崖の上のポニョ

↑ポニョにとってのユートピアは、陸の上にあった。


ジブリ映画考察の第3回は『崖の上のポニョ』です。

【ジブリ考察シリーズ】
 第1回 『千と千尋の神隠し』
 第2回 『火垂るの墓』
 第4回 『ハウルの動く城』


このアニメは、『もののけ姫』から変化を続けてきた、
宮崎駿監督作品の集大成と言えます。

生と死の側面から見た謎の多いストーリーの考察は、
他のサイトに沢山ありますので、そちらを参照して頂くとして、
当道場では、宮崎監督自身にスポットを当てて、
この作品が生み落とされるに至った理由を考えていきます。


『崖の上のポニョ』は、宮崎作品の中でも異色の存在で、
これまでの作品と決定的に異なる点があります。

それは、ストーリーから主体性が欠如している事。

過去の主人公は、ナウシカにしろ、アシタカにしろ、
ストーリーの中心に位置し、主体性を持って世界を動かしていました。
こうしたい、こうありたいという理想や願望があり、
現実の世界をそれに近付ける明確な目的があったのです。

ところが『ポニョ』の場合、アプローチの仕方が違います。
ストーリーの主体性を握るのは、フジモトやリサ、グランマンマーレなど、
事情を知っている、もしくは知らされた周りの大人達で、
宗介とポニョは、その大人達の都合によって動かされています。
まだ5歳の子供達、生きる目的なんて背負っていません。

「主体性が感じられない」という批判を散見しますが、
宮崎監督は初期の頃から、キャラの主体性を重視されてきた方。
それもまた狙って作られていると考えるのが妥当です。

ではなぜその監督が、『ポニョ』から主体性を奪ったのでしょうか。


―――


ストーリーを簡単におさらいしてみましょう。
まず、ポニョの起こした危機について触れてみます。

ポニョはなぜ宗介の住む町を水没させたのか?

これは、月の影響が関係しています。
高校の教科書などに書かれてある通り、潮の満ち干きは、
月の重力によって起こされ、月が地球に近づいてくるというのは、
その影響をより強く受けるようになる事を示しています。

ではなぜ月が近付いてきたのかと言うと、 ポニョの魔法で
地球が4億年前のデボン紀の姿に戻ろうとしてたのだと思います。
かつての月は、今よりも地球に近かったそうで、
地球に及ぼす潮汐力も大昔の方がより強く、
この為、海水準もずっと高かったと言われてます。

デボン紀は特に海の生き物が繁栄した時代であり、
フジモトら海の眷属は、魔法の力を凝縮させた生命の水を使って、
4億年前の地球の姿を蘇らせようとしていたと推察されるのです。

それが、ポニョが起こしたミステイクによって、
月が地球に近付きすぎてしまい、衝突しそうになっていました。


この時の距離をきちんと計算された方もいらっしゃいます。


引用:第93回 「崖の上のポニョ」の謎 (~康平PAGE様)
http://homepage3.nifty.com/kouhei1016page/Math/Math093.HTM


計算によると、通常38万km → 10万kmまで接近していたとの事。
「あれが見えないんですか」とフジモトが指差した月は
明らかに大きく、衝突間近だった事が分かります。


引用:地球と月の距離 (~月世界からの報告様)
http://www12.plala.or.jp/m-light/Distance.htm


月と地球の距離は年間で約3cmずつ離れていってるそうなので、
デボン紀における月までの距離は、

3cm × 4億年前 = 12億cm(1万2千km)

ほど近かったと推定されます。つまり、

38万 - 1.2万 = 36.8万km

これが、4億年前の地球の姿です。
10万kmまで接近した事がいかに危険だったか分かると思います。


―――


作品のテーマを読み解く上でもう1つ重要なのが、
「月」が"女性"の、「海」が"愛"のメタファー(隠喩)である点です。

神話に出てくるアルテミスやセレーネなど、女性はよく「月」に例えられます。
月経周期が月の朔望周期(29.5日)と重なっているからでしょうか。
そして、母親となった女性が捧げる愛情は「海」に例えられます。
母の愛は海より深し、月の接近による潮汐の変動は、
そのまま地球が「母親の愛」で満たされる事を象徴していると言えます。

『崖の上のポニョ』には、3人の母親の存在があります。
リサ、グランマンマーレ、船に乗ってたお母さん。
全ての命は母親から生まれている、というメッセージを、
わざわざ3人も使って説明している事から、
宮崎監督はこの作品の重要なテーマとして、
「母親の愛」を組み込んでいると推察する事が出来るでしょう。


『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』、『ハウルの動く城』の3作品は、
いずれも主人公過酷な運命を最初に背負わせる事で、
作品のテーマを定義付けて主体的に物語を動かしてきました。
宗介とポニョにはその定義付けを、はっきりと持たせてはいないのですが、
やはりそれは2人の母親が関係しているのです。

大人の視点から見れば、ポニョは災厄の使者です。
トキさんも「人面魚が出ると津波が来る」と恐れてました。
ポニョだって本当は、「わるいまほうつかい」に違いないのです。
だけど、町に災厄を齎した事さえ気付いていません。
純粋であるゆえに、ただ宗介に会いたい一心で、
生命の水のバルブを開き、海の力を解放してしまっています。

宗介にしても、「ポニョ、そーすけ、すきー」という言葉に、
「ぼくもだよ」とただ答えているだけです。
その言葉にはまだ"愛"と呼ぶほどの覚悟はありません。
2人はまだ5歳、自分達の進むべきを主体的に選ぶ事の出来ない、
まだ母親の庇護下にある子供だからです。

グランマンマーレは宗介とポニョに、覚悟を問います。
これにはフジモトも大人の意見として「まだ早すぎる」と反対してますが、
グランママはリサと相談して2人を大人にします。


最後に宗介とポニョが、大人の誓い=キスをした事で、
魔法の力が解け、月の衝突は回避されます。

即ち、接近した月を元の38万kmの距離に戻すというのは、
過剰な"愛"の庇護下に置かれ主体性を失った子供達が、
母親から離れ、自らの足で自立を果たすという事に他なりません。
分かり難いながらも、この作品のテーマはきちんと帰結しているのです。


宗介とポニョから、世界のあるべき姿を取り戻すという目的を奪ったのは、
宮崎監督の狙いが、作品に隠されたメッセージではなく、
表面的に展開される純粋無垢な子供達の心の交流を伝える事を
主眼に置いていた為であると考えられます。

ところが、これらの背景を正確に理解しなければ、
子供達が手を繋いで、てくてく歩いてくだけで目的に辿り着く、
実に主体性の無いストーリーのように思えてしまいます。

どうしてこんな作品にする必要があったのか、
宮崎監督自身の背景も踏まえて、さらに突っ込んで考えてみましょう。
道場主の考察はここからが本番ですよ。


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さて、過去作品の主人公は、明確な目的を持っていたと述べましたが、
それはつまり、自らが望まんとする"ユートピア(理想郷)"に、
現実世界を導いていくストーリーであったと思います。

皆が仲良く楽しく幸せに、ハッピーエンドで終わる。
『紅の豚』までの作品は特にその傾向が顕れていますが、
これは哲学者のプラトンやトマス・モアが夢見た、空想的社会主義です。

ユートピア思想は、現実世界ではとっくに崩壊しています。
理想の社会を目指した社会主義国家がどうなったか、
今や説明するまでもありませんね。


『崖の上のポニョ』でも、ユートピアを作ろうとしていた人物が居ました。
それがポニョのお父さんである、フジモトです。
フジモトが目指す理想は、まさに海の中にありました。
作中に出てくる海底には、ゴミが堆積してごちゃごちゃになってます。
ポニョもゴミ山の中のジャム瓶に頭を突っ込んで死にかけていましたね。
海の眷属にとってそれは理想の海の姿ではありません。

宮崎監督の作品は共通して、崩壊した自然の様子を描いています。
そしてその中に人間の生死観も組み込まれている。
人間は自然によって生かされており、敬意や畏怖の象徴として、
自然と共存する姿を理想的に捉えたのが、宮崎監督の自然観です。
言うなれば自然は、監督のユートピア文学なのです。
フジモトはそのメッセージの発信者であり、象徴でもあります。

ところがこの作品は、そうしたメッセージをあえて受け取らないように、
フジモトの背景を説明せず、分かり難く描いてます。


デボン期の海の現出は、フジモトにとってはユートピアでした。
しかしポニョは、フジモトを否定するように陸の上に憧憬を抱き、
人間の姿になってまで、宗介と暮らす事を選んでいますよね。
フジモトから見ればそれは、"ディストピア(反理想郷)"です。
そしてフジモトを象徴化した宮崎監督にとっても、
これまでの主体性あるストーリーを否定するこの作品は、
過去作品に対するディストピア文学として定義されるのです。

フジモトが宮崎監督の思想を象徴する存在であるなら、
それを意図的に隠してまで伝えようとしたポニョの存在は、
はたしてどのようなものだったのでしょうか。
これを読み解けば、宮崎監督の真のメッセージが見えてくるはずです。


―――


ポニョはフジモトを「わるいまほうつかい」だと言い、
何をするにしても話を聞かず、とことん逆らい続けます。

しかし実はその陰で、フジモトはポニョの仕出かしたミステイクを
グランマンマーレと協力して挽回し、帳消しにして、
最後にはポニョの意志を尊重し、人間にしています。

フジモトを宮崎監督に置き換えてみましょう。


宮崎監督は常に啓発的なメッセージを発し続けています。
しかし、人間はその忠告を聞かず、自分勝手に振る舞った挙句、
地球環境を危機的な状況に追い込んでいます。

それを、グランママ=月と協力し、愛情で包み込んで、
大人として優しく見守っていく選択をしている。

あれほど空想的社会としての結末にこだわってきた宮崎監督が、
並々ならぬご自身の強い意志を隠されてまで、
ディストピア文学としてのストーリーを書き起こすというのは、
我が子であるポニョを手放したフジモトと同じくらいの、
大変に大きな、苦渋の決断であったと思います。


つまり、ポニョを象徴にして描かれた5歳児とは、
宮崎監督から見た子供の存在="若者"を意味していたのではないでしょうか。
もしこういった解釈が正しいのであれば、
宮崎監督の真のメッセージは、やはりポニョにあるのです。

「君達のしている事は間違いだけれども、君達の意志を尊重する」、と。


これが、ストーリーから主体性を奪った理由でしょう。

フジモトやグランマンマーレに隠された背景を、
私達1人ひとりが自発的に考え、真摯に向き合う事。

宮崎監督の狙いは正しかったと思います。
多くの人の頭を悩ませ、考えさせる事に成功しているのですから。


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『崖の上のポニョ』は、現在ではTV放映を自粛していると言われています。
津波の描写が東日本大震災を想起させるからだそうです。

宮崎監督の強い想いが込められた作品に蓋をしてしまうのは、
私見ながら、監督のメッセージが届かなくなるという事ですから、
無益な若者の1人として、とても残念に思います。

監督、引退されるのはまだ早いですよ。


※ この考察を書いて40日後、2年ぶり2度目となる地上波放送がありました。
  何とノーカット放送。日本テレビも政治的判断を迫られたと思いますが、
  当道場はこの判断を全面的に支持します。
 



ご清覧ありがとうございました。