に要求されていたのは、イケメンである事と、
自分のモーションに対してだけアプローチを返してくれる事。
「王子様」が自分とは違う女性を選ぶ選択肢はあり得なかった。
こういった都合の良い理想を、現実の男性とすり合わせ、
嘆息をついていたのは、今に始まった事ではない。


――― 


しかし、やはり男性側にも理想の女性像というものは存在する。
永遠の恋人『タッチ』の浅倉南をはじめ、『めぞん一刻』の音無響子、
『銀河鉄道999』のメーテルなど、女性の理想と同様、
自分を陰から支えてくれる献身的なヒロインこそが望まれた。
主体性を発揮するのは主人公の男性であり、女性は自分からのアプローチを
ただ待っていてくれさえすれば、それで良かった。
やはり、女性が自分と違う男性を選ぶ選択権は無かったのだ。
こちらもまた、何とも都合の良い理想である。

現代の女性は、この要求を満たすどころか、 
ファッション資本に包摂されてモードスタイルに傾倒し、
獲物を狩る為なら自分の貞操すら擲ち、実利を得ようとする。
 
こういった女性は、古典的なヒロイン像を思い描く男性の理想には反するだろう。 
二次元コンテンツが一定のニーズを満たしているのは、 
オタクと呼ばれる男性達の逃避場所となっているのではなく、 
実利に走る女性が精神的な満足を与えられないからに違いない。 


つまり、男性の草食化は、男性側だけに問題があるのではなく、 
男女ともに理想を求めて現実を省みなかった結果、
恋愛市場において需要と供給の不一致が生まれた為だと考えられる。 

どちらかが手綱を取れば上手くリード出来るはずなのだが、
どちらも手綱を引っ張って、結局は落馬してしまいそうな状況に陥ってるのだ。
「白馬の王子様」も、キャンディが愛したアンソニーのように、
どこかで落馬して死んでしまっているのかも知れない。


――― 


恋愛の自由化によって確かに女性は強さを確立し、 
主体性において男性より優位に立つほどまでに強くなった。 
しかし男性は、女性に必ずしも強さを求めてはいない。 
そして女性も、男性に草食化を求めている訳ではない。 
男女ともに、男性らしさ・女性らしさを求めているという事だろう。 

このように異性に対し、"らしさ"を求める事を、 
フェミニズムの反対、いわゆるバックラッシュという。 

バックラッシュの本来の意味は、がっちりと噛み合った歯車の 
間に生じる差を表し、機械的な摩擦によって増大するが、 
この場合、男女の歯車が噛み合っていない事を指している。 
お互いの理想と現実の間にズレが生じているのが現状だ。 


では、いつ頃から女性は実利を求めるようになっていったのか。 
その答えを、少女漫画の歴史の中に見る事にしよう。 
バックラッシュ現象は少女漫画の世界でも起きている。
 


ご清覧ありがとうございました。

【キャラクター論】(2) 一刻館の人々


四谷さん

↑五代いるところに四谷あり。"変態"にして"紳士"である。


高橋留美子と言えば、数百にのぼるキャラクター達を 
安定して生産し続けてきた屈指のヒットメーカーの1人で、 
ストーリーにも定評があり、コメディから恋愛物、冒険劇に至るまで、 
幅広いジャンルの作品を残してきた事で知られている。 


高橋の作るキャラクターは、とても個性的だ。 

漫画では一般的に、人物の表情に差を付けてキャラを立てる。 
例えば、『HUNTER×HUNTER』の冨樫のキャラは、 
複雑に入り交じった人間性を、人物の表情で形而的に描き分ける。 
評論家の斉藤環は、これを「顔の固有性論」と呼んでいる。 

高橋の場合、表情で分類されるのはボケとツッコミの立場のみ。 
ボケの方が真顔で冷静、ツッコミの方が感情的、など。 
その代わり、人物を構成する"素材"に大きな落差を持たせ、 
強烈な印象を残すキャラに仕立てている。 


高橋のキャラは基本的に、2つの"素材"で構成されている。 
現実 ⇔ 非現実、常識 ⇔ 非常識、日常 ⇔ 非日常と、 
相反する"素材"を同じ人物の中に同棲させているのが特徴である。 

"冷血な雪女"かつ"お金に汚い"おユキさん。 
"ボクサー"なのに"食い意地の張った"畑中耕作。 
"恐ろしい半妖"だけど"主人に従順な"犬夜叉、他。 

理屈は野茂英雄や佐々木主浩のフォークボールと同じ。 
ストレートボールに威力があるほど落差が活きてくるように、 
彼らが真面目な顔で真剣に"素の素材"を演じれば演じるほど、 
"もう1つの素材"とのギャップが生まれ、面白くなる。 

このように、2つの"素材"を渾然一体に描く事で、 
カオティックでハチャメチャな人物が出来上がるのである。 
昨年12月にドラマ化された『らんま1/2』では、 
この2つの"素材"を分割し、別人格として成立させた。 
これも、高橋のキャラ作りに礎があるがゆえに可能だった訳だ。 


――― 


『らんま1/2』から10年前、小学館発行の少年サンデーにて、 
初の連載作品である『うる星やつら』を連載していた高橋は、 
同社の青年向け漫画誌・ビッグコミックスピリッツにて、 
1980年より『めぞん一刻』の連載をスタートさせた。 

『めぞん一刻』は、一般的にはラブコメディに分類され、 
恋愛物としてスポットが当てられる事が多いが、 
この作品の真価は、主人公・五代が暮らす一刻館の特異性と、 
五代を取り巻く人物の"素材"をストーリーに綿密に絡ませる、 
高橋の計算された構成がなされた点にある。 

一刻館には、実に個性的な面々集まっている。 
浪人生の部屋に集まってどんちゃん騒ぎを始めるような、 
五代をして「生きた非常識」と言わしめた人物ばかりだ。 
『めぞん一刻』の舞台となった時計坂には、 
スナック、テニスクラブ、学校と、様々な場所が登場するが、 
そこに息づく人々は常識を持ったキャラとして描かれるのに対し、 
一刻館の住人だけは、るーみっくわーるどのDNAを継いだ 
明らかに異質なキャラとして描き分けれている。 


その中でも、2つの"素材"の落差が群を抜いて激しく、 
一刻館の特異性を象徴する住人が、「四谷さん」である。 

「四谷さん」は、身なりや口調は"紳士"でありながら、 
思考や行動は"変人"そのもので、趣味はのぞき、特技はたかり。 
隣のに引っ越してきた五代の部屋に穴を開け、 
事あるごとに五代のプライベートに干渉していき、 
五代とヒロイン・響子との関係性をややこしくしている。 

一見するとこの人物、五代の邪魔をしているように見える。 
しかし、ストーリーを注意深く追っていくと、 
実はただの1度も、五代と響子の縮まらない関係を 
本気で害した事がない事に気づくだろう。 


この変態紳士が、どのように五代達と関わったかを振り返ってみる。 

まずは五代の最初のガールフレンド「七尾」。 
五代が部屋の穴を塞ぎ、密室で2人っきりの状況を作り上げた後、 
いいムードになって、いざ迫ろうとした所で、 
再び壁を壊し、穴の奥から「お・ま・た・せ」と出てくる。 

続いて五代の教育実習先の女子生徒「八神」。 
腰の引ける五代の部屋に強引に押し掛けてきた時に、 
「八神」を自分の部屋に引きつけ、管理人室に逃げ込んだ五代に 
遠回しに弥明後日までの夕飯をたかっている。 

「四谷さん」は、五代の本命ではない女性には邪魔をするが、 
五代の意中の相手である響子へは間接的なアシストをしており、 
甲斐性の無い五代と、踏ん切りの付かない響子を 
何かと気にかけ、2人の間を取り持とうとしている事が分かる。 
その証拠に、五代が響子と結ばれた事を告白するシーンでは、 
「よかったじゃないですか」と、純粋な笑顔で祝福した。 

このように、自分のキャラを確実にストーリーに絡め、 
読者の印象に残るような登場の仕方をしているのである。 


――― 


『めぞん一刻』では、たとえ脇役であっても 
ストーリーを動かす着実な布石として用いられており、 
囲碁の名人の一手がごとく、キャラを無駄に使わない。 

例えば、 五代と響子の関係が壊れかねないラブホテル事件が起きた時、 
事件の原因はいかにも"扇情的"な「朱美さん」が作り、
「七尾」のいつもの"かん違い"が大きな誤解を生んで、
「二階堂」の"鈍感さ"が誤解を解くきっかけになっていたりする。 

話のダレがちな終盤になっても、それぞれのキャラがきっちり顔を出し、 
納得の行くストーリー展開を生んでいるのである。
後発キャラの「二階堂」まで無駄に使用しない辺りは流石としか言いようがない。


近年における漫画では、キャラは消費するものになっており、 
"素材"がその人物の全体像を表さなくなってきている。 
ファストフードのように適当な味付けでも、お腹を満たせれば
読者はそれで満足だろうが、"素材"の味を知る事もまた必要であり、
それを教えるのは優れた作家にしか出来ない事なのだ。
高橋はそれが出来る、漫画界の三ツ星シェフである。

人間性を描く事は、作品を残す上での根幹だと言える。 
それが表面的であるほど、読後には軽い印象しか残らない。 
漫画においてキャラクターが最も重要だと言われる所以はここにある。 

『めぞん一刻』に触れれば、漫画の何たるかが分かるだろう。

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    ブログヒストリー
    ・2012年4月
     LivedoorBlog開設
    ・2012年11月
     漫画感想カテゴリで初の1位
    ・2013年1月
     総訪問者10万人達成
    ・2013年8月
     火垂るの墓の考察記事が検索1位に

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