さて、今月からしばらくジブリ映画の考察をやります。

【ジブリ考察シリーズ】

 第2回 『火垂るの墓』
 第3回 『崖の上のポニョ』
 第4回 『ハウルの動く城』


宮崎駿監督の作品については、『もののけ姫』以降、
誰の目にも分かるくらい、明確な変化を遂げていますよね。
しかし、それがどんな変化であるかを説明するのはなかなか難しく、
特に『千と千尋』に関しては、私も幾度か観た事はありましたが、
雲を掴むような実態の無い理解を得た程度で、
何とも腑に落ちない、もやもやした感じがしてました。

難しさの理由ははっきり分かっています。
私の小さな頭で認識できる理解を越えた作品だからです。
だけど、TVで放送されるのを繰り返し観てるうちに、
もしかしてこの作品は、こういう認識の仕方が
正しいのではないかという気がしてきました。

ちょうどこれは、三島由紀夫の文学と受け取り方が同じです。
何を言ってるのかわからねーと思うが(ry

…って思われてるかも知れませんが、昨日の放送で
私が感じた事のそのままを、ここに記したいと思います。


―――


名は体を表す―

『千と千尋』を観て、私が最初に抱いた感想がこれでした。
千尋の無意識の中にある"名前"を、言葉に発する事で、
千尋の"体"をつなぎ止め、意識を生み出している。

庵野監督の『エヴァンゲリオン』のようにキーワードを散りばめ、
解答に誘導するヒントを出す事も、この作品にはありませんでしたが、
宮崎監督のメッセージはある程度は分かりました。


最初は、そこで考えるのを止めました。
それ以上の感想が出てこず、あぁこれだったら、
昔のジブリ作品の方が分かりやすくて面白かったな、と。

この感想は、半分は正解で、半分が大間違いでした。
私はストーリーに必然性を求め過ぎていました。
おそらく私の他にも、同じように千尋の行動に必然性を求め、
そしてそれがこの作品の認識と一致しなかった為に、
「面白くない」と感じられた方が居ただろうと思います。


2回目に観た時、認識の不一致が違和感として残りました。
もしかしたら「面白くない」という一言で片付けてしまうのは
勿体ないほどの質量を備えたメッセージが、最初に感じた、
「名は体を表す」という言葉の奥にもっと隠されているのでないか。

この後、"名付け"の行為に関する文献を徹底して読みあさりました。
そこでようやく、宮崎監督のメッセージの真意と、
私の認識がどうしようもなく浅薄だった事に気が付きました。

この作品は、ストーリーの必然性なんて最初から求めていない。
千尋の頑張る姿を、無意識の内に感じるのが正解なのだと。


―――


『千と千尋』は、大乗仏教で言う「唯識論」に基づいた、
他者と自我の認識の在りようを背景にしていると思われます。


冒頭の場面、千尋は新天地となる引っ越し先でも、
前の学校の友達との思い出を引きずり、心を閉ざしています。
新しい家、見慣れぬ場所、長く続いた暗闇の奥、
自分の世界の外にある他者を受け入れられません。
それどころか、「嫌だ、嫌だ」と口にし、他者を拒絶する事で、
どんどん意識が消沈し、自分をも見失いかけてます。
まるで赤子のように依るべき両親の手に引っ張られないと
一歩も前に進めない、「心ここに在らず」の状態です。

幸か不幸か、これが千尋の命運を分けました。
他者の世界に土足で踏み込んだ両親が、豚にされてしまいます。
1人ぼっちになった千尋は、やがて体が透明になります。
他者の世界に居る事を拒み続けた為に、自分が消えてしまったのです。


唯識論では、自我の世界を8つの意識に分類してます。
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識(5感)と、意識(第6感)、
そして無意識の中の末那識(マナ識)・阿頼耶識(アラヤ識)の8つ。
すっげ分かりにくいので、この方に解説してもらいましょう。


シャカ

> シャカ
 フッ、君たち、少し行儀が悪いな。


皆さんご存知、乙女座のシャカ様です。
シャカ様ならきっと、唯識論を分かりやすく解説してくれるでしょう。

恐れながら、唯識というのはどういったものなのでしょうか。


> シャカ
 君たち凡人が出来るのは、目や耳などの5感を使ったものか、
 せいぜい第6感を働かせた意識的な認識にとどまるだろう。

 だが、黄金聖闘士の中でも最も神に近い私であれば、
 無意識の中に存在する第7感、第8感をも引き出す事が出来る。
 それが末那識阿頼耶識と呼ばれるものだ。


末那識…ですか…?


> シャカ
 そう、マナとは"心"を指す。心は"個"そのもの。
 無意識の内に働く、自我を成す為の生への執着心の事だ。

 だが、ひどく残念な事に、愚かな君たちは
 自我の存在にのみ捕らわれすぎている。
 心は澱みきり、他者の心を自我の内に映す事は出来ない。
 セブンセンシズ(第7感)に目覚めるには、
 無我となり、鏡のように清浄な心を持たなければならない。


むうぅ…それでは、阿頼耶識とは…?


> シャカ
 まるで死肉に飛びつく餓鬼の様だぞ。

 アラヤとは、無意識の心のさらなる奥底に"蓄積"されたものの事。
 人間という存在が生まれてから、幾度も生まれ変わり、
 永い間ずっと継承してきた根元的な生命の情報だ。

 個々の意識も、元はただ1つ(唯)の存在だ。
 生命の歴史から見れば、個々の存在など無に等しいだろうが、
 他者より自我の生に執着する君たち弱者の心は、
 自我がここに存在するものだと認識をしてしまっている。
 全ての存在は実体なきもの無常であるのだ。

 自我は他者に等しく、他者は自我に等しい。全ては唯である。
 無我となり無常を知る、それこそがエイトセンシズ(第8感)…。
 人間が神に到達する為の真理なのだ!


エイトセンシズ


> シャカ
 神に最も近い私の素晴らしき教説…。
 しかと心に留めておくが良い。


…あ、有り難うございました!


―――


さて、自分の"心"を見失いかけていた千尋でしたが、
これをつなぎ止めてくれたのが、ハクという男の子でした。

ハクは透明になった千尋の寂しそうな"心"を見つけ、
まるで自分の"心"のように慈しんでくれました。
きっと彼は"セブンセンシズ"に目覚めていたのでしょう。


ここでもう1つ重要なキーワードとして、
"身口意"という言葉を挙げる事が出来ます。

・身 … 行動
・口 … 言葉
・意 … 心

"身口意"は、阿頼耶識の内に蓄積されてきたものです。
3つ全てを一致させる事が、自我の自覚に繋がります。
ですが、普段はこれらは無意識の"心"の奥底に眠っている為、
簡単には思い出す事が出来ません。

なので、人間は忘れてしまわぬように自我に名前を付け、
"口"を使って無意識の中から意識の上に引き出します。


八百万の神を迎え入れる温泉宿を経営する魔女・湯婆婆は、
名前を人間の意識から奪い、契約をさせます。
他者の"身"と"意"を思い通りに操り、働かせる為だと思われます。
千尋を助けたハクも、湯婆婆に名前を奪われており、
自分の無意識にある"口"を思い出せずにいます。

そして千尋も、湯婆婆と契約して「千」と呼ばれるようになりますが、
千尋は名前を奪われる前に、恩人であるハクから、
"意"を強く保って、"身"をもって湯婆婆の所へ行き、
"口"から「ここで働かせて下さい」と言う事を、
つまり無意識に眠る3つの意識の出し方を教わっていた為に、
自我に付けられた名前を失わずにすみました。

"心"を強く意識するようになった千尋は、
以前のように「嫌だ、嫌だ」と"口"にする事がなくなり、
自分と同じくらい大切な他者の"心"を意識するようになりました。
言うなれば、"セブンセンシズ"の目覚めです。


―――


千尋はこの後も、"身口意"を揃えたおもてなしをしていきます。
それがよく表れているのが、リンに教わった"礼"です。

他者を拒絶していた頃の千尋は、お世話になった釜爺に対し、
"礼"をせずにボイラー室を出ようとし、リンに怒られています。
しっかり頭を下げ、「有り難うございました」と"心"から言う事で、
ハクのように他者の"心"を慈しむ方法を覚えていきます。

カオナシを宿の中に招き入れてしまった時も、
千尋はきちんと"礼"をしていますよね。
カオナシは千尋にお礼をする為に手から砂金を出しますが、
これは"意"が、即ち他者を思いやる"心"が揃っていません。
だから今度は千尋がカオナシを怒ります。
「欲しくありません」と、それはもうきっぱりと。


この段階で、千尋は他者の無意識を見抜けるようになってます。
他者の"身"と"口"に、"心"がこもっているかどうかを。
そして血まみれの竜がハクである事も、"心"で理解します。
千尋の自我が、他者の自我と1つになっていたからです。
これはいかに魔女である湯婆婆にも出来ない事でした。

唯識論では、"心"が言葉に捕らわれ、"身口意"が揃わない状態を、
「煩悩」を生み出す諸悪の根元として定義しています。
湯婆婆は普段から魔法を使い、"身"を使っていないので、
姉・銭婆にネズミへと"身"を変えられた坊の無意識を見抜けませんでした。
一方の坊は以前の千尋のように、湯婆婆に手を引かれなければ
外にも出る事の出来ない、"心"を無くした存在でした。
坊は自我をもって湯婆婆の庇護から離れる事で、"心"を得て、
自分の足で立って歩けるようになります。


ハクと"心"を通わせた千尋は、瀕死のハクを救うために、
銭婆のもとへ行き、「ごめんなさい」と"心"からの謝罪を尽くします。
銭婆は千尋の"心"を理解し、許してくれます。

銭婆と別れた後、千尋を心配して迎えに来てくれた
竜の姿のハクに乗って、2人が出会った温泉宿に戻ります。
この途中、千尋はハクの本当の名前を思い出し、
ハクは無意識の中の"口"が、意識として蘇ります。
この時ポイントとなるのは、2人がお互いを完全に理解した事です。
唯の存在として、"エイトセンシズ"に目覚めたのです。


湯婆婆の所に戻った千尋は、最後の仕事に取りかかります。
名前の契約書を破棄し、千尋の両親の本当の姿を取り戻そうとします。

湯婆婆はちょっとしたいじわるで、10匹の豚の中から
豚の姿をした両親を見つけ出せと千尋に言いますが、
"エイトセンシズ"に目覚めたスーパー千尋には、
10匹の中に両親が含まれていない事くらい、お見通しでした。
千尋は正解を言い当て、契約を無かった事にしました。

両親と共に元の世界に戻ってきた千尋でしたが、
"心"はまだ、向こうの世界に置いてきたままでした。
ちょうど最初の頃の千尋と同じ状態です。
しかし、ハクの「こちらを振り向いてはいけない」との"口"に従い、
強い"意"を持って、"身"を前へと進めます。

「もう一度、会える」、この約束を信じて。


―――


唯識論が定義する"名付け"とは、無意識の中にある自分を、
意識の外に取り出し、認識する事を意味するもので、
つまりそれは自分を"象徴"するものでなければならないのでしょう。
「名は体を表す」の言葉は、こうした背景を持っています。

世の中にはDQN(キラキラ)ネームと呼ばれる名前があります。
唯識論の観点から言えば、人から認識されない名前というのは、
"身口意"の「体」を初めから成していない、
親の自我が勝ったものだという事になるのでしょうが、
『千と千尋』は、"名付け"の大切さも投げかけている気がします。


なぜ私が、『千と千尋』にストーリーの必然性を求めなくなったのか。
それは、この作品が頭で理解するのではなく、
心で感じるものである事に気が付いたからだと思います。
広く使い回された、実に凡庸な感想ですが、
これほどぴったり当てはまる解釈も他にありません。

完全に千尋の心になりきり、完全にハクの心を理解して、
そこでようやく、私の心も開く事が出来る。
『崖の上のポニョ』も、これと同じような作られ方をしてます。


頭を使って理解した上で、今度は心の感じるままに、
3度目の視聴となる昨日の放送に臨みました。
あまりに心を開きすぎたせいで、全くの無防備のまま、
エンディングテーマの『いつも何度でも』を聞いてしまい、
不覚にも涙がぼろぼろと出てしまいました。

やばい…木村弓さんの歌声が、ここまで心に沁みるとは。
次に観る時は、しっかりハンカチを用意しておこうと思います。
 


ご清覧ありがとうございました。